勝利の代価 4
いつの間にか、近くに味方は一人もいなかった。どうやら、戦闘から距離を取ろうとしている内にはぐれてしまったらしい。しかし、そのことに気付いてもカレンの心に不安は過ぎらない。自分でも制御できない感情に突き動かされているからだった。
それでも、早く味方と合流した方がいい、と思えるくらいには判断力が残っていた。もっとも、そう考えた理由も決して我が身を守るためというわけではなく、その方がより多くの敵を殺せるから、というものだった。やはり、この時の彼女にまともな判断力があったかどうかは疑わしい。
戦闘は街の中心に近づくにつれ、激しくなっているようだった。通りに出るのは危険だろうと判断し、銃声を頼りに路地を進む。突然、曲がり角から敵兵が飛び出してきた。身長はカレンと同じほどか。小柄な兵だ。戦いから逃げ出してきたのだろうか。小銃すら持っていない。酷く狼狽えている様子だった。
その敵が、カレンを見て硬直する。途端、彼女は自分でも訳の分からぬままその敵に突進していた。喉が痛い。どうやら、自分は叫んでいるらしいと頭の片隅で他人事のように思いながら、カレンは敵兵に激突した。敵はよほど動揺していたらしく、華奢な彼女の体当たりも受け止めることができなかった。自分の身体ごと相手を地面に転がせることに成功したカレンは、そのまま敵に馬乗りになると腰に吊っている軍剣を引き抜く。カレンの軍剣の刃は薄く、短い。最低限の護身用として吊っているだけなのだから当然ではあるが、決して戦闘用ではなかった。だが、果物ナイフのようなその剣でも、この状況でなら人間を突き殺すには十分だろう。
両手で柄を握りしめて、切先を真下に向ける。狙うなら首ではなく、胸だ。咄嗟にそう考えて、視線を落とす。しっかりと顎紐を結んでいなかったのか。転んだ拍子に敵兵の鉄帽が吹っ飛んでいた。露わになった敵の顔を見て、カレンは凍り付いた。少年。子供だった。それを知ったカレンの慎ましい胸の中で、殺意と良心が激しくせめぎ合う。うぅぅ、と情けない呻きが喉の奥から漏れた。
それが失敗だった。カレンのわずかな隙を見逃さず、少年が激しく身を捩った。固まっていたカレンの身体はそれに対応できず、少年の上から振り落とされてしまう。慌てて態勢を整えようとするが、それよりも先に少年が立ち上がり、カレンが軍剣を持っている手を踏みつけた。堪らず、剣から手を離してしまう。それを蹴り飛ばして、今度は少年がカレンに馬乗りになった。
しばらくもみ合った末、少年の両手がカレンの首を掴んだ。どうやら、絞め殺すつもりのようだった。カレンの首に絡ませた指に、徐々に力を込めながら少年は〈帝国〉公用語で何事かをしきりに呟いている。本来であれば聡明なカレンの頭脳は、その言葉の意味を正確に理解した。
仕方がない。仕方がないんだ。
少年は繰り返し、自らにそう言い聞かせている。涙を流し、鼻水や涎が垂れるのもそのままに、彼は泣きじゃくっていた。ああ、そうか、と。空気を求めて懸命にもがきながら、カレンは気付いた。彼もまた被害者なのだ。きっとこの少年も、望んで戦地に来たわけではないのだろう。戦争の現実など知りもしなかったに違いない。もしかすれば、半ば強制的に送り込まれてきたのかもしれない。そう思うと、先ほどまでずっと胸の中で吹き荒れていた感情がすっと引いてゆくのが分かった。
戦争の最中では、誰も彼もが被害者なのだ。それでも、ただの被害者として死にたくなければ、加害者になるより他にない。そのどうしようもない現実こそが、戦争というものをより罪深いものにしているのだろう。
そんなことに今さら気付くなんて。と、カレンは自身に呆れた。これまでずっと、戦争そのものを体現するかのような男と過ごしてきたというのに。きっと、自分はこの戦争をどこか他人事のように考えていたのだろう。それが養父を失った途端、被害者面をするなんて。もっとずっと前から私は被害者で、そして加害者でもあったのに。
ああ、けれど。
反省ももはや意味はない。生きることを諦めたわけではないが、相手は少年とはいえ兵士としてそれなりに鍛えられている。抵抗しても振りほどけそうになかった。
なんて無様な最期だろう。私怨に駆られ、暴走して、こんなところで終わるだなんて。ゆっくりと意識が底なしの闇へ沈んでゆく。誰を思い浮かべるでもなく、申し訳ないと思った。
視界が暗転してゆく。もう無理だと思ったカレンが瞼を閉じようとした、その時だった。
