勝利の代価 3
「つまり、どういうことなのでしょうか」
危機を知らせる赤色発煙弾が灰色の空に溶けてゆくのを見つめながら、ウスチノフは問う。誰に向けたものでもない。自問のつもりで発した呟きだった。それでも、彼の隣に立つ人の良い中将は答えてくれた。
「恐らく」
多くの皴が刻まれた額を揉みながら、ラノマリノフが言う。
「敵は昨晩の内に移動したのだろう。君たちの脇をすり抜けるように。葉は落ちているが、山の麓には森が茂っておる。木々の隙間をこっそりと通り抜けていったのではないかな。夜間大規模浸透突破、とでも言ったところか」
軍隊用語というヤツは無駄にゴテゴテとした言葉で装飾した方がウケがよかろう、と冗談染みた口調で付け足す。
「そんな。まさか」
ウスチノフは首を振った。
「だが、そう考えれば合点がゆく」
ラノマリノフはいっそ残酷なまでにきっぱりと答えた。しかし、ウスチノフは受け入れられない。雪が降り積もる悪路を、それも暗闇の中でどうやって兵を迷わせることなく歩かせたというのか。と、そこまで考えたところでハッとした。
違う。昨晩のこの辺りは全くの暗闇では無かった。敵の砲台が断続的に照明弾を打ち上げていたからだ。何を企んでいるのかと思って、警戒はしていたが。
「そうか」
もしもそれが暗闇の中をゆく将兵たちに方角を見失わせないようにするためだったとすれば。気づいたウスチノフの横で、先にその結論に辿り着いていたらしいラノマリノフも頷いていた。
「警戒させて、君らの動きを封じるのも計算の内だったかもしれんな」
あり得る話だった。なにせ、昨日までウスチノフたち別働隊は敵中の真っただ中にいたのだ。その敵が何やら不可解な行動をとれば、当然、こちらは警戒して部隊を固めておく。夜がウスチノフから積極さを奪っていたということも大きいだろう。
そう考えてみれば、確かに。今朝になって敵の姿が消えていたことの説明はつく。悪魔に揶揄われているか、魔女に誑かされているのではなければ。
しかし、やはり信じ難くはある。昨日まで対峙していた敵は少なくとも一個旅団、或いはそれ以上の規模だったはずだ。それだけの人数をたった一晩で、などと。
「そうだな」
ぼやくウスチノフに、ラノマリノフが同情するように頷く。
「そんなこと、誰もやろうとは思わない。だからこそ、まんまとしてやられた」
ふん、と彼はむしろ楽しげに鼻を鳴らした。それからウスチノフに向き直る。
「さて。大佐。謎解きは済んだことだし、我々にはまだやらねばならんことがあるのではないかな」
そうだった、とウスチノフは慌てた。一体全体、敵がどんな魔術を使ったのかはさておき。救援を乞う味方がいることだけは確かな現実だった。
「わしらはこの街道内の状況にそれほど詳しくない。貴官の隊に先導は任せる」
ラノマリノフの言葉に、ウスチノフは急いで部隊に行動準備を命じた。失態は犯したかもしれない。だが、まだ取り戻せる。この時の彼はまだそう考えることができていた。
北街道を左右から圧迫する山々の麓に広がる森を夜通し歩き抜いた〈王国〉第三軍は、〈帝国〉軍上陸部隊の別動隊を見事に出し抜くことに成功した。
驚くべきことに、冬場、それも夜間の行軍だったというのに落伍者は出なかった。この成功には、前もって将兵たちに温かい食事を摂らせ、休息を与えていたこと。闇夜でも方向を見失わぬよう、周辺砲台に照明弾を打ち上げさせたことに加えて、ヴィルハルトが事前に用意しておいた雪橇の活躍があった。
