勝利の代価 2
コワスニコフの命令が伝わると、隷下部隊は俄かに活気づいた。船舶部隊というのは、どうしても荒くれ者が多くなる。一度出港すれば、そこが大海であろうが大河であろうが関係ない。水上をゆくというのはそれだけで命懸けなのだ。船舶兵にはそうした危険を笑い飛ばすだけの度胸がいる。そしてまた、〈帝国〉軍内における船舶部隊とは、いずれ来るべき〈西方諸王国連合〉軍との戦争において、大河を渡って睨み合う敵陣へと真っ先に乗り込む斬り込み部隊としての役割もあることから、血の気の多い者が優先的に配属されやすい部署でもあった。
コワスニコフが直接指揮する特別挺身隊主力には、隷下に船舶兵からなる三個白兵大隊と、一個鋭兵旅団がある。白兵隊というのは船舶部隊独自の編制だが、実質は鋭兵とさほど変わらない。わずかな違いは将校のみならず、兵卒の武装にもサーベルが含まれていることくらいだろうか。船舶部隊は通常の銃兵部隊とは異なり、船上での戦闘も想定しているからだ。狭い船の上では装填に時間のかかる小銃よりも剣の方が有利になる場面が多い。そのため、小銃の発達によって陸上戦では廃れつつある剣術も、船舶部隊においては未だ重要視されている。個人の技量にばらつきはあるものの、船舶兵ならば誰もが剣を扱うための訓練を受けており、〈帝国〉軍では名剣士は船乗りから生まれるとさえ言われている。実際、コワスニコフなどは皇室の剣術指南役と対等に打ち合えるだけの手練れでもあった。
自らの腕前にも自信のあるコワスニコフは、直属の配下である船舶兵たちの実力に対してもまた微塵の疑いを抱かない。彼の立案した戦闘計画は単純明快だった。猛者揃いの船舶兵からなる白兵大隊を前面に押し出し、それを鋭兵たちに支援させる。それだけだった。
作戦開始の号令一下、船舶兵たちは戦闘へ向かい殺到した。数も火力も敵に劣っている。しかし、恐れ知らずの白兵隊はなんら躊躇うことなく敵陣へと斬り込み、見事にコワスニコフの期待に応えてみせた。敵はよもやこれほどの反撃を受けるとは思ってもみなかったのだろう。白兵隊による猛攻で前衛が崩されると、すぐさま後退を始めた。当然、これだけで満足するコワスニコフではない。彼は白兵隊にさらなる追撃を命じた。
そして戦闘開始からおよそ二刻後。正午を迎えるのを待つこともなく、状況は一転していた。特別挺身隊の行動はもはや反撃ではなく、進撃に移りつつある。白兵隊が敵前衛を切り刻み、その傷を後続の鋭兵たちが抉ってゆく。
敵はその攻撃にまるで対応できないようだった。攻撃を仕掛けてきた部隊は、本来ならばフェルゼン大橋を守るために配置された防御部隊なのだから当然、その為に必要な重火器も配備されているはずだ。にもかかわらず、擲弾砲の一発も放ってこない。仕掛けてきた以上は、当然、勝機があると見込んでのことだっただろうに。それが一度、反撃を受けただけであっさりと反転し、あとはじりじりと後退してゆくだけだ。そんな敵の体たらくぶりが、コワスニコフにとって不満といえば不満であった。
とはいえ、問題はさらさらない。このまま戦闘が推移したならば、フェルゼン大橋に迫るのも時間の問題だろう。司令部には和やかな雰囲気さえ漂い始めている。その時だった。
「閣下!」
酷く焦った様子で、司令部に誰かが飛び込んできた。街の警備を任せている中尉だった。コワスニコフたちが何事かと訊くより先に、彼は飛び込んできた勢いそのままに報告した。
「背後から新たな敵が出現! 我が軍に猛攻を仕掛けております!」
「後方から?」
些か戸惑った声でコワスニコフは応じた。敵の伏兵かと疑う。現在、制圧しているこのグリーゼという街の周辺は一通り捜索してあるが、山間部ということだけあって木々が多い。森や林の中に、少人数に別れた敵部隊が潜んでいたとしても何の不思議はなかった。だが、しかし。
「規模は?」
作戦参謀がさらに報告を促す。
「少なくとも、一個旅団はいるかと」
「一個旅団……?」
司令部が静まり返った。それだけの人数が固まっていたとしたら、見逃すはずがない。
