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戦鬼の王国  作者: 高嶺の悪魔
第一幕 河川陣地防御戦

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また遅れそうなので、今日は早めに。

 左翼陣地第3中隊第2小隊の小隊長に任じられている、ジークムント・アルホフ中尉は、その内心で不満を燻らせ続けていた。

 彼の抱く不満とは、この大隊内における自らの地位と立場に対するものであった。

 それらの感情は、大隊の他の将校たちに対する侮りと妬みによって湧き出している。

 特に、同じ中尉という階級であるにも関わらず、己を差し置いて中隊長の任へと付いているエルンスト・ユンカースの存在は、何よりも許しがたいものであった。

 大隊では、俺の方が先任の筈だ。

 アルホフは、何度もそう考えていた。

 そうだとも。この大隊で過ごした時間は、奴よりも俺の方が遥かに長いのだ。

 俺の方が、この大隊を良く知っているはずだ。

 なのに、いきなりやって来たアイツが中隊長で、俺が小隊長だと?

 こんな事は、あってはならない。許される事では無い。

 俺の、将校としての尊厳が汚された。

 この三日ほどで、彼はそう思い込むようになっていた。

 嫉妬は何時しか、憎悪へと転じていた。

 憎悪はやがて、他のあらゆるものにまで際限なく拡大されてゆく。

 あの大隊長は何を考えているんだ。この俺が、小隊長? 俺は士官学校での成績も、三年間ずっと上位だったんだぞ。元々の部隊での評価も悪くなかった。

 常識に従えば、中隊長になるべきは俺じゃないか。

 いや、絶対に、俺が中隊長になるべきなのだ。

 ああ、そう言えば。あの大隊長は。そもそも、奴は正規の手続きを経て少佐に成ったわけでも無い。結局は野戦昇進の、不良大尉じゃないか。訓練がどこよりも厳しいと聞いて、この大隊に転属してきたが、兵はおろか下士官まで俺に反発する連中ばかり。

