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それは、味方の砲撃が続いている最中の事であった。
「大隊長殿!」
誰かの切羽詰まったような声に呼ばれ、ヴィルハルト・シュルツ少佐はその方向へと顔を向けた。
どうやら左翼陣地から来たらしい伝令の兵が、息を切らせて駆け寄って来るのが見える。
ヴィルハルトは自分の下へと辿り着いた兵が一息つくのを待ってから、丁寧に応じた。
「何か」
「は! 左翼陣地指揮官、カロリング大尉からの伝令であります。“砲撃は十分以上、これ以上の追撃は不要と思われる。ただちに打ち切られたい”との事であります」
ヴィルハルトは兵から伝えられた言葉を耳にして、こめかみを痙攣させた。
何の意味も無い伝令をわざわざ走らせた人物を、怒鳴りつけたい気持ちをどうにか抑えつける。
「ご苦労。左翼陣地指揮官からの進言は確かに受け取った」
恐ろしい顔で頷き、そして続けた。
「彼女にこう伝えてくれ。却下する。不要かどうかを判断するのは君では無い。左翼陣地第3中隊は以後も、現在の任務を続行せよ」
「はっ! ……あの」
兵はヴィルハルトの言葉を聞いて、何かを言いよどみ、ちらりと敵陣に横目を向ける。
「君も、何かあるのかな?」
ヴィルハルトは英雄に止めを差す魔王のような微笑みを浮かべて、彼に尋ねた。
兵は哀れなほど必死に背筋を伸ばして、枯れた声を出した。
「はい。何もありません、大隊長殿」
ヴィルハルトは頷いた。
「よろしい。それでは、直ちに今の伝言を君の指揮官に伝えたまえ」
「はっ。失礼します!」
彼は敬礼をすると、脱兎の如く駆けて行った。
大陸歴1792年、四ノ月28日に行われた〈王国〉軍独立捜索第41大隊と、〈帝国〉西方領軍第77猟兵連隊の戦闘は、半刻すら掛からずにその勝敗を決した。
否、それは戦闘ですらなかった。
〈帝国〉軍側の損害は、死者167名。負傷者428名。
対する〈王国〉軍側の損害は皆無であった。
圧倒的な大勝利と、言い訳のしようも無い大敗だった。
「敵はすっかり退いたようです」
「まぁ、そうだろうな」
砲撃終了とともに大隊本部の天幕へと戻ったヴィルハルトは、その報告に淡々と応じた。
報告しているのはエルヴィン・ライカ中尉だった。彼も珍しく、無表情だった。
と言っても、すっかり陽の落ちた後では、たとえランプで照らされた天幕の中でも、互いの表情を確認する事は難しかった。
「本日の弾薬、砲弾の使用量についてですが」
「何か、不安があるのか」
「いえ。後方からは、必要ならばもう少し送っても良いと伝達がありました」
「必要ならば貰っておけ」
ヴィルハルトは投げやりに答えた。
補給に関してはエルヴィンに一任している。
彼ならば、ヴィルハルトが必要とするだけの量を確保するだろう。
「今日のようなのを、もう一度やるおつもりでしたら貰っておくんですが」
エルヴィンの口調が少し砕けた。
天幕内の空気が少し和らぐ。ヴィルハルトは、気になっていた事を口にした。
「大隊の様子はどうだ」
「様子ですか?」
「兵たちの事だ。何か、変わりはないか」
今日の、〈帝国〉軍に対する仕打ちを見た兵士たちが、命令を下した自分にどのような感想を抱いているのだろうかと思っていたのだった。
「えー、まぁ、そのですね」
エルヴィンの歯切れは悪かった。
「あの、先輩」
意を決したように、彼が何事かを口にしようとした時だった。
「お待ちください、大尉殿。今は……」
「通せ、曹長。私は大隊長殿に話がある」
天幕の外からヴェルナー曹長の宥めるような声に続いて、鍛え上げた金属を弾いたような、凛とした声が聞こえて来た。
誰の声かはすぐに分かった。ヴィルハルトの顔が凶悪に歪む。
天幕を破るようにしてアレクシアが入って来た。後ろからは、静々とヴェルナーが従っている。
「申し訳ありません、大隊長殿。自分はお止めしたのですが……」
「いいよ」
頭を下げるヴェルナーに軽く頷いて見せると、ヴィルハルトはアレクシアへと顔を向けた。
暗いせいで表情は見えない。
