命の値段 4
一方で、〈帝国〉本領軍第3鋭兵師団長のラノマリノフ中将は潰走する〈王国〉軍を追って一部の部隊が街道内に踏み込んだことを知ると激怒した。
「何処の馬鹿だ。それは」
戦いが一段落したのを確認してから師団長用の天幕で休んでいた彼は、報告に来た参謀長へ怒りを隠そうともせずに訊いた。当然だった。猟兵どもの仕事が終わるまで、街道内には踏み込むなという上級司令部からの命令を無視した行動だからだ。最悪、作戦計画そののもが瓦解する可能性すらある。
「追撃を担当していた第301騎兵連隊の一部、だそうです」
参謀長もまた事の重大さを理解しているのだろう。顔を険しくしていた。
「すぐに指揮官を呼び出せ。わしもすぐに行く」
言うと、ラノマリノフは寝台の上に脱ぎ捨ててあった軍服の上着を掴んだ。元々、眠たくて休んでいたわけではない。眠れる時に眠っておくという、十五の歳から実践してきた軍人の基本に従っただけだった。
師団長用の天幕とはいっても、ラノマリノフの天幕は質素だった。寝台が一つと、簡素な木机に椅子が一組。それ以外には何もない。同じ師団長の中には戦場でも豪華な調度品を揃えた天幕を用意させる者がいるらしいが、ラノマリノフはそうした贅沢とは無縁の男だった。
「それと、総司令部に伝令をだせ」
「総司令部に知らせるのですか」
手早く腰に軍剣を吊るし、外套を着こんだラノマリノフに参謀長が小声で聞き返した。
隷下部隊の命令違反は当該部隊の指揮官のみならず、上級部隊の指揮官にすら責任が及ぶ。部下の統率が執れていないと見做されて、彼が何らかの処分を受けることを参謀長は恐れているのだろう。
「当然だ」
だが、ラノマリノフはきっぱりといった。彼は不祥事を隠蔽するという発想の無い男だった。だからこそ彼の軍歴は少将で止まった。そして、それでよいのだと考えていた。
参謀長は改まったように背筋を伸ばした。丁寧な敬礼をしてから、急いで天幕を出て行く。
ラノマリノフはそれを見送ったあとで溜息を零した。処分されるかもしれないという不安はもちろんある。だが、すぐに、とはならないだろうという楽観もあった。もしも猟兵たちの仕事が敵に気付かれていれば、何らかの対処をしてくるはず。そして、現時点で敵の行動に対応できるのは彼の師団以外にないからだ。
一部部隊が街道内に進出し、猟兵の浸透突破が敵に気付かれた可能性があると第3鋭兵師団から報告を受けた〈帝国〉第307次親征軍総司令部の決断は早かった。総司令部は可能性ではなく、すでに見破られたものとして作戦計画を修正。第3鋭兵師団へ、街道への攻撃を命じた。
このため、命令違反を犯した騎兵部隊への懲罰は一旦保留され、またラノマリノフも処分はされなかった。むしろ司令部では、隷下部隊の犯した失態を包み隠さずに上級司令部へ報告した彼の愚直さを高評価する声の方が大きかった。これは軍事に限った話ではないが、過去、些細な失敗がやがては重大な事態を招き計画を破綻させたという事例は大挙に暇がない。そうした事例を分析すると大抵の原因は意思決定を行う上層部と、現場の間における意思の疎通、情報伝達の齟齬に行きつく。故に、どんな組織であれ人間が集まっている集団において報告、連絡、相談が重要視される。
またラノマリノフが処分されなかった理由の一つとして、本領軍部隊のとりまとめ役であるアドラフスキ大将が、軍団長のリゼアベート・ルヴィンスカヤ大将に彼を処分せぬよう直談判したからという話もあった。第3鋭兵師団に作戦を任せたのもアドラフスキの決定だという。ラノマリノフが如何により上級の諸将たちから信頼されているかが窺える逸話であった。
対して、命令違反を犯した第301騎兵連隊第5中隊の指揮官は、ヴィルハルトが予想した通り、後の調査により功に焦り部下へ強引な追撃を命じたことが判明して処分された。もっとも、この戦争における彼の功罪については白黒の判別が難しい。確かに、彼の独断専行により作戦計画に狂いが出たからこそ〈帝国〉軍総司令部は第3鋭兵師団に街道への攻撃を命じた。それは街道内に構築されている〈王国〉軍砲兵陣地の制圧を行っている猟兵部隊への掩護、或いは敵の目をそちらから引き離すための陽動が目的である。しかし、言うまでもなく、北街道で〈王国〉軍の指揮を執るヴィルハルト・シュルツはこれよりも先に猟兵の浸透突破を見抜いていた。騎兵指揮官の独断専行の結果として、〈王国〉軍が猟兵部隊に対処するよりも先に〈帝国〉軍が次の手を打つことができたというのも事実であるからだった。