ウスチノフは何をしとるんだ。真っ先に思い浮かんだのは、南へ向かわせた別動隊の指揮を執る男の顔だった。それだけの敵をみすみす取り逃したというのか。それとも、全滅したのか。いや、だとすれば窮地にあると信号弾で知らせるはず。そこまで考えた所で、コワスニコフは首を振った。今は他人の失態を責めている場合でも、身を案じている場合でもない。
中尉の報告は続いていた。とはいえ、彼も状況を完璧に把握しているわけでもないようだ。
敵の情報を持ち帰ったのは、襲撃を受けた鋭兵部隊の生き残りだという。彼の部隊は前線へと向かう途中、突如、背後から襲撃を受けた。まさかの方向からの攻撃に完全に虚を突かれ、部隊は瞬く間に半壊。上官も戦死してしまい、どうしてよいか分からなくなった兵はともかく味方と合流しようと、命からがらこのグリーゼに辿りついたということだった。
「生き残りの兵がいうには、途中、その敵の一部がこちらへ向かっているのを見た、と」
中尉の報告に、コワスニコフを始め司令部に集まっていた者たちが一斉に唸りを漏らした。怒りや不満を示したのではない。もちろん、恐怖を紛らわせるためでもない。単に、だろうな、という納得を表しただけだ。
「どんな敵だ」
聞いたところでどうなるものでもなかろうが、できるだけ多くのことを知っておきたいという欲求からコワスニコフはそう尋ねた。
「それが……」
中尉は答えるのを少し躊躇ってから、たどたどしく生き残りから聞いたという話の内容を説明した。
その敵は妙な出で立ちをしていたという。頭から白い布を被り、その下の顔を煤か何かでまだらに汚し、兵の持つ銃剣も黒く塗りつぶされていたらしい。まるで亡霊の軍団のようだった、と生き残りは述懐したという。
「トルクスの兵どもが使う手に似ていますな」
敵の奇妙な様相を聞いて、なんのつもりだと一人ごちたコワスニコフに参謀の一人が答えた。
「周囲の環境に合わせた色合いの布を被り、景色に紛れ込んで待ち伏せる。という、いかにも蛮族らしい戦法です」
彼は侮蔑を隠そうともしない声音でそう説明した。コワスニコフも気分としては彼に賛成だった。戦場で敵から身を隠すなど、皇帝の軍には許されない。
が、いまは敵を罵っている場合でもない。ともかく、防戦準備を急ぐようにコワスニコフは命じた。
「赤色発煙弾を撃ちあげさせろ。周辺部隊に危機を知らせるのだ。戦える者には全員、武器を配れ」
矢継ぎ早に指示を出すと、報告にきた警備担当の中尉が部屋からすっ飛んでゆく。参謀たちも覚悟を決めた表情で、各々の務めを果たすために部屋を出ていった。
「閣下」
唯一、司令部に残った参謀総局から来た中佐がコワスニコフを恨みがましい目で見る。お前のせいだと言いたいのだろう。コワスニコフも全く同感だった。
彼の進言を無視し、現有戦力の全てを前線に向かわせたことで南側への警戒が疎かにしてしまった。その隙を敵に突かれ、前線部隊が背後から敵襲を受ける憂き目に晒されている。そして、司令部も隷下部隊とは分断されてしまった。その全責任は司令官である自分にある。
外から破裂音が聞こえてきた。この宿の裏手にある山の山頂付近に待機させている軽砲部隊が発煙弾を撃ちあげたのだろう。これで、虎の子ともいえる砲兵隊の位置が敵に知られてしまった。その危険性はコワスニコフも重々承知している。信号弾による合図も、どれほどの効果があることか。前線部隊に後方で何か異常が起きていることを知らせるくらいはできただろうか。これでせめて、彼らが踏ん張ってくれればいいが。それ以上は期待すべきではない。
つまりは、絶体絶命というヤツだ。
どこか他人事のようにコワスニコフは自身が置かれている現状を再認識する。それでも彼の態度は悠々としたものだった。
「何をしとるんだ、中佐。はやく自分の武器を取ってこい」
彼は自らの軍剣をすらりと抜き放ちながら言った。
「ここを生き残りたくば、自ら剣を振って戦うより他にないぞ」
なぁに、いつもの事さ。船乗りらしい気楽な豪胆さでコワスニコフは笑う。彼にとって、荒波の中で櫂を握るのも、戦闘で剣を振るうのも大して変わらないことだった。何時だって命懸けなのだ。もし失敗しても、なんのことはない。死ぬだけだ。
来るなら来い、とコワスニコフは覚悟を決めた。そんな彼に応えるように、何処か。近くはない。けれど決して遠くはない何処かで、銃声が響いた。