突然、少年の身体が真横に吹き飛んだ。誰かが強烈な蹴りを喰らわせたらしい。解放された気道から一気に空気が肺へ雪崩れ込む。カレンは激しく咳き込んでから、顔を挙げた。そこには。
「シュルツ、中佐……?」
ヴィルハルト・シュルツが自分を見下ろしている。その双眸は悪鬼よりも恐ろしかった。彼の視線がカレンから離れ、少し遠くに転がっている彼女の軍剣、そして蹴られた脇腹を押さえて悶絶している丸腰の敵兵、という順に向けられる。
「君に戦闘参加を許した覚えはないのだが」
ヴィルハルトの声は地獄の審問官のように重苦しく響いた。
「も、もうしわけ、ありません」
カレンは喉をさすりながら、震える声で詫びた。そんな彼女をヴィルハルトは無言で睨み続けている。近くで呻き声が聞こえた。見れば、蹴り飛ばされて悶絶していた少年兵が、脇腹を押さえながらよろよろと立ち上がるところだった。彼はヴィルハルトを目にするなり、短い悲鳴のようなものを零した。こちらに背を向けて走り出す。勝ち目はないと悟り、逃げ出したのだろう。ヴィルハルトが無造作に腰から短銃を抜いた。銃口を少年に無目、躊躇うことなく引き金を引く。パン、という乾いた音が響いて、少年が前のめりに倒れた。一拍置いて、少年の後頭部から湯気と血が溢れだす。
自らが殺めた少年の死体を詰まらなそうに一瞥してから、ヴィルハルトは再びカレンに向き直った。
「満足か?」
嘲るようなその問いに、カレンは答えることができない。己が成そうとしていた復讐の無意味さに打ちのめされている。
「中佐殿」
その時、バロウズがひょこりと路地に顔を出した。ヴィルハルトを見てほっとした声を出す。
「ご無事でしたか。突然走りだされたので驚きましたよ。ああ、副官殿は見つかったようですね。それは何より」
にこやかに近づいてきた彼の言葉が、さらにカレンを責め立てる。わざわざ、戻ってきたのだ。自分を探すために。ヴィルハルトの行動の意味を、カレンは全く誤解しなかった。
必要とされているのだ。
無論、それはあくまでも彼女の能力が、という意味であり、彼女自身という意味ではないことくらい、カレンも承知している。それでも、この他人を実力でしか判断しない男から必要とされるというのは、最大の評価を受けているということに他ならない。それがどれほど難しい事なのか。彼女は良く知っているはずだったのに。
「それで。副官? まだ物足りないか?」
ヴィルハルトの突き放すような言葉は万の叱責よりもカレンには応えた。
彼の信用を裏切ってしまったということが、何よりも彼女の心に重くのしかかった。
以前、彼は言っていた。部下を信用していると。信頼ではなく、と彼女は訊いた。ではない、と彼は答えた。それは指揮官こそが部下から勝ち得なければならないものであり。指揮官とは部下を信じて頼るのではなく、部下の能力を信じて用いるべき立場なのだ、と。
だというのに、カレンはあろうことか、副官として果たすべき任務も、求められる責務も、掛けられた期待も全て放り出し。私情に駆られて、こんなところで敵の少年兵相手に乱闘を演じた末、殺されかけた。
何をしているのだ、自分は。と、唇をきつく噛み締める。惨めというよりも、酷く恥ずかしかった。
「物足らないのなら仕方がない。好きにすればいい」
装填を終えた短銃を腰に戻しながら、ヴィルハルトが彼女に背を向ける。ここで対応を間違えば、彼はもう二度と、自分を必要としなくなるだろうと分かった。だから。
「シュルツ中佐……!」
自分でも驚くほど必死な、縋るような声が出た。ヴィルハルトが横顔だけ振り向かせる。表情はない。
「わ、私は、現在の任務を継続したいと願います」
どうか、と希うようにカレンは首を垂れた。いつか、同じ言葉を彼に言ったことがある。その時はもっと別の感情だったはずだ。けれど今は。とにかく、ヴィルハルトから見放されるのだけは嫌だった。自分でもどうしてかは分からない。ただ、彼の役に立ちたい。いや、立たねばならないと思っている自分がいた。
「そうか」
ヴィルハルトの返答は素っ気なかった。それ以上何も言わず、歩いていってしまう。カレンは急いで立ち上がると、その後を追った。
「あの、中佐殿」
「今は団長と呼べ」
「申し訳ありません、団長」
受け答えをするヴィルハルトの声に怒気はない。彼の中ではもう終わったことなのだろう。いや、今はそれ以上に考えるべきことがあるのかもしれない。何せ、ここは戦場の真っ只中なのだから。それでもカレンには言っておきたいことがあった。
