命の値段 10
それは無人のアスペルホルンにて、〈帝国〉軍特別挺身別動隊指揮官のウスチノフと〈帝国〉本領軍第3鋭兵師団長のラノマリノフ中将が顔を会わせるより少し前。
早朝の事であった。
北街道南口に面する第一警戒線を構築する塹壕陣地の一つに籠る〈王国〉義勇軍第7旅団第四中隊長ニクラス・イェイツ大尉は疲れ果てた身体を壕内の壁にもたれさせ、僅かに陽光で白み始めた空を微睡ながら見上げていた。周りを見れば、彼の部下たちも同じように疲れ切った肉体を休めている。そんな部下の様子をぼんやりと眺めながら、イェイツは意味もなく胸元の物入れをまさぐった。くしゃくしゃに潰れた紙の塊が一つ出てくる。融けた雪や汗で濡れ、圧縮された紙はまるで粘土のようだ。たぶん、なにかを書き留めておいたものだろう。しかし、内容はさっぱり思い出せない。
イェイツは取り出したそれを掌の上に乗せ、無感動に見つめた。何をしているのかと問われても、彼には答えられないだろう。体力と気力を消耗しきった人間の行動に意味を求めることほど無意味なことはない。
すぐ傍で、先ほどから船を漕いでいた義勇兵の首がガクリと下がった。弾かれたように頭を持ち上げた彼はきょろきょろと辺りを窺い、イェイツに気付くと酷く恐縮した顔で縮こまる。しかし、今のイェイツには彼を叱るどころか、敢えて反応を示してやるほどの余裕もなかった。
何故、自分はまだ生きているのだろうか。
第3軍司令部からの、〈帝国〉軍の街道内への侵入を阻止せよという無茶な命令に従って、義勇軍第7旅団がこの陣地に展開してから三日が経った。全てが一瞬の連なりでありながら、それでいて永遠のように感じられる交戦を幾度か経て、彼は改めてそう思う。奇跡的に彼自身は無傷であった。しかし当然、誰も彼もが彼のように幸運なわけではない。今、壕内で休息をとっている兵たちの中には負傷している者もいるし、もちろん死んだ者もいる。
戦闘初日には、二人の義勇兵が死んだ。外の様子を窺おうと壕から顔を覗かせた途端、敵に狙撃されてしまったのだ。二日目には壕内に転がり込んだ手投げ弾の爆発に巻き込まれてさらに五人の犠牲者が出た。その内の一人は学生少尉だった。
それでもイェイツは挫けずに反撃を指揮し、どうにか敵を撃退し続けることができていた。ただし、それが自分たちの奮戦ゆえだとはどうしても思えない。確かに義勇兵たちは勇敢だった。自分たちより装備も練度も勝る敵相手に、一歩も引かずに立ち向かうことのできる人間が、果たしてこの世にどれほどいることだろう。
だが。そうではないのだ。未だに自分たちが、この墓穴とも呼べる凍り付いた塹壕の中で生き延びている最大の理由は、幸運だったからでも、勇敢だったからでもない。
すっかり思考回路が擦り切れつつあるイェイツでも、それだけは確信できた。
自分たちが今なお生き延びていられる最大の理由は、〈帝国〉軍が本気でここを突破しようとしていないからだ。
戦闘が始まってからというもの、どうにも〈帝国〉軍の動きは妙だった。執拗に小競り合いを仕掛けてはくるが、かといって積極的に突破を図ってくるわけでもない。反撃を受ければすぐに退いてゆく。何より、本気で突破を目的としているのであれば、大陸世界における全ての軍隊が信仰する火力主義の教祖とも呼ぶべき〈帝国〉軍が砲弾の一発も放ってこないことに説明がつかない。
こうした敵の動きを軍事の基本に照らし合わせれば、まず思いつくのは陽動だ。しかし、なんのためにそんなことをするのかがイェイツには分からない。陽動というのは、本来の目的から相手の目を逸らすために行うものだ。〈帝国〉軍の目的が街道防衛線の突破にあるのは間違いないのだから、当然、我軍の目はそちらに向いている。こんな風に、一々小競り合いを仕掛けてくる意味がない。
