命の値段 7
「終わりましたか?」
全てが済んだ後で、この山の砲台を指揮している大尉がひょっこりと顔を出した。
「ああ。協力に感謝する」
それにアレクシア・カロリング少佐は一瞥をくれることもなく応じた。彼女の前にはトルクス猟兵たちの沈む血の海が広がっている。祖国を失ってなお、民族の誇りを手放すことのできなかった勇敢な彼らの、哀れで無残な最期であった。対して、彼女やその部下たちには傷一つない。射撃号令を叫んだのはほとんど同時だった。にも関わらず、一方が全滅し、彼女たちが無事だった理由は単純。彼らよりも先に発砲した者たちがいたからだ。
「あんまり冷や冷やさせんでください」
そんな言葉とともに木立の中から出てきたのはエルンスト・ユンカース大尉だった。その手にしている小銃からは未だに硝煙が立ち昇っている。その背後には彼の率いる兵たちが射撃隊形を組んだまま待機しているのがみえた。
「どうしてわざわざ敵に姿を見せたんですか。せっかく気付かれていなかったんだから、そのままやっちまえば良かったんだ」
ユンカースはまっすぐアレクシアに近づくと、その耳元で叱るような声を出した。
「こちらの勝利は確定していた。だから、降伏の機会を与えるべきだった」
「騎士道精神ってやつですか」
答えたアレクシアに、ユンカースは呆れた様子で肩を竦める。
「ご立派ですが。そのために部下の命まで危険に晒すようでは指揮官としていかがなものかと。次からは他所でやってくださいね」
「我々は確かに殺し合いをしている。だが、憎しみあうが故ではない。無益な殺戮は避けられるのであれば、避けるべきだし、軍人として理性ある振舞いをすべきだ」
アレクシアがそう反論した時だった。
「――ぅ」
血だまりの中から、小さな呻き声が聞こえた。弾かれたようにユンカースが銃を構え、それを見た兵たちが身体を緊張させる。
「よせ」
アクレシアは発砲するなと男たちを手で制すと、そのまま自ら血だまりに近づいた。小さいが確かな、荒い呼吸音が聞こえる。
「生き残ったのか」
アレクシアの肩越しにその生き残りを目にしたユンカースが、「運のいいやつだなぁ」と感嘆したような声を出した。
「運ではない」
アレクシアはそれを否定した。どうして彼だけが生き残ったのか。それは周りの兵たちを見れば分かる。兵たちは彼を守るように囲んで死んでいた。たとえ我が身を盾にしてでも、と各人が自然にそうしたのだろう。トルクス猟兵たちからそれほどの忠誠を得ている人物は、この地上にただ一人しかいない。
「ラミール・アルメルガー将軍」
アレクシアが彼の名を呼んだ。
「殺せ」
荒い息を吐きながら、アルメルガーが答えた。
「それはできない」
言いつつ、アレクシアは彼の身体を仰向けにさせた。腹部に一発被弾している。
「療傷兵を呼べ」
「療傷兵!」
彼女の命令に、ユンカースが兵に向かって怒鳴った。すぐに、一人の療傷兵が駆けてくる。しかし、彼が傷の具合を確かめようとするのをアルメルガーは身を捩って拒否した。
「やめろ! やめてくれ、頼む。殺せ」
酷く疲れたような声で、彼はそう繰り返した。しかし、アレクシアはそれに首を振る。
「駄目だ。出来ない。戦う力の残っていないものを殺すことは禁止されている」
「アンタらは、分かってねえんだ。俺たちが、トルクス兵が捕虜になるってことの意味が。なあ、後生だから、俺を助けると思って、殺してくれ。別に、手をかけろとは言わん。このまま、放っておいてくれれば、いい」
「できない」
痛みに顔を顰めながら、途切れ途切れに懇願するアルメルガーに、アレクシアはきっぱりと告げた。
「ご立派な騎士道精神ってやつか」
アルメルガーが吐き捨てる。
「アンタらはいつもそうだな。おんなじ殺し合いの場にいても、自分たちだけは清廉潔白ですって顔をしやがる」
「なんとでも言うが良い。だが、貴方は負けたのだ。勝った私に従ってもらう」
話は平行線のまま。アレクシアは強制的に治療させるため、体格のいい兵を数人呼び寄せてアルメルガーを押さえつけさせた。アルメルガーはしばらく抵抗していたが、やがて静かになる。死んだのかと思ったが、療傷兵の話では痛みで失神しただけだという。
