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戦鬼の王国  作者: 高嶺の悪魔
第五幕 〈王国〉軍冬季大攻勢
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命の値段 8

 敵に追われる形で北街道を南下していた〈王国〉軍第3旅団が、第12旅団の構築した防御陣地に転がり込んだのはその日の日暮れ前の事だった。防御陣地とはいっても凍った地面を掘り起こしている暇はなく、資材を組み合わせた障害物を設置しただけの応急的なものに過ぎない。とはいえ、陣地として一応の恰好だけは付いていたからか。第3旅団を追い立てていた〈帝国〉軍の動きを止めさせるだけの効果はあった。

 北の海を越えてきた〈帝国〉軍部隊は本領軍から戦力を抽出して特別編成された部隊であり、〈王国〉軍との実戦は今回が初となる。しかし、事前に前線から〈王国〉軍の強固な陣地を使用した戦術について嫌というほど説明を受けていた。そのため、たとえ張りぼてのような応急陣地であっても警戒感を抱かせることができたのだった。

 互いの射程ぎりぎりまで距離を詰めて両軍は睨み合った。やがて、空が白み始めるに従い、〈王国〉軍の陣地のそこかしこから炊事の煙が立ち昇り始める。アルぺスホルンから一夜の行軍を経て、ヴィルハルト・シュルツ中佐に率いられた第三軍臨時司令部の面々が到着したのはちょうど、その頃であった。


「本当に、こんなに目立って良いものなのか」

 ヴィルハルトを出迎えた第3旅団長のマンネンハイム少将が、空に向かってたなびく幾筋もの煙を見上げながら不安そうな声を出した。

「こうまで堂々と対峙しているのに、今さらコソコソとしたところで意味はありません」

 応じたヴィルハルトもまた、マンネンハイムと同じものを見上げている。しかし、その顔に浮かぶ表情はマンネンハイムとは正反対のものであった。

「むしろ、見せつけてやるくらいのほうがいいのです」

「見せつけるとは?」

 尋ねるマンネンハイムに、ヴィルハルトは「分かりませんか」と小さく肩を竦める。

「相手は海を渡ってくるなどという無茶をしてきた連中です。どれだけの装備と人員を運んできたのかはともかく、食糧事情はかなりキツイでしょう。グリーゼで略奪したところで、たかだか一つの、それも冬場の宿場町にあれだけの人数を満足させるだけの食料があるわけもない。その上、もし仮にまともな食料が手に入っても将校たちが独占してしまう。〈帝国〉軍というのはそういう軍隊です。兵の不満は相当なものでしょう。そんなところへ、こちらの兵が温かい飯を食っていると見せつけてやれば、はてさて……」

 はにかむように、ヴィルハルトは続きを濁した。それだけ言えば十分だろうとでもいうかのように。

 作戦行動開始前に、全軍へ温食を配給するようにと命じたのはヴィルハルトだ。凶悪な面構えの中佐が何を企んでいるのかを察して、マンネンハイムはわずかに眉を顰める。要するに、単なる嫌がらせ以外の何物でもない。悪趣味なヤツめと皮肉の一つでも言ってやりたかった。しかし、実際に敵の士気を挫くとまではいかずとも、低下させるくらいの効果はあるかもしれない。

 マンネンハイムがそう思ったところで、従兵が湯気の立つカップを持ってきた。縁まで淹れたての珈琲で満たされているそれをありがたく受けとると、一口啜った。芳しい香りを放つ熱い液体が舌を焼いて、するりと胃の腑に落ちてゆく。ほぅ、と自分でも思いもよらぬほど大きな息が漏れた。思えば、温かいものなどこの三日間ほど、一度も口にしていなかったなと思い出す。横を見れば、ヴィルハルトも嬉しそうに熱い珈琲を啜っていた。

「まあ。この大盤振る舞いでこちらの兵どもの士気は上がりそうだな」

 温かいカップを包み込むように持って、かじかんだ手を温めながらマンネンハイムは言った。

「しかし。この後がな。残る糧秣はかなり厳しいぞ。兵站の話では、携行食料が一人当たり半日分といったところだそうだ」

「人間、二日やそこらでそうそう飢え死にすることはありません。水はありますからね。それよりも、もう一度生きて温かい飯を食いたければ敵を打ち破るより他にないと教えてやれば、兵たちも死ぬ気で戦うでしょう」

「それは間違いない。なにせ、このわしをして、そうだからな」

 珈琲の入ったカップを見つめながらマンネンハイムが言った。この数日間を半ば凍りかけた携行食料で耐え忍んできたからか。温かいというそれだけでありがたいと感じてしまう。もう一度、生きてこの珈琲が飲めるのなら老後のためにと取っておいた貯蓄を全部叩いてしまっても構わないと本気で思えた。

