23
敵の砲撃の直後、何が起こったのかも分からないままに、〈帝国〉西方領軍第77猟兵連隊第一大隊第3中隊所属のミハイル・サルジェスキ上等兵は地面へと身体を打ち付けていた。
現実感の伴わない、奇妙な一瞬であった。
目の前の光景が一斉に色彩を失くし、火と土の混じりあった爆風によって宙へと放り投げだされた時に、彼の精神は天空のさらに先まで飛び上がってしまっていた。
数瞬の間、ぼうっとしていたサルジェスキだったが、やがて事態が飲み込めるようにまで精神の揺れ幅が落ち着いてくると、急激な安堵感で胸が一杯になった。
ーー生きている。
ああ。俺は、生きている。生き残った。
ただそう実感した彼は、狂ったように笑い始めた。
すぐ近くに斃れている戦友の死を悼む気持ちも、それを成した敵を憎むほどの余裕も、今の彼には無かった。
ただ、安堵のみがあった。
そんな彼の耳に、さらに嬉しいものが届いた。
「おい、ミハイル、なにを笑ってんだ」
その声にサルジェスキは笑うのをやめ、顔を左右に振った。
声の主は彼から少し離れたところで、やはり彼のように地面に大の字で倒れていた。
「アントン!」
同期に入営したアントン・コスイギン一等兵だった。営内での態度が悪いため、昇進がサルジェスキよりも少し遅れている。
「大丈夫か? 怪我は?」
「吹っ飛ばされた時に、ちょっと肩を打ったが、まぁ大したことない。俺たち、ツいてたみたいだな」
コスイギンがにやっと犬歯を見せて笑う。サルジェスキはぶんぶんと首を振った。
次の瞬間であった。
巨人の槌が大地を叩きつけるような、重苦しい砲撃音が地面を揺らし、対岸から放り出された榴弾が何かに誘われるようにコスイギンの頭上へ落下し、破裂した。
衝撃。爆風。轟音。そして土煙が晴れた。
「…………え?」
そこに、戦友の姿は無かった。ただ、赤い液体が淫らなほどにぶちまけられている。
彼は呆然と、コスイギンの姿を探すために当たりを見回した。
それはサルジェスキにとって、信じられない光景であり、認めがたい現実だった。
痛みに呻きながら這っている兵士、どうにか立ち上がり、周囲の生き残りを叱咤する軍曹、腹部を真っ赤に染めながらも背筋を伸ばし続けている大尉。
誰も彼も傷だらけだが、死体の数はそれほど多くは無い。
しかし、彼らの頭上からは、鉄の雨が降っていた。
悲鳴の数が跳ね上がる。
浅い切り傷を負った兵が、片足を失った戦友を励ましながら戦線を離脱しようとしているのが見えた。
次の瞬間、敵弾が直撃し、彼らをこの世の何処でも無い所へ連れて行った。
既に息絶えている者にさえ無数の鉄片が降り注ぎ、その遺体が切り刻まれていた。
サルジェスキの肩にも、破片の一つが喰い込んだ。
自失、安堵、そしてまた自失を繰り返した彼の精神を、鮮烈な痛みが実世界へと押し戻す。
しかし、そこは彼が今まで信じて来た世界では無かった。
「こ、殺すつもりだ……」
敵はきっと、この場に居る誰も彼もを皆殺しにするつもりなのだという、恐ろしい確信がサルジェスキの脳裏に閃いた。
頭を抱えてその場にしゃがみこんだ彼の下へ、一人の将校が駆け寄って来た。
いつもは気に入らない、将校の中でも下っ端の小隊長だった。
彼は幸いな事に榴弾の雨に打たれるこの地獄でも、軽い切り傷だけで済んでいた。
「おい、無事か、サルジェスキ上等兵! 貴様、立てるか? くそ、おい! おい! 退くぞ! 後ろに下がるんだ、早くしろ!!」
普段ならば鬱陶しいが答えないわけにもいかない小隊長の怒鳴り声すら無視して、サルジェスキはうわ言のように同じ言葉を繰り返していた。
「殺すつもりだ。みんな、みな、皆殺しにするつもりだ……皆殺しに、みんな殺され……」
幾つかの戦場を経験し、彼のようになった男を何人か目にした事のある小隊長は、彼の脇に腕を差し込むと強引に引きずり出した。
ミハイル・サルジェスキ上等兵は、勇敢な小隊長に引きずられ生還した。
ただし、生き残ったのは彼の肉体だけであった。
彼の精神と心は、この川辺で粉々になった。
ワシリー・スヴォ―ロフ大佐は愕然としていた。
目の前で起こった事の意味が理解できなかったからだった。
それは、彼の周りを固める連隊の幕僚たちも同様であった。
誰も彼もが現実を理解する為の努力を忘れていた。
先ほどまで、あの場所に居た精強な猟兵たちは何処へ行ったのだろうという疑問だけが、頭の中にあった。
ようやく、土と血に塗れて川辺へ散乱しているものがそれなのだと飲み込めた頃に、再び敵の砲弾が彼らへと降り注いでいる様を目撃した。
砲弾の炸裂音を耳にして、スヴォーロフはようやく自我を取り戻した。
「っ、何を……くそ、何が、ああ、くそ!」
「連隊長殿! て、敵はまだ砲撃を続けています! どうすれば……!?」
兵士の一人が怯えながら、縋るように喚いた。
「ラシュマノワ中尉!」
その兵士を無視して、彼は怒鳴った。
「は!」
顔面を蒼白にしながらも、若い中尉は即座にスヴォーロフの下へと駆けつけた。
「第一大隊を後退させろ! 連隊砲兵に支援を……」
「連隊砲兵隊は半壊しております!」
スヴォーロフの命令に、中尉は叫ぶように応じた。
「……っ!」
スヴォーロフは唇をきつく噛みしめた。皮膚が裂けて、血が流れ出す。
「第一大隊の後退も、敵からの砲撃が激しすぎます! 連中、対岸の丘向こうから滅茶苦茶に撃ちまくってきています!」
「だからどうした! 第2大隊を投入して、救助に向かわせるんだ!」
「しかし、それでは損害が……砲兵の支援も無いのにですか」
スヴォーロフは近くに生えている木の幹を殴りつけた。
「連隊長殿……」
中尉が、苦渋に満ちた声を出した。
彼は自らの役割として一応、上官の命令に対して常識論を口にする必要があっただけであった。
内心では、たとえどれほどの損害が出ようとも、死地にある味方を見捨てるようなつもりは無かった。
「……構わん。第2大隊は委細構わずに前進し、生き残っている味方の救助に当たれ」
「はっ!」
中尉は音が鳴るほどの勢いで踵を打ち付けると、畏敬も新たに敬礼を行った。
こうして彼らは当初疑う事も無く思い描いていた勝利とは程遠い、血みどろの救出劇を演じる事となった。
着弾観測が不可能になる夕刻まで、砲撃は止まる事が無かった。
短くて済みません。
続きは、2日後。