親征軍総司令部から攻撃の命令を受けた第3鋭兵師団であったが、即座に行動開始とはいかなかった。大勝したとはいえ、〈王国〉第二軍との合戦で少なからず損害を受けた部隊の補充、再編を行わねばならなかったからだ。そして、そうこうしている内に北街道の天候が再び崩れ雪が降り出してしまった。そのため、この日と翌日の攻撃は見送られることになった。
事態が動き出したのは、三日後。ヴィルハルト・シュルツが北街道内で第三軍の指揮を執り始めてから、五日目の朝のことであった。
「敵が南から街道内へ侵入してきました。これまでにない大軍とのことです」
ふらりと司令部に現れた通信参謀からの報告に、会議室の中は静まり返った。質問はなかった。誰もが暗い顔で俯き、何かを飲み下すように口を引き結んでいる。
「そうか」
そんな中、ただ一人平然とした顔のままヴィルハルトは頷いた。そのまま、特に興味もなさそうに戦況図へ目を落としてしまう。
「今後、状況が大きく変化しない限り報告する必要はないと前線監視所に伝えておけ」
彼は他人事のようにそう言った。実際、他人事だった。第7旅団が現在の位置にあるのはヴィルハルトの責任ではない。バッハシュタインに支援を強制されたのであれ、独断で動いたのであれ、旅団を危険に晒したのは旅団長ロズヴァルド中将の責任であることは明白だ。
そしてまた、ただの冷酷さから義勇兵たちに手を差し伸べないわけではない。街道南口を射程内に収める砲台は全て沈黙しており、街道内に残る第三軍の残存戦力は全て、北の敵に対応するだけで手一杯なのだ。今の第三軍に義勇兵を救う術はない。むしろ、義勇兵たちこそが軍を救う立場にある。彼はその考えを決して改めなかった。北へ全力を集中している今、第一警戒線が突破されてしまえば、敵とこのアスペルホルンまでの間には無防備な雪道があるだけなのだから。
「第3旅団は明日になれば第12旅団と合流できる。つまり、義勇軍は明日一日持ってくれればそれでいい」
「むしろ、今日一日でも持ってくれるかどうか怪しいですがな」
遊び飽きた玩具を放りだすように言ったヴィルハルトに、メッケルがぼそりと毒を吐いた。それは戦力として見た時の義勇軍に対する、残酷なまでに正当な評価であった。
司令部に重苦しい沈黙が満ちる。それが自分の発言のせいだと思ったのだろう。メッケルは咳払いをすると口を開いた。
「それに第3旅団も敵にぴったりとくっつかれたままです」
「だろうな」
メッケルの言葉にヴィルハルトも答える。会話自体に意味はなかった。ただ、みなの意識を別のものへ逸らそうとするメッケルに、ヴィルハルトも乗ってやっただけのことだ。
「第3旅団から離れた途端、街道中の砲台から狙い撃ちにされると思っているのだろう」
「実際、ここまで張り付かれては砲撃どころじゃありません。確実に味方を巻き込みます」
ヴィルハルトの予想に、砲兵参謀が悔しそうに唸った。
「それにもまして厄介なのはこの雪ですが」
「まあ、何もかも思う通りにはいかないさ」
溜息を零す砲兵参謀に、ヴィルハルトは吹っ切れたような顔で窓の外へ目をやった。一昨日から降り続いた雪で、どうにか除雪したばかりだというのにアスペルホルンの街は再び真っ白に染まっている。
「そもそも、冬場に砲兵で運動戦を使用などと考えた俺が間違っていた」
そのせいで兵には無駄な苦労をさせてしまったと、後悔するように息を吐く。この雪のせいで街道が埋もれてしまい、第3旅団への増援として向かわせていた砲兵第6連隊の合流を諦めざるを得なくなったことへの反省だった。
「住民の避難状況は?」
そこで思い出したようにヴィルハルトは訊いた。
「順調です。ほぼ完了しています」
すぐ脇に控えていたブラウシュタインが答えた。第3旅団と第12旅団の合流を待つ間、ヴィルハルトはアスペルホルンに残る市民を強制的に退去させる決定をしていた。これから戦禍に塗れるであろう街に住民を残しておくことの弊害を、レーヴェンザールで嫌というほど学んだからである。といっても、もはや街道全域が戦場といっても過言ではないこの状況ではどこまで意味があるか判然としないが。避難民の多くは山間の集落へ向かわせた。湖畔にある村などは観光客向けの宿泊施設を備えていることが多いため、寝床には困らないだろうという考えからだ。地元民は雪道の移動にも慣れている。大きな問題となった食料については、アスペルホルンにある商会の穀倉を丸ごと買い上げて配給することでどうにかなった。軍の手持ちにそのような資金の余裕などなかったが、ブラウシュタインが支払いを確約したのが大きいのだろう。
無論、問題はそれだけでは無かったが。
「最後まで渋っていた者たちも、代行の説得で折れてくれたようですからな」
