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夜明け前の夜陰に隠れて密かにドライ川を渡ったオスカー・ウェスト大尉率いる別働隊は、森の中を静かに進んでいた。
「どれほど進んだと思う、ファルケ軍曹」
木々の間隔がやや広がっている場所で部隊に小休憩を命じたウェストは、彼が大隊でも特に信頼している下士官の一人であるファルケ軍曹へ尋ねた。
「南東へ1リーグ半と言ったところでしょうか」
木々の梢の隙間から覗く空や、遠くの山々をさっと見渡した後で、ファルケが答えた。
彼の丸い頭の中にある感覚が、下手な測量器具よりも遥かに精密であると知っているウェストは頷いた。
腰の物入れから地図を取り出して、おおよその現在位置を確認する。
小隊のこれまでの移動速度から見て、副道にぶつかるまであと半刻ほどだろうと計算した。
必要な情報を頭に入れて地図をしまうと、ウェストの脳が回転を始める。
副道へ辿り着き、伏撃準備を整えるまでは問題ないとして。
どれほど敵を待たねばならないだろうか。
いや、そもそも敵が既に補給を受け取っていたとしたらどうする。
やって来たのが空の馬車を引きつれた輸送部隊だったら。
その際の指示は受けていない。
つまり、俺で考えろという事か。
ウェストは顎に手を当てると、一瞬で考えを纏めた。
禁止されているのは、敵が輸送部隊では無く攻撃部隊の増援であった場合のみだ。
ならば、その場合であっても、襲撃は実行するべきだろう。
補給を断つという目的が達成できずとも、後方に敵が居ると知れば敵は警戒せざるを得なくなる。
そこまで決断した後で、ウェストは静かに口を開いた。
「あと半刻はこのまま進む。周囲の物音に中止しろ。副道を視界に収められる位置まで辿り着いた後は、伏撃準備を完成させて待機する」
「は」
「軍曹、貴様も少し休んでおけ。この休憩が終わったとは忙しくなるぞ。ただし、兵には装具を下ろさないように徹底しておけ」
彼の言葉に、ファルケは分厚い唇の間からほぅと息を吐き出した。
陣地を発ってから気を張り続けていた為、肉体的な疲労よりも精神的なそれが大きかったのだった。
「大丈夫でしょうか、大隊は」
ファルケはふと、そんな言葉を漏らした。
数刻前から、彼らの背後では地面が腹を下したようなどろどろとした重低音が鳴り止むことなく聞こえ続けていた。
「敵も痺れを切らしたのだろう。恐らくは野砲、擲弾砲、何から何まで前進させて、強硬突撃。そんなところだろうな」
ファルケの素朴な疑問に、ウェストは面白くなさそうに鼻を鳴らして答えた。
「常々、思っていたのですが……」
上官の顔を改めて見上げたファルケが、不思議そうに尋ねた。
「大尉殿と言い、大隊長殿といい、何故見て来たかのように断言できるのでしょうか」
ウェストはファルケの分厚い唇が大隊長と言う言葉を発した瞬間に嫌そうな顔をした。
その表情を変えることなく、部下の疑問に答えた。
「俺の場合は、敵の立場で俺ならばどうするかを考えているだけだ。戦略、戦術面から敵が採用するであろう行動を予測するのは、そう難しい事では無い。だが、奴は……どうだろうな」
今では自らの上官となった人物を奴と言い表したウェストに対して、ファルケは特に感想を持たなかった。
それなりに付き合いが長い将校と下士官は、互いに余計な疑問を持たない。
今更、彼が大隊長をどう呼んだところで全く気にはならなかった。
「実際の所は分からんが、まぁ恐らく、奴なりの判断材料があるのではないかと思う」
ウェストの曖昧な返答に、ファルケははぁと感心したように喉を鳴らした。