敵にもなにか事情があるのだろうか。それとも或いは、友軍が何らかの手を講じたのか。第3軍司令官のアーバンス・ディックホルスト大将はよほどの策士だと聞く。なにせ平民の出から軍大将にまで成りおおせたような人物だ。そんな傑物の脳髄からは、自分などでは思いつきもしない、たとえば〈帝国〉軍から砲火力を奪うような、そんな策を発想することができるのかもしれない。一昨夜前から、街道の北側が騒がしい事と何か関係があるのだろうか。
そういえば、昨日の日暮れにアスペルホルンの方角から照明弾が上がっていたな――。
と。イェイツが思い出した時だった。
突如、世界が激しく振動した。
「中隊長!!」
凍り付いた大気が打ち砕かれたかのような衝撃に、イェイツの思考が打ち切られると同時。健気にも起きて敵陣の様子を窺っていたらしい兵の一人が悲鳴のような声で彼を呼んだ。どうした、と聞き返すよりも早く、イェイツも壕から顔を出す。視線の先、街道南口の一帯が真っ白な煙で覆われているのが見えた。一瞬、積もった雪が強風に煽られたせいかと考える。すぐにそんなわけがないと自分を叱りつけた。酷い耳鳴りがした。
「中隊長、あれは……」
なんですか、と。彼を呼んだ兵が空を指さした。イェイツはその指の先を目で追う。見上げると、灰色の雲を背景に無数の真っ黒い点がぽつぽつと見えた。耳鳴りがどんどん強くなってゆく。
否。これは耳鳴りなどではない。
「退避!!」
それに気付いた時、イェイツは反射的に怒鳴っていた。
「退避だ! 全員、退避壕へ入れ!!」
イェイツは叫びながら、すぐ傍で空を見上げていた義勇兵の襟首を掴むと強引に退避壕の中へ引きずり込んだ。
「な、何事ですか……!?」
突然の暴力的な扱いに、若い義勇兵が目を白黒させながらイェイツに訊く。
「いいから、地面に尻をつけて歯を食いしばってろ!」
イェイツは彼を怒鳴りつけて黙らせた。説明している暇はなかった。彼らは知らない。これから何が起こるのか。いや、知識として知ってはいても経験したことがない以上、どれだけ丁寧に説明したところで意味はない。何より、すぐに説明する必要などなくなる。
轟音と衝撃。大地そのものが崩壊しているかのような振動が連続した。地面に座り込んでいるはずなのに、イェイツは一瞬、浮遊感に襲われる。続いて暴風が押し寄せた。質量を伴った空気の塊が濁流のように壕内へと雪崩れ込んでくた。
絶え間なく大地を揺らす衝撃と爆音が、イェイツにはまるで地獄の裁判長が木槌を打ち鳴らしているように聞こえた。判決は有罪。有罪、有罪、有罪。この世に生きる者に罪のない者など一人もいないのだと告げるかのように。人間である限り、その裁定には逆らえない。ただ無力感に苛まれながら、恐怖の時間が過ぎ去るのを待つより他にない。
やがて全てが終わると、世界は嘘のように静かになった。蹲っていたイェイツは、自分の上に降り積もった土くれを叩き落としながらゆっくりと立ち上がる。全身が細かく震えていた。気をつけねば、足を滑らせてしまいそうだった。退避壕から顔を出して、辺りを見回す。そこら中がしっちゃかめっちゃかだった。そこかしこで廃油を燃やしているような、どす黒い煙がもうもうと上がっているせいで、視界は濁っている。
「ちゅ、中隊長……」
震える声で呼ばれて振り向くと、先ほど退避壕へ引きずり込んだ若い義勇兵が怯えた目でイェイツを見ていた。
「何が起きたんですか……?」
あまりにも分かりきったことを聞かれて、思わずイェイツは彼を睨みつけた。そして、すぐに反省する。彼にも何が起こったのかくらいは分かっているだろう。ただ、頭の中が恐怖と絶望で飽和しているだけだ。イェイツに話しかけることで、どうにか現実に縋りつこうとしたのかもしれない。
イェイツはその義勇兵に休んでいろと言ってから、壕内を見て回った。幸い、壕内に直撃弾は無かったらしい。〈王国〉軍がこれまでの戦闘から学び、練り上げた野戦築城技術は相当のものであり、イェイツたちが籠る塹壕陣地も今の一斉砲撃にも見事に耐え抜いていた。