白銀のような髪だけが、ランプの灯の振幅を反射して揺らめいている。
「何の用だろうか、カロリング大尉。君には前衛の指揮を命じてあるはずだが」
ヴィルハルトは苛々とした口調で言った。
「戦闘配置命令を解いた覚えはない」
それにアレクシアは、鋼のような声で答えた。
「前衛の指揮は、一時的にアルホフ中尉へ預けてあります。シュナイダー軍曹を補佐に付けました」
「質問の答えになっていない。何故、君は自らの配置を離れてここへ来たのか」
「本日の、敵に対する砲撃について、納得のゆくご説明を頂きたく参りました」
「ほう?」
彼ら、いや、彼と彼女が一言ずつやり取りするたびに、天幕の空気が剣の切っ先のように研ぎ澄まされてゆく。
ヴィルハルトはランプの笠を外した。抑えられていた光源が広がり、天幕内がぱっと明るくなった。
暗闇の中から、アレクシアの顔が露わになる。
形の良い眉と目じりを吊り上げて、まさに磨き上げられた剣のような表情をしていた。
それに、ヴィルハルトは目つきを緩めた(もっとも、彼にとってそうする事の方が顔の筋肉を余計に使わなければならないのだが)。
結果として、人を馬鹿にするような表情が出来上がった。
「敵への攻撃について、何か意見があるのか」
その声には何処か、嘲笑うような響きがある。
既に怒り心頭といった様子であったアレクシアの表情から、さらに熱が失われる。
「意見」
彼女は小さく、ヴィルハルトの言葉を反芻した。
そして、それまで潜められていた熱が一気に発火する。
彼女はヴィルハルトが急場の執務机として用いている、火薬を運ぶための木箱に片手を打ち付けた。
ランプが大きく飛び上がり、落下しそうになる。
ヴィルハルトは咄嗟にそれを手で押さえた。見かねたヴェルナーが、そっとそれを受け取った。
「あの砲撃は不要だったはずです! 既に、最初の一撃で敵は壊乱していました。敵の死傷者収容を妨害する必要など無かったはずだ! あまつさえ、傷を負い、動けない敵兵に向けて砲弾を落とすなど……!!」
「騎士道に背く、とでも?」
「っ!」
後半、怒りに任せて敬語を忘れていたアレクシアに対して、ヴィルハルトは底響きのする小さな声でぽつりと言った。
言おうとした言葉を先に口に出され、アレクシアは声を詰まらせる。
「君が何を信条にしようと勝手だが。残念ながら、ここは騎士団では無く軍隊なのだ。そして、今の君は軍隊の将校であるはずだ、カロリング大尉」
ヴィルハルトは大尉という言葉を、強調して発音した。
「だとしても、あれは、人道にすら背いている……!」
「人道?」
もはや嘲りに近い口調でヴィルハルトは首を捻った。
アレクシアが何を言っているのか、本当に分からないという顔をしている。
「人道だと? 何を言っているのだ、大尉。君はまだ自分の仕事が何なのか自覚していないのか」
「何を……」
「我々、軍人の仕事は戦争、つまり人殺しだ。軍隊とは、それを効率良く、かつ大規模に実行する為の組織に他ならない。まぁ、これについては騎士団も同じようなものだが」
「近衛騎士団の任務は宮廷、国主陛下の守護だ」
「目的は違えど、用いる手段は同じだ」
ヴィルハルトは騎士と言う存在が嫌いだった。いや、憎んでいるとすら言っていい。
騎士道などと言う大層なお題目を並べ立てて殺人を正当化しようとしているだけの連中だと思っていた。
罪は罪として、潔く認める方が遥かにマシだと信じていた。
こんな事を考える軍人はいない。
殺人について想いを馳せるような人間は、戦う事はおろか、敵を殺す事すら出来ない。
それを自覚しつつなお、軍人として在ろうとしているヴィルハルトはやはり異常であった。
「しかし、あれはあまりにも……」
アレクシアは苦しげに言った。
数日前、死にかけた敵兵へ対して目の前の人物が行った行為を兵から伝え聞いていた。
その事を聞いた時、彼女の胸の中に初めて、彼に対するはっきりとした敬意が芽生えていた。
