命の値段 9
敵がいない、というイストラコフからの報告を受けた〈帝国〉軍特別挺身隊の別動隊を率いるイードリ・ウスチノフ大佐は半信半疑のまま、全隊に前進を命じた。無論、あらん限りの慎重さを持って進むようにとも付け加えて。昨日まで、目の前の敵陣にはどう少なく見積もっても二個旅団規模の敵がいたのだ。それだけの数の人間が、たった一晩でどこかに消えるなどあり得ない。しかし。実際に敵陣へ踏み込むと、確かに人影一つ見当たらない。ただ、凍り付いた地面のそこかしこに残る焚火の跡だけが、昨日まで見えていたものが幻では無かったことを教えてくれる。魔女や妖精にたぶらかされているわけではないとすれば、これは敵の罠だ。徹底的な現実主義者であるウスチノフ大佐はそう判断した。恐らく、敵は我々をどこかで待ち構えているに違いない。街道の左右に横たわる山々や、凍り付いた木々の間に身を顰め、こちらに襲い掛かる時を虎視眈々と狙っているのだろう。であれば、こちらはどうするか。どうもしない。それがウスチノフ大佐の答えだった。彼は徹底的な現実主義者であると同時に、生粋の〈帝国〉軍人でもある。敵がどのような罠を仕掛けていようと。策を巡らせていようと。その全てを打ち砕き、前進するのみ。〈帝国〉軍には後退も足踏みもない。まさに、〈帝国〉軍人らしい思考であった。
それでも、警戒しつつの移動であるから前進速度は遅い。そんな中、地面に残る焚火跡を見る兵たちの顔に羨望が混じっていることにウスチノフ大佐は気付いていた。昨日、あれだけ盛大に煮炊きをしている光景を見せつけられ、凍てついた空気の中に忍び込むようにして漂ってくる温かい飯の匂いを嗅がされたからか。どうにも兵たちに落ち着きがない。中隊長など下級部隊の指揮官たちからも、兵たちが食事の手当てについて不満を漏らしていると報告も受けていた。
そろそろ不味いかもな。と、ウスチノフは襟巻を鼻まで引き上げた。
兵の不満を放っておけばろくなことにならない。かといって、食料を無限に生み出せる魔法の釜を持っているわけでもない。頭の痛い問題だった。いや。そもそもが今回の作戦は問題だらけだ。
彼が率いているこの部隊は、特別挺身隊などと大仰な名を賜ってはいるものの、その実、精鋭部隊とは程遠い。所属している兵は周辺部隊からかき集められたもので、その多くが漁師や船乗りの息子から選ばれている。そもそもが〈帝国〉軍広しといえど、海を渡って兵員を輸送するなどという大それた作戦を計画し、実行したことのある者などほとんどいないのだ。東方軍から極東諸島における渡海上陸作戦の記録を取り寄せてはみたものの、そこから学び取れたのは対岸に陸地の見える海峡を渡るだけでも一苦労だということだけ。結局、司令部が思いつけたのは元から船に慣れている者を多く集めるくらいだったのだ。それでも半数以上が上陸後も船酔いでしばらく使い物にならなかった。海の波は、川と比べ物にならないくらい“がぶる”せいだという。
まったく。面倒な作戦を思いついてくれたものだ。その上、実行は人任せとは。まあ、それが軍隊というものだが。不平を言っても仕方がない。ウスチノフは襟巻の中で小さく嘆息する。どの道、この真冬の街道で生き残るには前進するより他になかった。
見えない敵に警戒しつつ、慎重に歩みを進めたウスチノフ率いる特別挺身隊はその日の日没直前にアスペルホルンへと到達した。深々と雪に閉ざされた山々の合間に築かれた街は静まり返っており、陽はほとんど西の彼方に没しているというのに灯り一つ焚かれていない。結局、ここへ来るまで敵とは遭遇しなかった。どころか、街道内には敵の影も形もないように思えてならない。
薄気味悪い静けさの中を進みながら、果たして敵はどこに行ったのか、と考えることをウスチノフはいつしかやめていた。この先にある街は、この街道内に籠る敵軍の司令部が置かれているはずの街である。そこに敵が戦力を配置していないはずがない。軍事的常識に則って考えれば、それだけはまず間違いのない事実であるはずだ。
部下との協議の末、ウスチノフは街へ部隊を突入させた。一晩、様子を見るべきではという慎重論を主張する者もいたが、却下した。無論、彼とて夜の市街戦がどれほど始末の負えないものになるかは分かっている。けれど街を、もっと有体に言ってしまえば建物の群れを前に、もう一晩、寒風吹き荒ぶ中で野営するだけの忍耐力がウスチノフには残っていなかった。たとえどんな泥沼の展開になろうとも、真冬の寒空の下で眠るよりは屋根の下で戦う方がマシだと思った。そしてまた、同じように考えているのは彼だけではない。部下の多くもそうだし、兵たちなどは街を前にした途端、目に見えて浮足立っている。事実、彼の命令を拒む者は一人もいなかった。できるだけ頑丈で大きな建物を一つでも占拠できれば、今夜は凍えて眠らずに済むかもしれないという細やかな希望が、一時的に部隊の士気を押し上げているのだろう。
それに、もしも街に籠る敵が準備万端に守りを固めていたとしても、まったくの勝算がないわけではない。街に突入する寸前、ウスチノフは擲弾砲部隊に命じて緑色発煙弾を三発、打ち上げさせた。街道南口から進撃しているはずの本隊への合図だ。これで明日の朝には援軍が到着するだろう。もちろん、敵もこちらの存在に気付いただろうが。朝まで、何としてでも耐えぬかねば。そう覚悟を決めて、ウスチノフは兵たちに前進を命じた。
翌日、正午を少し過ぎた時刻。
〈帝国〉軍特別挺身隊別動隊指揮官のイードリ・ウスチノフ大佐と、〈帝国〉本領軍第三鋭兵師団長、ラノマリノフ中将はアスペルホルン庁舎前の広場で白けた顔を突き合わせていた。
「……つまり」
ラノマリノフの口から、いがらっぽい声が飛び出す。それに気付いた彼は一度咳払いをすると確かめるように言い直した。
「つまり、敵はこの街を放棄したということか」
「はい。敵兵どころか、住民さえ。人っ子一人見当たりません」
ウスチノフは疲れたような顔で頷いた。実際、疲れ切っている。何故かといえば、覚悟を決めて街に強行突入してから、夜通し見えない敵の姿に怯え。ようやく夜が明けたところで街を捜索したところ、完全に無人であることが判明したのだ。後に残ったのは徒労感だけだった。
「ふむ……では、敵はどこへ行ったのだ」
微かな困惑を覗かせながら訊いたラノマリノフに、ウスチノフは途方に暮れたように空を仰いで見せる。
北の方角から砲声が響いてきたのは、その時だった。