〈王国〉北東部の山間にある村々では、真冬の間に凍結した湖や川などから氷を切り出して氷室で保管しておくことを生業の一つにしている。冬の間は忌々しいだけの氷だが、夏場になれば飲み物や食材を冷やしたり、水を張った桶に浮かべるなど、涼をとることのできる贅沢品として高値で売れるからだ。文字通りの寒村にとって、氷は貴重な収入源の一つであった。その切り出した氷を運ぶために、橇が使われている。そのことを知っていたヴィルハルトは、今回の作戦に備えて周辺の村々からかき集めたのだった。その目的は重い装備や、動けなくなった者を乗せて運ばせるためである。別に兵に媚びたわけでも、同情したわけでもない。むやみに兵を疲れさせてしまえば、落伍者が増えることを嫌っただけだった。それに落伍した者がもしも敵に捕まれば、こちらの意図が見抜かれてしまう。そうした事態を防ぐための、極めて合理的な配慮に過ぎなかった。少なくともヴィルハルト自身にとっては、兵に銃弾を配るのと同じくらい、軍として当然の行動だという認識であった。
しかし、兵は違う。多くの兵士にとって軍とは自分たちのためになにかをしてくれる存在ではなく、むしろその逆であるからだ。だからこそ、軍から予想外の好意を示された時、その出所を探る。自分が何故救われたのか、その理由を知りたいと思った者たちは特に。そしてその結果、彼らはヴィルハルト・シュルツという名を聞くことになる。今回の一件で、知らず知らずのうちにヴィルハルトは兵たちからの、さらなる信仰を集めることになった。無論、兵たちが自身に寄せる感情を彼が知れば唾棄したに違いないだろうが。
自分がろくでもない新興宗教の開祖、いや、偶像として祀り上げられていることなど知りもしないヴィルハルトは今、第一擲弾戦闘団とともにグリーゼを目指していた。頭からかぶった白い布の下にあるその顔は煤で斑に汚れている。腰に吊った短銃や軍剣の柄などの金属部分にも、泥を混ぜ込んだ墨が塗りつけてあった。彼に付き従っている者たちも同様の有様だ。夜の闇に紛れるため、全軍にそうするよう指示を出したのはヴィルハルトだった。煤や墨には、先日の煮炊きで出たものを利用している。銃や剣にまで墨が塗ってあるのは、各砲台が打ち上げる照明弾の灯りを反射しないようにするためだ。とはいえ、知らぬ者からすればその光景は炭鉱労働者の群れが遭難しているようにしか見えなかっただろう。
本来なら日が昇った後は汚れを落としてもいいのだが、生憎とそんな時間はなかった。それに、適度に顔が汚れていたほうが真っ白な布だけの時よりも返って風景に溶け込めるということをヴィルハルトは発見していた。
グリーゼの街を視界に収めた時点で、ヴィルハルトは全隊に攻撃隊形を取らせた。ここまでは随分と大人しくしてきたつもりだったが、既に時刻は正午を回ろうとしている。第3旅団はもう攻撃に移っているだろう。敵はこちらの存在に気付いていると判断するべきだ。ならば、もうコソコソとする必要はない。
第一擲弾戦闘はグリーゼを半包囲する形で街へと迫った。事前に取り決めた通り、左翼をエルヴィン・ライカ大尉が。右翼をエミール・ギュンター大尉が。そしてヴィルハルトが正面で全体の指揮を執る布陣だ。
ブラウシュタインを始めとした第三軍臨時司令部の要員は連れてきていない。単純に、邪魔になると判断したからだった。臨時とはいえ、戦時にある軍司令官が司令部と別行動をとることについてブラウシュタインは散々ごねていたが、ヴィルハルトは乱暴に突っぱねた。たった一晩の行軍で疲れを見せるようなものが何の役に立つのか、と。敵は上陸して早々に占拠したグリーゼの街に司令部を置いているに違いない。守っている戦力がどれほどのものかは知らないが、抵抗は激しいだろう。しかし、早期に街を奪還できなければこの作戦は失敗する。ならばグリーゼを攻めるのは多少の無茶をしてでも、市街地で乱戦を戦い抜ける者しか連れて行かない。はっきりとそう口にされては、ブラウシュタインも言い返すことができなかったようだ。