「では、尋ねるが。そもそも、君はあの〈帝国〉軍とまともに戦って、勝てる見込みがあるのか。正々堂々、君が望むような戦争をしたところで、待っているのは悲惨な敗北という結末だ。俺はそんなものに付き合うつもりは毛頭ない。騎士道を掲げるのは勝手だが、そんなものは騎士に叙任した後にでもやってくれ」
アレクシアは言葉を失った。
ヴィルハルトの示している態度に、自分が彼に対して抱いている敬意や何もかもが裏切られたような思いだった。
「納得が、出来ません」
彼女は絞り出すように言った。
ヴィルハルトはそれを切り捨てた。
「納得する必要は無い。理解さえしていれば良い。命令とはそういうものだ。そして、砲撃を命じたのは俺だ。君がもしも今後、俺の命令に従えないというのであれば……」
彼は簡素な椅子として使っている小箱から立ち上がった。
凶悪な眼光には、冷徹さのみがあった。
「俺は指揮官として、君を抗命の咎で断罪せねばならない」
既に、片手が腰に吊られた軍剣へと伸びていた。
天幕内の気温が、急に一度も二度も下がったようだった。
アレクシアは何も言えなかった。
全てが、軍規通りであるからだった。
厳格に定められた無理と理不尽こそが軍隊の本質であると、今更に理解していた。
「命令する。カロリング大尉、直ちに現在の任務へと戻れ」
ランプの灯りだけが頼りの、薄暗い天幕の中で、ヴィルハルトの瞳だけが恐ろしい光を湛えて光っている。
「与えられた命令を遂行するつもりはあるか」
彼はまったく温度を伴わない声で尋ねた。
「……はい、大隊長殿。私は、その命令を完遂するつもりであります」
半ば挑むように、彼女は答えた。
ヴィルハルトは頷き、軍剣の柄から手を離すと、再び木箱の上へと腰を下ろした。
「ならば、速やかに実行せよ。我々は戦争をしている」
「は。失礼いたしました」
いつも以上に固い敬礼をすると、アレクシアは天幕から出ていった。
事の次第を、固唾を飲んで見守っていたエルヴィンとヴェルナーが残っていた。
ヴィルハルトは、その二人も睨みつけた。
「君たちも、何か思う事があるのならば、今のうちに言っておく事だ。その機会が永遠に失われる前に」
それに、エルヴィンが肩を竦めて応じた。
「自分は、今の職場をそこそこ気に入っております。大隊長殿」
「自分も同様であります」
ヴェルナーは直立不動の態勢を取って答えた。
それから、やや表情を和らげる。
「大隊全員が、カロリング大尉殿のように受け取ってはおりません。多くの兵は、今日の勝利を喜んでおります。特に、第12旅団から来た連中が。もちろん、その中には自分も含まれております」
慰めのつもりだろうかと、ヴィルハルトは思った。
だが、軍に関する事柄である限り、曹長は嘘を吐かない。ならば、事実なのだろう。
戦いを嫌う者、厭う者は居ても、勝利を喜ばない者は居ないという事か。
そう納得したヴィルハルトは、ヴェルナ―に対してそれはどうもとだけ答えた。
その後で、彼らを天幕から追い出した。しばらく、一人にして欲しかった。
彼にとっても、今日の〈帝国〉軍との戦闘は確かに勝利であった。
ただし、最低最悪の勝利だった。
他の誰かならば、もっと良い手が考え付いたに違いないと盲信していた。
だが、その誰かは彼の近くに居なかった。
畜生。知った事か。
俺たちは戦争をしているのだ。それは断じて、正しい事などでは無い。
しかし、俺たちは戦わねばならない。
何故か。
俺たちは軍人で、敵を倒して祖国を防衛する事こそが、俺たちの任務であるからだ。
その最中で、一々善悪だのを気にしていられるものか。
そんなものは、後世の物好きな歴史家にでも任せておけば良いのだ。
ただ、その結果の責任を明確にするために軍隊に将校がいるのではないか。
軍では、命令によって行動し、その結果引き起こされた全ての事柄に対して、命令した者のみが責任を負うからだ。
つまり、今日の砲撃も、この先起こるであろう戦闘も、その結果がどうであろうとも、すべての責任は俺にあるのだ。
他の誰でも無く。
彼は、大隊が犯すであろう総ての罪を背負うつもりであった。
それが指揮官という者の責任だと信じていた。
続きは2日後。