 まったく、軍の部隊としての規律が乱れている。

 大隊監督官の質が知れるというものだ。


 そうした考えを弄び続けていた所へ、予備隊が敵を蹴散らしていく様を見せつけられた。

 彼らを率いて戦っている大隊長の姿が目に映った時、アルホフの中で遂に感情が爆発した。

 同時にアルホフ以外の誰にも、決して理解できないだろう論理によって、彼はとある結論に到達した。

 そうか。奴は、大隊長はまだ、俺の能力に気付いていないのだ。

 彼は、その自分の思い込みを確信した。

 だったら。

「そうだ。認めさせれば良いのだ。認めさせてやる」

 アルホフは小銃を握りしめて、そう呟いた。

「中尉殿?」

 先ほどから、何事かをブツブツと呟いている上官に、小隊軍曹が不審そうな顔を浮かべて呼び掛けた。

「中尉、アルホフ中尉殿?」

 反応が帰って来ない為、小隊軍曹は呼び方を変えて、声を掛け続ける。

「小隊長殿」

 小隊軍曹が、彼をそう呼んだ時だった。

「この俺を、小隊長などと呼ぶな!」

 突然、アルホフが絶叫した。

「は……?」

 唖然とした小隊軍曹にアルホフは鬼の形相で振り向き、歯を剥き出しながら言った。

「我が小隊はこれより、予備隊の逆襲に加わる。総員、装填した後、銃剣を装着せよ」

「何を仰っているんですか」

 アルホフの言った事に対して、小隊軍曹は心底から呆れたような声を出して応じた。

「我々の任務は、この場所を確保し続ける事です。それに、すでに敵は退いています。今さら……」

「黙れ、小隊軍曹!!」

 聞き分けの無い子供に接するような小隊軍曹の態度に、アルホフはさらに激昂した。

「ここの指揮官は俺だ! 俺がやると言ったら、貴様らは従うのだ! 貴様、軍曹にまでなって、そんな当たり前の軍規を知らんなどとは言わせんぞ!!」

 喚き出したアルホフを見て、小隊軍曹は口を噤んだ。

 いや、正確に言えば、絶句していた。

 この中尉が無能である事は疑う余地もないが、ここまで救いようが無かったとは知らなかったからだった。

「兵に装填させ、銃剣を装着させろ! 命令だぞ、小隊軍曹!」

 アルホフはさらに喚き散らした。

 彼は菓子をねだる子供のように、致命的な言葉を口にした。

 ここが軍隊では無く別の組織であれば、無能な上司が喚く支離滅裂な要求に対しても、はいはい、まぁまぁとでも答えておけば良かったのだろう。

 だが、ここは紛れもなく軍隊であり、彼らは軍人だった。

 それが例え、どれほど無茶で、無理な内容であろうとも、上司では無く上官である者からの命令に背く事は許されていなかった。

「本気ですか、中尉殿」

 小隊軍曹は血の気の失せた顔で、上官の真意を問いただした。

 アルホフは当然のように頷いた。

「当然だ。敵は今、潰走の最中にある。その背中へ向けて、決定的な一撃を加えるのだ」

 彼の頭の中には、素晴らしい未来が見えていた。

 敵兵を一蹴し、赫々たる戦果を挙げる自分。

 それは彼にとって、数分後の確約された未来だった。

 そうすれば、大隊長もきっと俺を認めるに違いない。

「急げ、小隊軍曹!!」

 再度、命令を受けた小隊軍曹は全てを諦めたように息を吐いた。

 空っぽになった肺に、大きく息を詰め込む。兵士たちに振り返った。

「中尉殿のお言葉を聞いておっただろう、貴様ら! 何をモタモタしておるのだ、総員、装填! 終わった者は銃剣装着!!」

 兵士たちの顔がさっと青白く染まった。

 彼らとて、アルホフの口にしている言葉が正気の沙汰では無い事を承知しているのだ。

 しかし、小隊軍曹の怒号を耳にしてしまった以上、彼らは従うよりも他にない。

「総員の銃剣装着、確認しました」

「よし。よしよしよし……敵は川の中で苦労しているようだ。奴らが対岸に渡りきるよりも先に、追い付いて、殲滅してやる。斉射を一度行った後、白兵でケリが付く」

 川に入れば、自分たちも同様に苦労するだろうという考えには至らないようだった。

「行くぞ! 小隊、続けぇっ!!」

 アルホフは異常な興奮に包まれながら、壕を飛び出した。

 ここ数日、この穴倉の中に閉じ込められっぱなしだった彼は、開けた視界ほど気持ちの良いものは無いなと思った。

 詰まる所、彼を凶行へと駆り立たせた不満や妬みはただの発端でしかなかった。

 彼の精神は戦闘の齎す重圧によって、既に何処かで壊れてしまっていたのだった。

 壊れた上官の後を、すべてに絶望した兵士たちが続く。

 過去、幾度となく戦場で引き起こされてきた悲劇が、今また始まろうとしていた。


「彼らは何をしている!?」

 左翼陣地から飛び出したアルホフ達を見て、ヴィルハルトは本物の怒声を上げた。

「あれは……アルホフ中尉殿です。現在は、第3中隊、第2小隊の指揮を執っておられるはずですが……」

 余りにも、あまりなその光景に、ヴェルナー曹長でさえ放心したような声を出していた。

 アルホフが向かっている方向へついと視線を送ると、彼はその行動の意味を何とはなしに察した。

「川の中を退いている敵へ向かっています。追撃するつもりなのでは」

「馬鹿野郎」

 ヴィルハルトの声には、憎悪すら生温い、灼熱の感情が籠っていた。

「アルホフ中尉!! すぐに配置に戻れ!! 小隊、突撃中止!!」

 あらん限りの大声で怒鳴り散らしたヴィルハルトの声は、虚しく響いただけであった。

 突撃の最中にある彼らには届かない。

「対岸で敵が射列を組んでいます。撤退してくる味方を援護する為でしょう。あのまま突っ込めば、半数以上が死にます」

 ヴェルナーが冷酷な予想を口にした。

 半数。その言葉に、ヴィルハルトは自らの胸を鷲掴みにした。

 アルホフには今、三十名ほどの兵が続いている。半数。十五名。

 いや、川に入ってしまえば足が取られる。命中率は高くなるはずだ。

 何より、敵は〈帝国〉軍なのだから。

 負傷した者はどうする? 救出の為、さらに兵を送るのか?