「こうして助けて頂いたのは、二度目です」
「そうなのか」
やはりヴィルハルトの返答は素っ気ない。憶えていないのかもしれない。
「はい。そうなのです」
カレンは大切なことのようにそう言うと、彼の背中を見つめた。レーヴェンザールの戦いから、ずっと付き従ってきた背中だ。少し猫背気味で、それほど大きな背中というわけでもない。けれど、殺戮の嵐の中では誰もがその背に付き従う。たとえ、それが狂気だと分かっていても。カレンは今、ようやく。その一員となったのだった。
初めは意地だった。
レーヴェンザールで出会い、人間としてどこまでも反りが合わないと思った上官から、辞めたければいつでも辞めていいと言われてまで、副官の立場から降りなかった。この他人への思いやりなど欠片もない、残忍で冷酷な男の鼻をあかしてやろうという反感からだ。
気難しい性格なのは、過去の悲惨な体験のせいだと擁護する者がいた。そんなことはないとカレンは思った。自分も同じだったのだから。彼女もまた戦争で故郷を失い、家族を失った。幼い子供にとって、それは世界を失ったに等しい経験だ。けれど、それを理由に性格が捻じ曲がるのも仕方がないという風潮を彼女は嫌っていた。どんなに辛い過去をもち、悲惨な目に遭ったとしても、人はまっすぐに生きようと思えば生きられる。そう信じていたからだ。そんなカレンからみれば、ヴィルハルト・シュルツという男は過去の悲惨な体験を理由に、ただいじけているだけのようにしか思えなかった。
それが違うと気付いたのは、王都で彼と過ごした時だった。彼は両親のことを憶えていないといっていた。だが、そんなことがあるだろうか。書類上、ヴィルハルトの年齢は二十七ということになっている。ということは、十六年前の〈帝国〉軍襲来の際は十一才。正確な数字では無かったとしても、保護された時に十歳前後だったのは間違いないはずだ。そんな年齢まで共に過ごした家族のことを憶えていないものだろうか。
カレンは今年で二十三だ。彼女の記憶する限り、これは正確な数字である。彼女が七歳の時に、住んでいた村に〈帝国〉軍がやってきた。両親のことも憶えている。彼らがどうやって殺され、家が燃やされたのかも。隣に住んでいた仲のよかった男の子が撃ち殺されたのも。別れ際、母から言われた通り山に逃げて、それから数日間を彷徨った記憶だけが曖昧といえば曖昧だった。
そんな自分よりも年上であるはずの彼が、両親どころか、自分の本当の名前、住んでいた村のことまで思い出せないというのは、いったいどういうわけだろうか。もちろん、本当に忘れてしまったのかは分からない。ただ、言いたくないだけなのかもしれない。
だが。もしかしたら彼は、自分よりもっと酷いものを見たのかもしれない。もっと辛い体験をしたのかもしれない。封印しなければ心が壊れてしまうような、そんな出来事があったのかもしれない。そんな中で、自分より幼い子供を抱きかかえて荒野を彷徨った。そして、遅れてやってきた〈王国〉軍に助け出された時、その子供は自分の弟だと嘘を吐いた。恐らく、当時のヴィルハルトにも嘘だという自覚があった。そしてそれは、二人が成長するに従い、誰の目から見ても明らかになっていった。だからこそ、彼は今でも弟に対して負い目のようなものを感じているのだろう。
しかし、彼の弟、ハルディオは本気で彼のことを慕っている。他人の目からみても分かるくらいなのだ。負い目を感じるような必要はないと思うのだが、彼にとってはそんな単純な話ではないのだろう。人の心というものは難しい。
いつ頃からだろうか。そんな彼を救ってあげたいとカレンが思うようになったのは。
自分はディックホルストに救われた。彼の弟は、彼に救われた。ならば、彼はいったい誰が救ってくれるのか。もちろん、自分にそんなことができるかは分からない。けれど、認めてあげることくらいはできるはずだ。彼の行いは正しかったのだと。間違ってなどいないのだと。もっと胸を張っていいのだ。貴方の努力は報われるべきなのだと。
若さゆえの自惚れなのかもしれない。けれど、その想いはヴィルハルトに仕えるカレンにとって、いつの間にか副官という立場以上の動機となっていた。その感情に、まだ名前はない。そして、いずれ彼女の中でその想いが昇華して実を結んだとしても、ヴィルハルト・シュルツには理解できないものになるだろう。
ともあれ。如何なる結末になるにしろ、それはまだ先の話だった。