勝利の代価 8
最後まで抵抗を続けていた敵が血の海に沈んだ。ヴィルハルトは肩に負った傷の手当を受けながら、それを自然現象のように眺めていた。舞踏場はすっかり、見慣れた地獄に代わっている。磨き上げられた床は血で溢れ、敵と味方の骸が山と積み重なっている。戦闘の余韻を引きずる、兵たちの荒い息遣いがまるで啜り泣きのように鉄臭い空気を震わせていた。
傷の手当を終えたヴィルハルトは静かになった舞踏場を見渡した。敵は文字通り最後の一人に至るまで抵抗したため、生け捕りにできた者は皆無だった。その結果に不満があるわけではないが、やはり惜しいと思ってしまう。
念のため、生きている者がいないか確認するよう兵に命じた。兵たちがさっそくその作業に取り掛かろうとした時だ。舞踏場の隅から、小さな物音が聞こえた。弛んでいた兵たちの顔が再び、緊張したものへ変わる。慎重に音の出所を探すと、どうやら広間の隅に倒れている洋箪笥の中から聞こえてくるようだった。小銃を構えた兵たちが、ゆっくりと倒れている箪笥に近づく。と、その時。
「ま、待て!」
箪笥の中から声がした。話しているのは〈帝国〉公用語だ。声は酷く震えていた。
「こ、降参する! 身の安全を保障してもらいたい!」
怯えた調子のその声に、兵たちが判断を仰ぐようにヴィルハルトへ振り返った。ヴィルハルトは頷くと、兵らに銃を下ろすよう手で合図した。
「降伏を受けいれる。ゆっくりと出てこい」
「わ、分かった。出るぞ。撃つな」
箪笥の中から大きな呼吸音が聞こえた。隠れている者が深呼吸したのだろう。倒れた洋箪笥の戸がゆっくりと開き、中から〈帝国〉本領軍の赤い制服を着た痩せ型の男が這い出てきた。ヴィルハルトは立ち上がった彼の階級章を確認した。中佐だった。文官のような顔つきをしている。表情からして怯えているのは事実のようだが、その瞳には〈帝国〉人特有の、どこか相手を軽蔑しているような光があった。
「軍剣を外せ」
ヴィルハルトは彼の腰に吊られたサーベルを一瞥すると言った。
「ああ。それは……」
相手の中佐は渋るように眉間にしわを寄せた。当然である。将校の軍剣とは単なる武器ではない。下士官兵に兵器として支給されるものとは異なり、将校の軍剣は軍服同様、本人が自弁調達した私物であり、そしてまた将校の地位を示す象徴でもある。それを取り上げることができるのは、その者を将校に任命した者。即ち、軍の統帥権を持つ国家元首にのみ許された特権であると考えられていた。そのため、たとえ将校が捕虜になった場合でも、武装である銃は当然として、軍剣を取りあげられることはない。
もっとも、これは国家間の協定や軍法で定められているわけではなく。どちらかと言えば、各軍隊間における慣習のようなものに過ぎない。この時代の大陸世界各国の軍隊は、旧時代における騎士団を母体に発展したものがほとんどであり、多くの騎士道的風習を受け継いでいた。要するに、投降した敵将校から軍剣を取りあげないというのも、そうした騎士道的観点から見た場合の美徳であり、伝統的作法の一つというわけだった。
しかし、ヴィルハルトは投降した敵中佐にそれを外せと命じた。それはつまり、彼を将校として遇しないということを意味する。問題になりかねない対応だった。たとえ慣習、伝統に過ぎないとはいえ、他国の将校を自国の軍において同等の階級を有する者として扱うのは、他国の身分制度を尊重するという封建社会における外交儀礼の一つから派生した考え方であるからだ。それを認めないのであれば当然、他国からそのように扱われても文句は言えない。降伏した敵から軍剣を取りあげたことが広まれば、敵軍からはもちろん、友軍内からも名誉を汚す振舞いだと誹られることは免れないだろう。
当然、ヴィルハルトもその程度の事は承知している。それでいてなお、彼は敵中佐に軍剣を捨てるよう迫った。
「どうした。剣を捨てなければ、反抗の意思ありと見做すが」
乾いた声で決断を迫りながら、彼はわざと大げさな動きでそこらに転がっている〈帝国〉軍将兵の遺体を見回した。同じようになりたいのか、と言わんばかりの態度である。敵中佐はそれに、顔を真っ青にした。それでもなお矜持を捨てえないのか。暫し、葛藤するように黙りこくった。やがて、観念したように長く、細い息を吐く。震える手で軍剣の鞘を掴み、留め具を外すと、それを足元に置いた。
「武装は解いたぞ!」
「確かに。投降を受け入れます」
両手を挙げて降伏を宣言した敵に、ヴィルハルトは満足そうに頷いて歩み寄った。敵中佐の目前まで近づくと、足元に置かれた軍剣を蹴り飛ばす。もはや、投降した中佐に表情は無かった。
「賢明なご判断です。こちらも助かりました」
まるで人が変わったようなにこやかさで、ヴィルハルトは片手を差し出した。
「ああ。そうだったと思いたい」
石のような顔で、敵中佐がその手を握り返す。
「もちろん。きっとそうなりますよ」
囁きかけるヴィルハルトの口元には、どんな悪童よりも始末に負えない笑みが張り付いていた。実は、ヴィルハルトにとっても敵が軍剣を捨てるか否かは賭けだった。もしも捨てなければ、本気で殺すつもりだった。忠誠心の篤い中佐など捕虜にしたところで役に立たないからだ。だが。命惜しさに軍剣を捨てるような相手であれば。助かるために、自分が知っていることをなんでも教えてくれるだろう。
ヴィルハルトの喉が低く震える。連動するように、大気が重苦しく振動した。砲声だった。傍らにいる敵中佐が身体をびくりとさせた。そんな彼に、ヴィルハルトはますます笑みを深める。
「なんだ。なにが……」
哀れなほどに怯えきっているその中佐に、ヴィルハルトは今起きていることを丁寧に説明してやることにした。これから彼に教えてもらうことに比べれば、これくらいの親切は当然だと思うからだった。