しかし、人間の方はそうでは無い。退避が遅れたことにより、吹き込んだ爆風や破片を浴びて少なからぬ死傷者が出ていた。血で真っ赤に染まった腕や足を押さえながら悶えている者。破片を顔面に浴びてしまい、目を失った者。血塗れの負傷者とは対比的に、たった一片の鉄の欠片が眉間に命中し絶命している者もいた。
そんな義勇兵たちを前に、イェイツの中で急速に無力感が膨らんでいった。
限界だ。もうこれ以上は無理だ。
そもそもが戦闘任務を想定した部隊ではないのだ。負傷者の手当すらまともにできないというのに、これ以上、どう戦えというのか。
本来背負うべき責務よりも、何倍もの重圧を担わされた三日間。なけなしの勇気と使命感だけでどうにか乗り越えてきた彼らだが、それも遂に終わりを迎えた。
たった一度の砲撃が全てを変えてしまった。もはや義勇兵たちには勇気も戦意も残っていない。あるのは絶望的なまでの彼我の戦力差を前に、死にたくない、生き残りたいという本能的な欲求だけだ。イェイツを見つめる彼らの瞳が、それを雄弁に物語っている。
撤退、というのがまずイェイツに思いついた言葉だった。それ以外に、どうしろというのか。今の一撃で義勇兵たちの意気地も挫けてしまった。彼らはもう戦えない。
しかし。どうしてもイェイツにはその決断ができない。命令違反、敵前逃亡と見做されることを懸念しているわけでは無かった。そうなったとして、待ち受けているのは最悪、銃殺に処されるくらいのことだ。ならば、ここに留まっても運命はさして変わらない。
彼が危惧しているのは、自分たちが独断で持ち場を放棄した結果、隣接する陣地に籠る味方が受けられるべき支援を受けられず、全滅してしまったら、ということだった。では、隣接する陣地へ兵をやって、撤退の意思を伝えるか。そんな時間があるだろうか。いまイェイツがここで悠長に考え事が出来ているのは、敵が砲撃の戦果確認と照準の修正を行っているからに過ぎない。敵がそれを済ませたなら、すぐにでも次の砲撃が始まるだろう。それも、先ほど以上に正確で容赦のない砲撃が。
動くのならば、いまを持って他にない。しかし、しかし。考えがまとまらない。焦りばかりが募ってゆく。呼吸がうまくできない。息を吸っても吸っても苦しかった。今までどうやって呼吸をしていたのか、どうしても思い出せない。意味もなく喚きだしたくなる。
そんな時だった。何者かが塹壕に勢いよく飛び込んできた。兵たちが怯えたように銃を構える。しかし、それが〈王国〉軍の制服を着た味方だと分かり、ほっとしたように銃口を下ろした。
「イェイツ大尉。ということは、ここは第七中隊ですか」
やってきた人物は周囲にいる兵たちを見回し、その中にイェイツを見つけるとそう口を開いた。ほっそりとした体躯の、初老の中佐だ。イェイツは彼を知っていた。司令部で旅団長の副官をやらされている人物だった。
「副官殿……? 何故ここに?」
「命令を伝えに来ました」
イェイツの質問に、副官は間髪入れずに答えた。誰に対しても丁寧な口調で話す人物だった。軍に呼び戻される前は、西部のどこかにある学校で校長を務めていたらしい。
「先ほどの砲撃による損害は?」
思い出したように敬礼しようとするイェイツを片手で制して、副官が訊いた。
「三名戦死、十四名負傷です」
「負傷者の内、まだ動ける者は」
「……手を貸してやれば、という条件付きなら七名。後は重傷です」
副官は悲しそうな顔で頷いた。
「彼らの名前を憶えておいてください。名もなき英雄になどなって喜ぶ人はいませんから」
その言葉の真意は分からねど、そうしようとイェイツは思った。
「それで、副官殿。命令というのは」
急くように尋ねる。
「旅団長が撤退を指示されました。君は動ける部下を連れて、北に向かいなさい。ただし、アスペルホルンに向かうのは駄目です。山の中を行きなさい。上手くいけば第三軍と合流できるでしょう」
「第三軍からの支援はまだなのですか」
「支援は期待できそうにありません」
