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〈帝国〉は大陸の東過半をその版図に収める、大陸世界最大の国家である。
国土の広大さに比例し、その国力もまた大陸世界諸国中、単一の国家として規格外なまでの巨大さを誇り、五百万の将兵から成る常備軍を持って、大陸世界に君臨していた。
それら総てを治める神の代行者たる皇帝は、間違いなく大陸世界最高の権力者であった。
しかし、そんな大陸世界最大最強の国家である〈帝国〉の歴史はさほど長いわけでは無い。
その存在が大陸史へ浮上したのは〈王国〉とほぼ同時期である。
400年前までは、北の荒地を領土に持つだけの小国だった。
であるにも関わらず、200年前の大陸戦乱期に突如として軍事大国として台頭を始めると、大陸統一を神の意志と掲げ、周辺諸国を次々と併呑して勢力を伸ばし、国号を〈帝国〉へと改称した。
以来、領土拡大を旨とした終わりなき統一戦争を続けていた。
そうは言っても、近年は領土拡大も頭打ちになりつつある。
獲得して旨みのある手頃な地域はあらかた奪い尽していたし、併合した大陸中南部で頻発する少数民族たちによる蹶起、肥大化した地方領主の叛乱、大陸極東部の極小国家による粘り強い抵抗、そして何よりも70年前に出現した対〈帝国〉軍事同盟である〈西方諸王国連合〉がその最大の理由であった。
中央四ヶ国と呼ばれる盟主国家を中心として組織された連合軍は、兵力においても〈帝国〉軍と何ら見劣りする所なく、不用意に手を出せば〈帝国〉と言えど痛い目を見るという事は17年前の大戦で証明されていた。
「よーし、よし。このまま進んで、そうだな、あの丘の辺りに降ろせ」
〈帝国〉領空より〈王国〉領空へと侵入した気球船団の先頭を行く船の中で、ワシリー・スヴォ―ロフ大佐は船の操縦員に向けて命じた。
作戦上、最も難所であった国境を隔てる岩山を乗り越え、緑豊かな〈王国〉領東部を空の上から見下ろしているスヴォーロフの声音は興奮が隠しきれていない。
鍛え上げられた肉体に、数々の武勲を成し遂げてきた事を知らせる略章の縫い付けられた、〈帝国〉西方領軍の所属を示す緑色の軍服を纏うその姿は、〈帝国〉軍将校の彫像として帝都博士館にそのまま飾れそうな程であった。
常ならば勇猛ではあるが冷静沈着と周囲からは見做されている彼だが、今はどうしようもない程の名誉に炙られ、やや額の広くなった顔を脂ぎらせている。
当然だった。
〈帝国〉軍史上、いや、大陸世界史上初となる空中を経由した兵員輸送、空中侵攻計画の指揮を任されているのだから、軍人としてこれ以上の名誉は考えられなかった。
「了解。高度下げます。火力、落とせ。暖気、五秒抜け」
「了解。火力落とします」
「はい。暖気五秒」
操縦員がスヴォーロフの指示に従い、彼には分からぬ仕組みで空に浮いている箱舟を操る。
彼らは軍人では無かった。
この計画の為に招集された、帝都の研究機関に所属する機関員だった。
「着陸準備。進路そのまま。両翼、風羽弱く」
「着陸準備、了解」
機関員たちが伝声管に向かって次々と指示や伝達を行っているのを、スヴォーロフは我関せずと聞き流してゆく。
どの道、彼にはこの船の構造も操縦法も理解できない。
ただ、よくもまぁこんなものを思いついたものだと感心していた。
彼らの乗る気球船、正確には“飛空船”と名付けられたこれは、帆船を改造して造られていた。
スヴォーロフの居るこの部屋は、操縦管制室と呼ばれていた。
部屋と呼ぶよりは、船体最下部に付け加えられた箱とでも言った方が適切かもしれないそこは、四方の壁にそれぞれガラスの嵌めこまれた大きな窓と、無数の伝声管が張り巡らされている。
この場所で外の様子を確認しつつ指示を送り、船を操船、いや、操縦するのだった。
甲板には、本来ならば帆が張られているはずのマストを取り払い、代わりに木製の骨格で支えられた、獣皮を張り合わせて蝋で補強した巨大な袋を何本もの太いロープで船体に括りつけている。
そこで燃やされている炎により、熱せられた空気が袋を膨らませる為に絶えず送り込まれているのは、規模を無視すれば大陸世界でもそれなりに知られるようになった気球と同じ原理である。
当然、それでは浮かぶだけだ。
そこで風車に取り付けられているような羽根車、ここでは風羽と呼ばれるものを無数の歯車を噛み合わせた機械に直結させて回転させている。
船体中の多くを占める、この巨大な機械の動力は人力である。
動力源たる人間は船体中央部に床と並行にして据えられた舵輪を回し、無数の歯車がその力を何倍にも増幅して風羽を回転させる。
熱機関を搭載してはどうかと言う案もあったが、重量や大きさから現在の技術では実現不可能とされた。
それに舵輪を回しているのはスヴォーロフの部下である、〈帝国〉西方領軍最精鋭の呼び声も高い西方領第81猟兵連隊の屈強な男たちだ。
今回の作戦にあたり選び抜かれた、精兵中の精兵たちに掛かれば、機械を人力で回す程度の作業は装備を担いで戦場を駆ける事に比べれば何の事でも無い。
「大佐殿、着陸態勢に入ります」
無機質な声の機関員が報告した。
と言っても、全員の声が無機質だったが。
スヴォーロフは顔をガラス窓に押し付けるようにして、外の様子を確認した。
既に、船は山脈を超えた先に広がる森の上空を過ぎ去り、平野部へと達している。
緑の平原にはぽつぽつと小さな村が散在しているのが確認できた。
敵軍の施設らしき建物も見えた。
それらのいずれでも、点のようにしか見えない影がせかせかと動いている。
もちろん、影の正体は人間だった。
その事実に思い至った瞬間、スヴォーロフの全身を熱いモノが駆け巡った。
高揚と、優越感であった。
素晴らしい。
これが、〈帝国〉の力。
そして、俺はその一員。
飛空船が実用化されればどうなるだろうか。
兵を展開させる際、川や山と言った地形障害を無視できる。
この大陸世界の何処であろうと、我々は即座に部隊を展開させる事が出来る。
その為の第一歩を、俺が踏み出したのだ。
身体が震えた。
足元を這いずっている連中は、今頃何を感じているのだろうか。
驚愕しているのか、恐怖しているのか。
或いはその両方か。
自分たちのちっぽけな国と、我が〈帝国〉がどれほど圧倒的に隔絶しているかを理解しているだろうか。
飛空船が高度を落とし始めた。
慣れ親しんだ大地が近づいてくるにつれ、スヴォーロフの中で荒れ狂っていた感情はやがて静まり、後には安堵のようなものが残された。
やはり、人は地面に立つ生き物だという事だろう。
着陸の衝撃が船を揺らすとともに、言葉を発する事無く彼の口が動いた。
さぁ、戦争だ。