 駄目だ。それでは損害が……。

「ううう……」

 ヴィルハルトの喉から、情けない呻きが漏れた。

 この戦争で初めて、自分ではどうにもできない現実に直面して、大きく動揺していた。

 必死に頭を回転させた。

 何か手は無いか。アルホフはともかく、兵士たちを救う方法は……。

 何も無かった。既に、すべては手遅れだった。

 しかし、次の瞬間。

 僅かにヴィルハルトの心を救う出来事が起こった。

 アルホフの率いている兵のほとんどが、川に入るなり転倒したのだった。

 銃をすっかり水没させてしまっている。あれでは戦えない。

 転んだ兵士たちは、びしょ濡れになって陣地へと後退し始めた。

 アルホフの後に続いているのは、一個分隊が精々と言った人数のみだった。

「随分と滑りやすい川底ですな」

 そう言ったヴェルナーの声は、険しさがいくらか失せていた。

 ヴィルハルトは哀しみに近い表情を浮かべ、その言葉に頷いた。

 もちろん、彼らは兵士たちが転んだその理由について、別の意見を持っていた。

「恐らく、小隊軍曹が兵たちに言い聞かせたのだ。アルホフには内密にして、川に入ったところで転べと。奴に付けた小隊軍曹は優秀な男だ、それくらいの事は思いつく。優秀な男だった。申し訳ない事をした」

 ヴィルハルトの視線の先で、遂にアルホフは退いている敵を射程に収められる距離まで到達していた。

 振り向き、自分に着いてきた兵が少ない事をようやく知ったようだった。何かを怒鳴っている。彼が怒鳴っている相手は、小隊軍曹だった。

 兵士はともかく、己が命令違反をする訳にはいかないと考えて、アルホフに着いて行ったのだろう。

「大馬鹿野郎が。敵の前で背中を晒すなんて、何を考えていやがる」

 ヴェルナーが、この上ない侮蔑を込めて罵った。

 将校に対する言葉遣いでは無かった。その必要は無くなるからだった。

 撤退してくる味方を援護する為に、対岸で射列を組んでいた〈帝国〉軍猟兵が一斉に発砲し、アルホフを無能な将校から、ただの人間の死体に変えた。

 ヴィルハルトもヴェルナーも、彼が死んだその瞬間を見ていなかった。

 そんな事はどうでも良かった。

 彼の後に続いた兵士たちが、川底へと沈んで行く光景の方がよほど重要だった。

「畜生」

 ヴィルハルトは五臓六腑から絞り出した怨嗟を、歯の隙間から漏らした。

「あの馬鹿野郎。クソ。こんな事なら、さっさと大隊から追放しておけば良かった。いや、そうしているべきだった。低俗な思考の持ち主だから、|カロリング大尉(貴族)の下に置いておけば問題ないだろうと考えた俺が間違っていた。クソ。畜生。あの野郎。あの大馬鹿野郎」

 奴はきっと、最後の瞬間まで己の正しさを信じて疑わなかったに違いないとヴィルハルトはアルホフを呪った。

 恐らく、奴は今までの人生でずっと、誰の提言にも耳を貸さず、己の過ちを認めず、他者へ己の正しさを押し付け、受け入れない者を蔑んで生きてきたに違いない。

 その能力も、権利も、資格すらないくせに、自分こそが世界の中心であるべきだと考えるような、そうした人間がこの世に確かに存在する事を、俺は知っていたはずだ。

 あの、教会の孤児院で、初等教育の教室で。弟を殴ったあの少年のような。

 己こそが常識だと信じて疑わない大馬鹿野郎が、この世に生きている事を。

 地獄に落ちろ。奴に救済は必要ない。

 未来永劫、業火と極寒に責め苛まれろ。

 奴はそれだけの事をしていったんだ。畜生。畜生め。 

「曹長、損害は……」

「全部で八名です。まったくの、無駄死にですな」

 ヴィルハルトのか細い問いかけに、ヴェルナーが罵るように答えた。

 彼の言葉は、ヴィルハルトの胸を深く抉った。

 同時に、自分の思考のあまりの女々しさに吐き気がした。

 無益に兵を失わせたアルホフをどれだけ呪ったところで、ヴィルハルトがこの大隊の指揮官である以上、全ての責任は彼に在るからだった。

「曹長。左翼陣地に行って、帰還した兵の様子を見て来い。武器を濡らした事について、罰を与える必要は無い。それから、今後、あのような無能な上官からの命令に従う必要は一切ないと、兵には良く言い聞かせておけ。その場合は、場の最上級者の裁可を仰ぐのだ。左翼指揮官にも伝えておけ。無能と断定した部下については、即座に全ての権限を剥奪する事を許可すると。済んだら、速やかに陣地後方へと退避しろ」

「は」

「右翼陣地指揮官には、俺が直接伝える」

続きは2日後。

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