「まったく。人間というのは存外、単純なものなのだな」

「勝利や敗北、損得などあれこれと考えるからややこしくなるのです」

 自嘲するように零したマンネンハイムに、ヴィルハルトが応じた。

「それが人の世の常ではありますが。しかし、戦場に来てまでそれに付き合ってやる必要はない。ここの道理は単純明快。要は生き残ればいいのです」

 さらりと言ってのけたその横顔に、マンネンハイムはどうして彼が絶望的な状況下でなお、兵を戦わせ続けることができたのか。そしてまた、これだけの状況にあってなお、ヴィルハルト・シュルツには迷いも戸惑いもみられない、その理由を理解した。否。理由など考えるまでもなかったのだ。生き残る事。この男は、ただそれだけを目的にしていたのだから。

 恐らくは彼にとって勝利や敗北さえ二の次なのだろう。考えてみれば当然だ。死んでしまえば勝利も敗北も意味はない。死者が得るのは永遠の平穏と安らぎだけだ。だからこそ、兵は彼に付き従ったのだろう。兵どもにとっての勝利とは生き残ることに他ならないから。恐ろしいのは、最悪を越えた状況下であってなお、自分に従えば生き残れるという確信を兵たちに抱かせることのできたヴィルハルトの手腕だった。

「聞いていた話とは随分と違うな、君は。もっと気難しい人物だとばかり思っておった」

 マンネンハイムが敢えてそう口にしたのは詫びのつもりだった。

「戦場ではできるだけ素直でいるように心がけていますから」

 冗談をいうような口調でヴィルハルトは肩を竦める。そして、真顔になると改めてマンネンハイムへと向き直った。

「それよりも閣下。くれぐれも」

「分かっとる。煮炊きで出た灰や煤は捨てておらん」

 答えたマンネンハイムに、ヴィルハルトは満足げに頷いた。

「しかしまったく。次から次へとよく思いつくものだ」

「戦しか能がないものですから」

 褒めているようにも、呆れているようにも聞こえる声でそういったマンネンハイムに、ヴィルハルトは口を自嘲に歪ませると、程よく飲み頃の温度になった珈琲を一気に飲み干した。


 世間話はここまでと立ち上がった彼は、この後の行動についてマンネンハイムと二言、三言交わしてから別れた。まだまだやるべきことは多く残っている。いや、むしろここからが本番だった。

 幸いにして、今のところ〈帝国〉軍は大人しくしている。いや。それも当然かと、ヴィルハルトは敵方へ目を向けた。〈帝国〉軍にしてみれば、これまで逃げの一手だった敵が友軍と合流した途端、目の前で大々的に火を焚き始めたのだから。先ほど、マンネンハイムにはああいったが、ヴィルハルトが将兵に温かい飯を配給するよう命じたのは単に敵への嫌がらせというだけではもちろんない。

 対峙している敵が突然、兵に飯を食わせ始めた。それを見れば普通は、何かしら大きな行動をとる準備だと考える。今頃、〈帝国〉軍はこちらからの反撃を警戒し、守りを固めている真っ最中だろう。

 ご苦労な事だ。

 ヴィルハルトは冬の空を見上げながら、他人事のようにそう思った。空を覆う分厚い雪雲は徐々に薄れつつある。気象官の話では、今夜は久々に晴れということだった。ヴィルハルトとしてはできれば今夜も曇っていて欲しかったが、全てが望む通りになどなりはしない。雪が降らないだけマシだった。

 第12旅団の本部にも顔を出し、あちこちの部隊を見て回り、それから臨時司令部の天幕へと戻った彼をブラウシュタインたちが待っていた。どこか緊張した面持ちの彼らを、ヴィルハルトはどこか晴れやかな気分で眺める。

 すべきことは済ませた。やるだけのことはやった。ならば、後は楽しむだけだ。

 そして。世の楽しみ方は数あれど、他人の苦労を水の泡にしてやることほど面白いことはない。


 〈王国〉北東部の山間を奔る北街道で奇妙な出来事が起きたのは、その日の夜であった。

 日が暮れて、すっかり太陽が西の果てに沈んだ時分。突然、アルぺスホルン以北の北街道の各所に設置されていた砲台から照明弾が打ちあがり始めた。やや間を置いて断続的に打ち上げられる緑や赤の光の塊は、慶事を祝う花火ほどの華美でなく。さりとて、篝火の炎よりは派手に雪山を煌々と照らし出す。何かしらの規則性に則って打ち上げられているらしい照明弾は結局、空が朝焼けに染まるまで続いた。