ノーマンがぼそりと付け加えた。決して好意的な声では無かった。それもそのはずで、ヴィルハルトが避難に応じない人々に対して行ったのは説得などではなく、脅迫だったからだ。
たとえ明日、生まれ故郷が大海に没すると知っていてもなお、その土地を離れようとしない者は一定数存在する。当然、このアスペルホルンにも。ヴィルハルトはそうした者たちを司令部の前に集めさせると、彼らの前に旧式小銃を満載した荷車とともに姿を見せた。
「どうしても避難に応じないとあれば、軍に協力してもらう。ただし、任務に就けとはいわない。今の軍には君らを再訓練しているような時間も余裕もないからだ。ただ、個人でできる範囲内で街の防衛には協力してもらう。そこで」
ヴィルハルトは言葉を切ると、荷車から小銃を一つ手に取った。なんのつもりかと訝しむ住民たちの前で、小銃を手慣れた手つきで操作しながら続ける。
「街を残ると決めた者たちには小銃を支給する。敵が来たらこれでどうにかしてくれ。ただし、弾薬にも余裕がないため配れるのは一人一発だけだ」
「一発? たった一発で、何ができるってんだ!」
あっけらかんと言い放ったヴィルハルトに住民の一人が怒りの声を上げた。
「どう使うかは各人の判断に任せる。さて、支給を望む者はここに並んで。こちらのクロイツ大尉から受け取ってくれ」
彼は飴玉をしゃぶるような顔で応じて、小銃を荷車に戻した。話は以上、と締めくくって、さっさと司令部へ戻っていってしまう。住民たちは茫然とその背中を見送った。後に残ったのは旧式小銃を山積みにした荷車が一つと、その脇に立つ厳しそうな顔の大尉。それに警備の兵が二人のみだった。
残された住民たちは大尉にさらなる説明を求めたが、無駄だった。
「中佐殿が説明された通りだ。弾をどう使うかって? さてな。何を撃つにしても、自分のために使ってくれ」
殺気立つ住民に詰め寄られながら、クロイツ大尉はさらりと言ってのけた。その余りの横暴に住民たちは口を噤む。もはや、軍は自分たちを守るつもりがないのだと確信したのだった。多くの者が諦めたように肩を落として、街の外へ続く避難民の列に加わった。無論、小銃を受けとった者もいる。そうした者に関してはもうどうしようもない。
「第二軍の残存への手当てはどうにかなったか」
ノーマンの呟きなど聞こえなかったというようにヴィルハルトは訊いた。
「水と食料、それに薪はどうにか手配しました。防寒具の方はとても足りませんが」
ノーマンもまた、彼に対するわだかまりなどないかのような態度で応じた。ヴィルハルトのやり方に賛同できないからといって、住民の避難そのものに反対している者は司令部にもいない。
第二軍の残存はひとまずアルぺスホルンの郊外に集めてあった。奇しくも出陣前にバッハシュタインが演説を行っていたのと同じ場所である。街道まで退いてきた将兵の内、収容できたのはおよそ七千名とのことだった。前時代的な、ヴィルハルトに言わせれば時代錯誤な、合戦に敗北して生き残ったとすれば奇跡といってよい人数である。助けられた第二軍の将校らから第三軍司令官に、是非礼を言わせてもらいたいと申し出があったが、いかがしますかと、ノーマンが窺うような視線をヴィルハルトに投げた。ヴィルハルトはその視線をそのままブラウシュタインへ流した。対応を任せるという意味だった。ブラウシュタインは暫し考え込んでから頷いた。対応法を決めたらしい。ディックホルストが安否不明になっていることは第三軍内の秘密である。滅多な対応はできない。
「ひとまず。できる限りの事はやった、と思う」
自らに言い聞かせるように言って、ヴィルハルトは立ち上がった。
「明日、第3旅団が第12旅団と合流次第、作戦を発動する。ここまでご苦労だった、諸君も少し休んでくれ」
もっとも、ここからが一苦労なのだが。心の中で呟きながら大外套を羽織る。自分は休むつもりなどないのは明白だった。
「第一擲弾戦闘団から出した別動隊の帰隊を待たなくて良いのですか?」
呼び止めるようにブラウシュタインが訊いた。
「時間がない」
ヴィルハルトはきっぱりと答えた。
「義勇兵たちがどれだけ持ちこたえられるか確約が得られない以上、時間を無駄にはできない。それに、知っているかどうか。第一擲弾戦闘団の連中は孤立には慣れている」
それにブラウシュタインは曖昧な笑みを浮かべた。果たしてそれが信頼と呼べるものなのか。彼には言い切れる自信がなかった。
「俺は部下の様子を見てくる。君も休んでおけ、参謀長。行軍など久しぶりだろう?」
冗談を言うようにいって、ヴィルハルトは会議室を出ていった。