「分かってますか、少佐。これは中々に残酷な仕打ちですよ」
気絶したアルメルガーが担架で運ばれてゆくのを見送っていると、ユンカースが隣にやってきた。
「死なせてやればよかったと言いに来たのか」
「いえ。捕虜にするのは自分も賛成です」
問い返したアレクシアに、ユンカースはけろりと答える。
「なにせ、あのラミール・アルメルガーですから。コイツはかなりの戦果ですよ。良かったですね、少佐」
「それも君のおかげだ。その点はしっかりと報告するから安心しろ」
「それはどうも」
手柄を誇りたかったわけではないのだろう。ユンカースは興味もなさそうに応じた。
「ま。戦争ですからね」
なにかを振り払うかのように彼はそう呟いて、アレクシアから離れていった。
ユンカースがなにを言いたかったのか。アレクシアにも分かっている。彼女はアルメルガーを救うふりをして、その実、彼を生き地獄へと叩き落としたのだ。
「降伏はできない。理由は分かるな」。ラミール・アルメルガーからそう言われた時、アレクシアはただ「残念だ」と答えた。軽率に「分かる」などと口に出すのはあまりにも烏滸がましい事のように思えたから。祖国を滅ぼした相手に膝を突く屈辱はいかほどのものであろうか。彼女にはそれに思いを馳せることはできても、理解することはできない。
そしてこの先、彼はさらなる屈辱を味わうことになる。〈王国〉軍は彼を捕虜にしたことを大々的に喧伝するだろうからだ。いや、軍だけではなく政府もまた同様に。彼は、〈王国〉軍が〈帝国〉軍に対してなす術もなく敗北を続けているだけではないことを証明する証拠として扱われる。だからきっと、殺されることもない。彼は残りの生涯を、生き恥を晒しながら送ることになるだろう。少なくとも、彼はそう感じるはずだ。少ないやり取りしかしていないが、そういう男だというのは分かる。そして、その未来を彼に与えたのは、外ならぬ彼女自身だった。
アレクシアとて、その程度の事は分かっている。貴族として生を受けた以上、何者も政治とは無関係でいられない。物心つく前から、政治とはなんたるかを頭ではなく肌で学んできた。
しかし。ならば。死なせてやれば良かったのか。アレクシアは自問する。
なるほど。ラミール・アルメルガーの名誉を守るためならばそうするべきだったかもしれない。そうすれば、捕虜として生き長らえた者ではなく、最後まで戦って死んだトルクスの英雄として後世に語り継がれることになる、
いや。或いは今からそうするべきか。
そんな考えが頭を過ぎった。すぐに、別の方向から答えが返ってくる。
できない。
彼の名誉を守るためだったとしても。負傷して戦闘力を失い、捕虜となったものを手に掛けるなど。騎士として、軍人として、いやそれ以前に一個の人間として。それを己に許すことはできない。
それとも、これは私の自己満足に過ぎないのか。
アレクシアは悩む。自分の行いは正しいものであるはずだと、自分に言い聞かせれば言い聞かせるほどに、先ほどまで確かにあった正しさの形が曖昧に溶けていってしまう。
それでも。自分は戦争の狂気に冒された者たちとは違う。そのはずだ。
アルメルガーも。ユンカースも。彼らはまるで、これが人間の本来の有様なのだというかのように、殺戮を肯定する。戦争なのだから仕方がない。そんな言葉であらゆる悲劇と惨劇を正当化してしまう。
アレクシアにとって、その最たるものがヴィルハルト・シュルツという男だった。
だから彼女は否定する。
それだけは違う。それは間違っている。アレクシアは断言する。
人間は確かにそうした残酷な一面を持ち合わせた生き物だ。だが、決してそれだけではない。高潔さや良心といった言葉では言い表せない、何か素晴らしいものを持っているはずなのだ。
歯を食いしばり、アレクシアはまるで祈るようにそう思った。奇しくもその祈りが、彼女の嫌う上官がこの世で唯一信仰しているものと同じ教義であるなどと、彼女は知りもしなかった。