それにブラウシュタインを始めとした臨時司令部の面々には、事後処理という大仕事も待っている。犬死にされては困るのだった。無論。全てがうまく行けばの話ではあるが。
なにより、現在の北街道内において、ヴィルハルトは自らが鍛え上げた第一擲弾戦闘団以外に信頼できるものなど一つもなかった。
そして事実。第一擲弾戦闘団の将兵たちは指揮官の信頼に応えるような働きを見せている。夜間の行軍では全体の先導を行い、その後も不眠不休で動き続けているというのに、疲れた様子など微塵も感じさせない。特に小隊長や中隊長といった下級指揮官たちの張り切りようは、ヴィルハルトをして舌を巻くほどだった。こちらから細かな指示を出さなくても、先んじて準備を整え、団長であるヴィルハルト相手にも物怖じすることなく活発に進言してくる。おかげでヴィルハルトは指揮だけに集中していればよかった。
将校たちだけでなく、兵たちの士気も高い。往々にして、張り切る指揮官というのは兵から煙たがられるものだが。そういった不平不満の一つも聞こえてこない。むしろ、自分たちが作戦の最も困難な部分を担当するのは当然と言わんばかりの態度だった。
しかし、ヴィルハルトはそうした将兵たちの様子に驚きを覚えない。そうなるように仕向けたのは他ならぬ自分自身であるからだ。〈王国〉軍史上、最も苛烈な戦闘経験を持つ指揮官という自らの風聞すらも利用し、将校たちには冷酷とすらいえる実力至上主義の下、次々と同僚が首を切られてゆく中で選び抜かれたのだという自負を。そして兵たちもまた、厳しい訓練を通じて、自分たちこそが〈王国〉軍最精鋭だという自覚を擦り込ませた。
洗脳だといわれてしまえばそれまでだが、思い込む力というのは凄まじい。編制からわずか二か月足らずだというのに、第一擲弾戦闘団の将兵たちの振舞いは近衛もかくやというほどの風格がある。当然、戦闘力に関しても遜色はないだろう。訓練期間こそ短かったが、第一擲弾戦闘団は幹部のみならず実戦経験豊富な下士官の割合が他部隊と比べても異様に高い。彼らがいれば、多少の練度の低さなど埋め合わせるには十分だろう。
唯一の懸念があるとすれば。ヴィルハルトはそれとない仕草で背後を窺った。そこには凍りついたような表情で副官のカレン・スピラ中尉が、いまにも舌なめずりしそうな顔のテオドール・クロイツ大尉が。そして、来るなというのに無理やりついていた従軍司祭のセドリック・バロウズがこんな状況だというのににこやかな笑みを浮かべて付き従っている。現状の、第一擲弾戦闘団における問題児軍団だ。何か面倒を起こさなければいいが、とヴィルハルトが小さく息を吐いた時だった。
グリーゼの北にある小山から発煙弾が打ちあがった。色は赤色。それを目にしたヴィルハルトは、敵の指揮官は大した男だと感じた。この状況で実弾ではなく、信号弾を打ち上げさせたという事は。自らの安全よりも周辺部隊に危機を知らせることを優先したという意味だ。普通なら、殺到してくる敵に向けて一発でも放り込みたくなるものだろうに。その誘惑に負けなかったというだけでも、敵の指揮官は気骨のある人物だというのが分かる。随分長い間戦っているからだろう。この頃のヴィルハルトは、そうした敵の思考を瞬時に想像できるようになっている。
せっかく虎の子ともいえる砲兵の居場所を教えてくれたのだからこれを潰さない手はない。問題は、誰に任せるか、だが。
「訓練担当!」
部隊に突撃を命じつつ、ヴィルハルトは背後に控えているテオドールに向かい怒鳴った。もはや、全ての杞憂は棚に上げるよりない。
「偵察小隊を率いて、あの擲弾砲を潰してこい!」
その命令に、テオドールは嬉しそうに歯をむき出して敬礼した。すぐさま兵たちをどやしつけながら、走ってゆく。猛犬の手綱を手放したという不安から、ヴィルハルトはその背中に向かって呼びかける。
