勝利の代価 1
〈王国〉領北東部の海岸から奇襲上陸した(帝国)軍特別挺身隊主力の指揮を執るイゴール・コワスニコフ少将は若い時分から冒険好きな男だった。〈帝国〉人の平均からすると低慎重な部類に入るコワスニコフだが、齢五十四を数えてなおその肉体は筋骨逞しい。短く切り揃えた口髭に、油断のない目つき。冬であってなお赤銅に灼けた肌という、如何にも船乗りらしい風貌をしている彼は、(帝国)軍にあって長らく船舶部隊の指揮官を勤めあげてきた人物である。危険に挑むことこそが男子たるの本懐であると信じて疑わず、与えられた任務が困難であればあるほどに奮い立つ。そんな彼にとって、船舶部隊というのはまさに天職だった。場所によっては対岸すら見通すことができないほどの幅を持つ広大な大河へと船で漕ぎ出してゆくのは冒険以外の何物でもないからだ。
であるからこそ、彼は今回の作戦指揮を狂喜して拝命した。真冬の大海を越えて、敵陣の遥か後方へと上陸するなどという前代未聞の大作戦に参加せずして、なにが(帝国)軍船舶部隊将校か。年齢を理由に渋い顔をしてみせる妻子に対して、彼はそう豪語したという。
大方の予想通り。そしてコワスニコフの望み通り。真冬の航海は困難を極めた。
隔てるものがなにもない海上で絶えず吹き荒ぶ寒風と、砕け散る波が撒き散らす飛沫に甲板どころか帆まで凍り付き。荒波に踊る船体のせいで、漁師の息子など船に慣れている者ばかりを選抜したというのに、半数以上の兵が船酔いでまともに動けなくなる始末であった。
しかし、コワスニコフはへこたれなかった。どころか、嬉々として自ら兵とともになって帆を張り、縄を引き、船体にへばりついた氷を砕いて、油を塗り込んだ。率先垂範の姿勢を示すためではない。文字通り、総出でかからねば乗り越えられないと判断したからである。単に船乗りとしての本能に従っただけの行動であった。七隻の大型船からなる船団を指揮する立場でありながら、初年兵のような雑用をこなすことについて疑問も抱かなかった。しかし、指揮官の自覚を忘れたわけでもない。コワスニコフは数日おきに乗船を変えた。危険も顧みずに連絡艇へと乗り込み、次から次へと乗船を変えては兵を叱咤激励し、彼らとともにずぶぬれになりながら汗を流してともに荒波を乗り越えた。
こうして、〈帝国〉軍特別挺身隊は一隻も喪うことなく、真冬の大海を超えるという偉業を達成したのである。この成功には間違いなく、指揮官であるコワスニコフの存在が寄与するところが大きい。しかし、当の本人にはあまりその自覚がなかった。実際、彼は迫りくる危険も、押し寄せる問題もその全てが楽しくて堪らなかっただけなのだから。
だからこそ、上陸してからの展開には拍子抜けしていた。
上陸してすぐに蛮軍が駐屯している小さな宿場町へと強襲を仕掛け、あっさりとそこを占拠してからこれまで。街道の北口を封鎖するように部隊を配置して敵の補給線を分断し、北上してくるはずの友軍と協働して敵司令部が置かれているとみられる街へ挟撃を仕掛けるため、別動隊を送り出した。作戦は当初の予定通り、順調に進んでいる。無論、それはまったくいいことなのだが、しかし。あまりに張り合いがなさすぎるというのも、彼にとっては問題だった。
しかし、その日は朝からやけに蛮軍の動きが活発だった。
街道出口を封鎖している部隊に攻撃を仕掛けてきたのは、大河にかかる唯一の橋梁であるフェルゼン大橋を守備している蛮軍の部隊だという。てっきり、その敵は橋の防衛に徹するものだとばかり思っていたのだが。どうにも今朝方から積極的な攻勢に撃って出てきている。
こうした敵の動きを、コワスニコフは歓迎した。彼にとって戦闘は冒険そのものだったからである。であるから、本部施設として接収している、この町の中では一番格が高いのだろう山の斜面に建つ旅籠の一室に参謀たちを呼び集めたコワスニコフは終始、上機嫌だった。
「状況はまあ、落ち着いています」
全員が席に着いたのを見計らって、コワスニコフの右隣りに座る作戦参謀が口を開いた。
「前線からの報告によれば、敵の戦力はおよそ一個旅団規模、三千名ほど。火力で劣るとはいえ、人数ならこちらが勝っています。作戦目的の達成まで、防戦に徹すれば十分に持ちこたえられるでしょう」
そういってコワスニコフに視線を送ってきた作戦参謀は明らかに何か言いたげだった。
「閣下。いかがいたしましょうか」
朝食の玉子の焼き加減を尋ねるような彼の声に、コワスニコフは机の上に広げられている戦況図へ目を落とす。今の彼に与えられている使命は街道出口の封鎖だ。補給を断たれた街道内の敵軍が痩せ細り、南から進軍してくる友軍本体によって打ち破られるまでこの状況を維持すること。要するに、彼らの仕事とは時間稼ぎなのである。
現状、その目的は達成されている。敵の攻撃によって窮地に陥り、救援を求めている部隊もない。待っていれば勝てるのだから、余計なことなどせずに暖かい部屋で酒でも呷っていればよい。賢い人間ならそうするのだろう。