この人は確かに、誰よりも大隊長殿を嫌っているが、同時に誰よりも信頼しているのでは無いだろうかと考えた。
一方、ドライ川東方渡河点における戦闘は今まさに趨勢が決せようとしていた。
「目標、100ヤード前方、対岸の敵! 臨時集成第1中隊、突撃に移れぇっ!!」
指揮官の号令一下、川に対して一列に並んだ猟兵どもが爆発の余韻燻る対岸へ向けて、一斉に殺到した。
声高に蛮声を張り上げ、装具を打ち鳴らし駆け出した猟兵たちだったが、川へ踏み入れるとともに前進速度が鈍る。
その気を見逃さずに、先ほどまでは地獄以外の何物でも無かった対岸から、小銃による斉射が始まった。すぐに平射砲の甲高い砲声もそれに加わる。
突撃第一波に参加した者の内、無事に対岸へとたどり着いた者は半数にも満たない。
そして敵の応射はますます激しさを増し、立っている者はみるみる減ってゆく。
しかし、そのすぐ後を第二波が追いかけていた。
第一波の者たちが彼らの盾になっているお陰で、大した損害も無く川を渡りきる。
即座に橋頭堡を確保し、後続の者たちを受け入れて兵力を増して行く。
強引に前進した野砲からの集中的な射撃によって、〈王国〉軍陣地の後方では、未だ爆発が続いていた。
その光景が、猟兵たちを勇気づけていた。味方の大砲が吐き出す轟音と砲弾ほど、戦場で頼もしいものは無い。
さらに、砲撃が始まって以来、〈王国〉軍の野砲は完全に沈黙し続けている。
好機。この上ない好機であった。
彼らは勝利を確信して駆けた。
その確信は、例え死の瞬間であってさえ失われる事は無かった。
「第二波来ます! 平射砲は間に合いません!」
「応射しろ! 銃剣は付けたままにしておけよ!」
右翼陣地で指揮を執り続けながら、ユンカースはじりじりとした焦燥に炙られていた。
敵の後続が後どれほど続くにしても、これ以上は支えきれない事を理解しているからだった。
「敵の一部が突出して、陣地後方を目指しています!」
軍曹が殴りつけるような声で報告をした。
ユンカースはちらりとその敵へ視線を送った後で、再び前方に顔を戻す。
「放っておけ、あれは予備隊がどうにかする。俺たちの仕事は、突破していく敵を可能な限り減らす事だ」
どの道、敵の数が多すぎて全てを押しとどめる事など不可能だった。
突破してゆく敵は、もはやユンカースの任務の埒外にあった。
無論、不安が無いわけではない。
今朝早く、この場での戦闘が始まってから初めて送られてきた伝令によると、予備隊指揮官のウェスト大尉は敵の後方、輸送部隊を襲撃する為に陣地を離れているらしい。
では、今は誰が予備隊を指揮しているのだろう。
あの冗談染みた態度の兵站担当士官か。
俺が来る前は中隊長だったと聞いているから、そうだったとしても不思議ではないが。
しかし、ユンカースから見たエルヴィン・ライカ中尉は、確かに部隊内に一人はいて欲しい人物であると同時、正直言ってあまり戦闘部隊の指揮官に向いているようには見えなかった。
理由はまぁ、あの見かけと態度である。
諧謔味溢れる若者に兵士たちは好意こそ抱くだろうが、己の命が懸かっている命令を受け入れるかどうかは別問題だからだ。
しかし、今は不安を弄んでいる暇さえない。
「敵一個小隊、並足でこちらに近づいてきます!」
「距離を詰めて、一気に突っ込んでくる気だろうな。まったく、嫌になるほど堅実だ」
兵士からの報告を受けて、内心に渦巻く全てを棚上げにしたユンカースはガシガシと頭を掻いた。
今更、何を考えても仕方が無いと達観していた。
この上は、あの大隊長殿の手腕を信じるより他にあるまい。
そう結論を下した後で、ユンカースは目下迫りくる破滅に対処する為、部下に命令を下した。
続きは2日後。