「この後も好き勝手したいなら砲は壊すな、奪え!」
それにテオドールは走りながら器用に反転して振り向くと、やけに芝居がかった仕草で一礼してみせた。不安だった。しかし、心配している暇はもうない。グリーゼの街の中から銃声が響いた。先頭を走っていた集団の何人かが斃れる。残った者たちが即座に応戦を始めた。ヴィルハルトも軍剣を抜いた。兵たちとともに街へ突入する。一度来たことのある街だ。構造は頭に入っている。敵は必死に抵抗したが、三方向からの同時攻撃にとても手が回っていない。第一擲弾戦闘団は手際よく敵を掃討しつつ、街の中心部へと迫った。ある程度まで進んだところで、頃合いだなと判断したヴィルハルトは戦闘から離脱した。もう十分、兵とともに戦っている姿は見せた。あとは状況の把握に努め、指揮を執ることに集中せねばならない。
やはりというか。予想通り、敵は例の山腹に建つ旅館を本部施設として使用しているようだった。その周辺の守りがやけに堅いことが、それを裏付けている。敵は街の中央にある広場から伸びる、旅館へと続く坂道の前に急ごしらえの防衛線を敷いているらしい。土嚢を積み上げただけの単純な遮蔽物を頼りに、決死の覚悟でそこを守る敵兵と現在は睨み合いになっているという。各級指揮官たちからの報告を受けつつ、現場へと急ぐヴィルハルトの足がふと止まった。何かが足らないことに気付いたからだった。
「どうされました、中佐殿?」
振り返ると、バロウズがにこやかに微笑みかけてくる。戦いの真っただ中にいるというのに、まるで気にした風もない。いったい、この司祭はどんな精神構造をしているのか。大いに気にはなるところだが、今はそんな分析をしている場合ではなかった。
「副官はどうした」
ヴィルハルトが尋ねると、バロウズもおや、という顔で辺りを見回した。が、カレンの姿は見つからない。
「どこかではぐれたのでしょうか。申しわけない。貴方から目を離さないようにと必死で、気が回りませんでした」
バロウズが詫びる。まるでお守でもしているような口ぶりだが、ヴィルハルトはあえて取りあわなかった。率いてきた兵にも聞いてみたが、要領のない答えしか返ってこない。街に突入した時点では確かに、一緒におられましたが。兵の一人が記憶を掘り起こしながら、自信なさげにいう。街へ突入した直後は乱戦になった。その際にはぐれてしまったのだろうか。仕方がない。ヴィルハルトは苛立ちの混じった溜息を吐いた。
「そこの二人、着いてこい。他の者は中央広場に向かえ」
「彼女を探すのですか?」
二人の兵を連れて来た道を引き返し始めた彼に、バロウズが意外そうな声を出す。
「仕方がない」
酷く嫌そうな顔で、ヴィルハルトは答えた。
「今は一人も無駄にできないのだ」
それが優秀な人材であればなおさらに、とは口に出さない。
けれど、実戦で戦闘団を指揮してみて分かったことがある。想定通り、本部中隊との間に大隊を挟まないことでより即応的で柔軟な運用が可能だった。だが権限を集中させた分、指揮官であるヴィルハルトの負担が大きい。齎される情報と、決裁せねばならないことが多すぎるのだ。六個中隊でこれなのだから、アレクシアに預けてある分も加えて、九つの中隊を同時に指揮するとなればどう考えても頭脳が足らない。本部中隊にまともな参謀組織を揃えるのは当然として、もう一つ、優秀な頭脳が必要になるだろう。幸いなことに、ヴィルハルトの下には安心して戦闘指揮を任せられるだけの人材が集まっている。兵站も任せておけば不安のない者がいる。だが、それとは別に指揮官の考えを誰よりも理解し、その求めるところを先読みし、各担当士官との調整をこなして当意即妙に場を整えてくれるような、そんな人材が必要なのだ。
そして、現在のヴィルハルトはそれができる人物を一人しか知らなかった。