「どういうことですか」
「口で説明している暇がないので、これを」
言って、副官は懐から一枚の書面を取り出してイェイツに渡した。
「さあ、大尉。早く。砲撃が始まれば、また動けなくなりますよ」
話は終わりだとばかりに急かす副官に、しかし、イェイツはどうしても聞いておきたいことがあった。
「何故、旅団長は今頃撤退命令を」
「私がそう進言しました」
きっぱりとした声で副官が答えた。
「我々も、義勇兵たちも。よくやったと思います。ですが、もう限界だ。誰に何を言われようと、そろそろ生き残ることを考えるべきです。それに、我々の任務はもはや意味のないものになりました。既に、街道内には敵が入り込んでいます。それも大挙として。いいえ、詳しく説明している時間はありません。大方の事情はそこに書かれています。ともかく、君は部下を連れて早く後退しなさい」
「副官殿はどうなさるのですか」
「私は別の中隊にもこのことを伝えに行きます」
当たり前のように答えた彼に、イェイツは絶句した。
「まさか、お一人で、ですか?」
「兵を見捨てて逃げ出すわけにも行きませんからね」
副官が困ったように笑う。しかし、柔らかい口調とは裏腹に、その瞳には固い決意の光があった。
「それなら、自分らも」
イェイツは身を乗り出しながら口を開いた。が、その続きを口に出す前に、副官からそっと手で制されてしまう。
「大尉。軍の階級というものは高ければ高いほど、果たすべき義務と負うべき責任が大きくなるものです。兵よりも君の方が。そして君よりも、私の方が。私は、私の階級に見合った義務と責任を私なりに果たそうとしているだけです。だから、君も君の階級に見合った義務と責任を果たしてください」
副官の声は穏やかだが、反論を許さない響きがあった。
「しかし……」
それでもイェイツは食い下がった。このまま、おめおめと自分だけ撤退するわけにはいかない。軍人としてはまったく当然の感情だった。
「では。命令です。退きなさい、イェイツ大尉」
諦めの悪いイェイツに、副官は全ての議論を終わらせる一言を口にした。
「部下たちを何としても、この死地から生還させるのです。良いですか? 何としても、です。この言葉の意味が、責任の重大さが分かりますか? 老人一人の命など、若者一人の未来に比べればどれほどのものでもないのです。その若者が一人ではないとなればなおさらに。さあ、もう質問は終わりです。ただちに自分の任務に取り掛かりなさい」
副官が両手を打ち鳴らした。これで本当に会話は終わり、ということだろう。
「……残念です」
塹壕の縁から外の様子を窺っている副官の背中に、イェイツはそう声をかけた。
「そうですね。まったくもって、私も残念でなりません。ですが、これが戦争で、私たちは軍人なのです。だから愚痴はそこまで。それでは皆さん。さようなら」
まるで下校する生徒たちに声をかけるような態度でそういって、副官は塹壕を出ていった。
失意の中、イェイツは部下を率いて後退を始めた。山に逃げろといわれたが、まずは敵との距離を取らねばならない。そう考えた彼は、ひとまず旅団の司令部がある地点へと向かった。そこまで行けば他中隊と合流できるかもしれないとも思った。その途中、敵の砲撃が再開したため、慌てて近場の塹壕へと飛び込んだ。この場所に布陣していた部隊は、先に撤退命令を伝えられたのだろう。壕内は無人だった。退避壕の中で砲撃が止むのを待つ間、イェイツは副官から受け取った書面に目を通した。
そこには目を覆いたくなるような現実が記されていた。
昨夜、アスペルホルンの方角から照明弾が上がったことを確認した旅団司令部は、何があったのかを確かめるため街に人を送ったらしい。その結果、アスペルホルンが現在〈帝国〉軍に占拠されていることを知った。敵の規模は少なくとも、一個旅団規模。どうやって街道内に入り込んだのか。経路は不明だが、第三軍はその敵の対処に手一杯のため、第七旅団に無茶な防衛任務を命じたのではないか、という副官の考えが余白部分に書き込まれていた。