しかし。
コワスニコフは自らを賢い人間だなどと思っていなかった。むしろ、己ほど無茶で無謀な男はそういるものではないと考えている。そしてまた、そうあろうとしてきた。
待っていれば勝てるというが。どうせ勝てるのならば、待つ必要などないではないか。彼はそう考えた。何より、受け手に立つことが苦手だった。
「手の空いている部隊を片っ端から投入しろ」
当然のように発せられたその一言に、集まっている参謀団の面々が待ってましたとばかりに歯を剥きだす。今回連れてきた参謀たちはみな、彼の腹心の部下ばかりである。コワスニコフ同様、誰も彼も血気盛んで、喧嘩っ早い。言われなければ、とてもではないが参謀になど見えない連中だろう。そんな彼らにとって、敵の攻勢は絶好の退屈しのぎだった。当然、これを見逃す手はないと思っている。
「全戦力を持って敵の攻撃を打ち砕く。いや、むしろこちらが攻勢をかけて、本隊到着よりも先に敵の渡河点を奪取するのだ」
それでこそ〈帝国〉軍船舶部隊の名に恥じぬ働きではないか。机に手を打ち付けて宣言したコワスニコフに、参謀たちも我が意を得たりとばかりに歓声で応じる。
と、そこへ。
「お待ちください、閣下。ここはもう少し慎重になった方がよろしいかと」
誰かの冷静な声がお祭り気分に水を差した。茶々を入れたのは以前からのコワスニコフの部下ではなく、今回の作戦に際して軍参謀総局から派遣されてきた中佐だった。そんな彼の発言に、その場にいた彼以外の全員が不愉快そうに顔を歪ませた。
出航直前になって突然、この男が送り込まれてきた真意は定かではない。だが、コワスニコフには大方の見当は付いていた。一つは、いわゆるお目付け役的な意味があるのだろう。今回、コワスニコフに与えられたのは大型帆船七隻。これだけの規模の船団が一定期間、本国の目を離れて一人に指揮官に任された前例はほとんどない。無論、コワスニコフにはそんなつもりなど毛頭ないが、やろうと思えば反乱を起こせるだけの兵と物資がこの七隻には積み込まれているである。皇帝よりも制度と規則に忠誠を誓っていると揶揄される参謀総局が、これを危険視したとしても驚きはない。
そしてまた、もう一つ。これはコワスニコフがそう考えているというわけではなく、部下たちが勝手にそう思いこんでいるだけなのだが。参謀総局が彼を送り込んできたのは、今回の史上類を見ない大規模な渡海上陸作戦を成功させた功績を、船舶部隊に独占させないために送り込まれてきたのではないかという疑惑がある。
真実がどうであれ、突然やってきた部外者に対して好意的な者は少なくとも特別挺身隊の本部には存在しなかった。
しかし、当の本人はそんな周囲から向けられる感情にまるで関心がないようだった。
「敵は今回の攻撃に、予備ではなく防衛のための戦力を投入しています。妙だとは思いませんか」
中佐は顔の前で組んだ指をじっと見つめながら、嫌になるほど起伏のない声で意見した。
「それだけ敵が切羽詰まっているということでは」
参謀の一人がどうでも良さそうな口ぶりで応じる。せっかくの楽しみを邪魔するなと言わんばかりのその言いざまに、中佐は不快そうに眉を顰めた。
「昨日より、街道各所に建てられている蛮軍の腕木通信塔が忙しなく稼働しているのが確認されています。であれば、いま攻撃を仕掛けてきている敵は、明らかに街道内の敵と通じ合っているとみるのが自然でしょう。この攻撃には何か裏があります。それを見極めるまで、ここは防御に徹するべきです」
「貴官の言わんとすることも分かるがな。だが、動かずして勝てる戦いなどないぞ」
答えたのは作戦参謀だった。言葉の上では彼に同調しているようにみえて、実は全然そうではない。
「……分かりました」
話にならないというように首を振って、中佐はそこで初めてコワスニコフに目を向けた。
「この場の指揮官は貴方です。全戦力を持って反撃するという決断に変更はありませんか」
「当然だ」
コワスニコフは邪魔な羽虫を払うような態度で応じた。彼自身は部下たちほどこの中佐に対する悪感情を持っているわけではない。豪放磊落を絵に描いたような性格の彼であっても、歳を経ればそれなりに世間というものが分かってくるからだ。彼自身がそうであるように、この中佐もまた誰かに命じられた役目を果たしているだけなのだ。ただし、この場では船乗りのやり方に従ってもらうつもりだった。
「閣下がそう御決断なされたのであれば否応はない。ただし、私は反対したという点だけはお忘れなく」
「分かっとる」
いかにも参謀らしい物言いに呆れながら、コワスニコフは頷いた。
「なんなら、書面に残しておいてやろうか」
彼がそういうと、中佐はあからさまにほっとした様子だった。まったく。これだから中央の連中は机上でしか戦争を知らないと馬鹿にされるのだと思った。
しばらくは月一更新できそうです。皆様、大変お待たせしました。