 ようやく砲声の途絶えた朝の北街道で、〈帝国〉軍特別挺身隊のアレクセイ・イストラコフ大尉は腹心の部下であるガルキン軍曹とともに凍り付いた地面の上を這っていた。散々に踏み荒らされた雪が氷結し、まるでおろし金のようになっている。その上を腹ばいになって、怪我をせぬよう慎重に進む。酷く惨めな気分だった。イストラコフは自身に敵情視察を命じた上官を心から呪った。遮るものなどほとんどない大きな街道の上で睨み合っている敵の様子を見に行くには這うしかないと分かって、あの上官は自分に命じたのだと確信しているからだった。頭の中で思いつく限りの言葉で上官を罵りながら、イストラコフはそっと足元へ目を向けた。自分とまったく同じ動きで後を着いてくるガルキン軍曹の顔色は悪い。きっと自分も同じようなものなのだろうとイストラコフは思った。昨日、日中はひたすら敵の攻撃を警戒し、結局何も起こらず夜になったかと思えば、今度は一晩中、途切れることのない砲声に悩まされ続けたのだ。疲労が溜まっているどころの話ではない。それでも、どうにか目を開けていられるのは寒さと空腹のおかげだった。

 畜生。

 苦々しいものを噛み締めるように奥歯を食いしばりながら、イストラコフは意地と気力だけで前進を続ける。やがて、敵陣までもう目と鼻の先というところまで辿り着いた。ちょうど、雪が他よりも少し高く積もっている場所を見つけたので、その影にガルキンとともに転がり込む。そっと敵陣を窺うと、酷く静かだった。はて、とイストラコフは心の中で首を傾げる。静かすぎる。敵はどうやら焚火の一つもしていないらしく、覗きこんだ先は大気ごと凍り付いてしまったかのようにしんとしていた。昨日は嫌がらせかと思うほど、ああも豪勢に火を焚いていたというのに、いったいどういうことなのか。訝しみながらガルキンと目を合わせる。どうやら、あちらも同じようなことを思っているらしい。

「大尉。どうしますか」

 ガルキンが囁くような声で訊いた。

「どうする、と言われてもな」

 イストラコフは唇を尖らせながら応じる。どれほど馬が合わなかろうと、上官は上官だ。そして、彼らは敵情視察を命じられている。となれば、何かしら敵の情報を持ち帰らねばならない。もう少し近づいてみるか。いや。駄目だ。流石にこれ以上は見つかる。そうなれば情報を持ち帰るどころではない。あっさりと殺されるだろう。かといって、ここでじっとしていても同じことだ。

 イストラコフは途方に暮れた気分で空を見上げた。疲労と寝不足のせいだろうか。どうして自分はこんなところで凍えているのだろうという疑問が脈絡もなく頭に浮かんだ。腹がぐぅと音をたてる。故郷でよく作られている、魚貝のスープが飲みたくなった。その時々に獲れた魚やエビなどを使うごった煮のようなもので、臭み消しのために香辛料をたっぷり入れるからとにかく身体が温まる。〈帝国〉北方の沿岸に小さな領地をもつ男爵家の出であるイストラコフにとっては食い飽きた味だとばかり思っていたが、今は酷くあの味が恋しかった。と、取りとめもない思考を巡らせていると。

「あの」

 ふいにガルキンから呼びかけられ、イストラコフは現実に目を向けた。

「これはあくまでも、思いつきなのですが……」

 なにやら言い難そうな彼に、イストラコフは「ん」と喉を鳴らして続きを促す。なんとなく、ガルキンが何を言わんとしているのか分かるような気がしていた。


「敵が、いない?」

 イストラコフたちの報告に、上官はぽかんとした表情で聞き返した。

「はい。影も形もありません」

 イストラコフは無感動な声で繰り返す。その目の前で、上官は酷く混乱している顔のまま湯気の立つカップに口を付けた。珈琲の香りがした。その湯はどこから湧いて出たのだろうか。敵に位置を悟られないようにするため、火を熾すのは禁止だと命じた張本人の前で、イストラコフは無表情を保つ。努力する必要はなかった。既に感情は擦り切れている。

「……馬鹿な」

 カップの中身を半分ほど干したところで、上官が呟く。

「ならば敵はどこに行ったというのだ」

 それは敵に訊いてください、と心の中で皮肉りながら、イストラコフはガルキンとともに肩を竦めてみせた。


お久しぶりです。ぼちぼち更新再開していこうと思いますが、速度のほうはあんまり期待せずお待ちください。

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