なるほど、だから第三軍からの火力支援は期待できなかったのか。要するに俺たちは捨て駒にされたというわけだ。
無感動にイェイツはそう思った。怒りがあるか、といえば無論、ある。同時に、如何にも軍隊だなと納得もできてしまう。敵がどうやって街道内に侵入したのかはまったく分からないが、なんにせよ街道内に一定規模の敵が出現するなど第三軍にとっても予想外の事態だったに違いない。その中で、第三軍の司令部は潰走してきた第二軍の救出を優先した。理由は簡単だ。敗残兵といえど、第二軍の部隊は正規の訓練を受けた将兵たちで構成されている。そんな彼らと、ろくな訓練も受けていない義勇兵。どちらにより価値があるのかくらい、イェイツでも理解できた。
そうであるが故に、誰を恨んだらいいのかがイェイツには分からなかった。
砲撃が止み、撤退を再開したイェイツたちはようやく司令部の天幕が立つ丘までやってきた。天幕はそのまま残っていた。誰かいるかと中を覗いてみると、野盗に荒らされた後のように調度や書類が散乱している。
時間がないことを承知で、イェイツは天幕内を調べた。司令部の連中はよほど慌てて逃げたのだろう。散乱している書類の中には、敵が知れば喜びそうな情報の書かれているものもあった。天幕ごと焼いてしまうべきか。しかし、その為の時間も火種もない。と、そこでイェイツは何かに躓いた。みれば、紐で綴じられた分厚い書類の束が転がっている。取り上げて開いてみると、それは第七旅団の名簿だった。所属する将校、義勇兵たちの氏名と階級、所属中隊が記されている。あの旅団長はどうやら、本当に何もかも投げ出して逃げたらしい。
クソったれ。
ぎり、と奥歯が鳴った。自分たちをこんな状況においやった原因がどこの誰にあるのかはともかく。初めに復讐すべき相手が決定した瞬間だった。目的が定まれば、迷いは消える。
イェイツは名簿を持って天幕の外へ出た。ここからなら、陣地全体と街道南口まで見通すことができる。ほんの一刻前まで籠っていた陣地は〈帝国〉軍の砲撃によって散々に叩かれ、無残な有様だった。そこへ、南口から街道へと雪崩れ込む赤い津波が押しよせる。今まさにその先頭が陣地を飲みこもうとした、その時だった。めくれ上がった地面の隙間から発砲炎が上がった。〈帝国〉軍の先鋒がそれに激しく応射している。撤退命令を伝えるのが間に合わなかったのか。それとも単に逃げ遅れたのか。どちらにせよ、あの砲撃に耐え抜いてまだ戦っている者たちがあそこにいるのだ。もしかしたら、副官もその一人なのだろうか。
名もなき英雄になどなっても、誰も喜びません。
そんな彼の言葉を思い出したイェイツは、手にしていた旅団の名簿を自らの背嚢に押し込んだ。
俺が憶えているからな。
死んでいった者たち、置いてきた者たち、そして今なお戦っている誰かに向けて、イェイツは心の中で語り掛ける。彼らを名もなき英雄になどさせるものか。
天幕の周囲にはぬかるんだ足跡がいくつも残っていた。どうやら、東側の山へ向かったようだ。イェイツは不安そうにしている義勇兵たちに声をかけると、その足跡を辿って撤退を再開させた。
この足跡を追った先に、ヤツはいるはずだ。
背嚢に詰めた旅団員七千名の名簿の重みを肩に感じながら、イェイツは胸の中で静かに怒りの炎を灯らせる。決して激しくはない。けれど何もかもを焼き尽くすだけの熱を持った仄暗い炎。それが、この後の数日間、極寒の雪山を彷徨うことになる彼に活力を与えたというのは、なんとも皮肉な話だった。
それでも、イェイツはまだ幸運であった。誰もが退避できたわけでは無かったからだ。
本格的な侵攻を再開した〈帝国〉軍の前に、義勇軍第7旅団は為す術もなく踏み潰された。
より価値があると見做された敗残兵の命を救うために差し出され、見捨てられ、陣地に取り残された義勇兵たちの奮闘は誰の記憶にも残らない。