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戦鬼の王国  作者: 高嶺の悪魔
第五幕 〈王国〉軍冬季大攻勢
187/202

命の値段 3

 夜明けと同時に、〈王国〉北東部の北街道内で第三軍の指揮を執るヴィルハルト・シュルツの策謀は密かに動き出した。戦争では何時如何なる時もそうであるが、今回は特に速やかな目的の達成が求められる。そう考えたヴィルハルトは腕木通信による通信網を徹底活用した。日の出とともに動き出した腕木通信塔は休む間もなく臨時司令部からの命令を街道全域へ送信し続けていたが、当然、そんなことをすれば操作員たちはあっという間に疲弊してしまう。そこでヴィルハルトはさほど重要ではないと判断した通信塔から操作員たちを引き抜かせた。通信塔の操作が行えずとも観測手さえいれば観測は可能だ。送受信が行える地点を絞ることで全体としては操作員の必要数を削減し、また重要な場所に人員を集中させることで命令伝達の速度も精度も上がるだろう。といった素人考えだったのだが、これがものの見事に当たった。ほとんど場当たり的な再整備をおこなった通信網は前日よりも多くの情報を、より早くアスペルホルンへと集中させ始めたのである。

「……君に参謀はいらないのではないかな」

 それを見せつけられたブラウシュタインは、若干の悔しさを滲ませながら囁いた。自分たちが整備した通信網を、指揮を執り始めてからたったの一日目で戦場での使用に耐えうるだけの改良を施してしまったヴィルハルトに対して、心からの称賛を送れない自分に嫌気が差した。しかし、ヴィルハルトは「いいや」と否定するように首を振る。

「貧乏性なだけだと思う」

 自らをそう評したヴィルハルトに、ブラウシュタインは完敗したとばかり両手を挙げた。

 軍司令官に必要とされる資質はそれこそ星の数ほどあるが、特に重要とされるものに経済観念というものがある。戦争とは金銭の代わりに人命を使って行われる交渉に他ならない。売る時はより高く、買う時はより安く。その原則は商売でも、戦争でも変わらない。

 では、一人の命。その価値は。

 またくだらないことを考えた。ブラウシュタインは反省するように頭を振った。それよりも解決すべき問題は山のようにある。

 まず人手が足らなかった。特に問題なのが、集まってくる情報量が莫大過ぎて処理しきれなくなっていることだ。情報参謀一人では限界がある。やはり、数十名足らずの人員で軍を指揮しようなどと考えたのが間違いだった。

 しかし、有能な人材などそこらへんに転がっているものではない。

 そのことについて相談すると、ヴィルハルトは実に単純な解決策を提示した。

「下士官や兵の中から、文字の読み書きができるものを集めて手伝わせればいい。親が商売をしていれば計算もできるはずだ」

 何のことも無しに言い放った彼に、ブラウシュタインは衝撃を受けた。その次に、何故自分はそれを思いつかなかったのだろうかと自問した。答えはすぐに出た。所詮、自分も貴族なのだった。

 知らぬうちに選民思想が染みついていたということか。そう自嘲しつつ、ブラウシュタインはさっそくその解決法を実行した。読み書きのできる下士官兵はすぐに見つかった。十名程度の下士官兵を選び、情報参謀に与えた。また、空いている会議室を丸ごと一つ執務室として使うようにいった。通信塔が収集する情報量は膨大で、このままでは司令室が通信録で埋め尽くされかねないからだった。情報の伝達速度が速すぎるというのも、考えものだなと思った。


 すっかり指示を出し終えてしまったヴィルハルトは報告を受けるか指示を仰がれることがない限りやることがなかった。作戦は概ね、順調に進んでいる。もちろん、問題がないはずはない。日の出とともに第3旅団は再び〈帝国〉軍からの攻撃を受け、後退計画に遅れが出ていた。しかし、それも予想の範囲内ではある。今のところ、計画の修正を迫られるような大きな損害を被ったという報告もない。

 ヴィルハルトは不機嫌そうな様子で煙草を吹かし続けた。退屈だった。レーヴェンザールでも似たような毎日だったというのに、この違いは何だろうかとぼんやり考える。絶え間なく響く砲声が聞こえない。小銃による一斉射撃の轟音も、突撃する兵たちが叫ぶ蛮声も、銃弾を浴びた敵が苦悶する呻きもない。

 司令部の会議室にはいま、ヴィルハルトとブラウシュタインしかいなかった。着任して早々、前線まで足を延ばしてきた司令官代行の腰の軽さにあてられたのか。参謀たちは息苦しい会議室を飛び出して、各所へ散っている。暇を持て余していると、情報参謀が飛び込んできた。なにかを憂慮しているような、不安そうな顔を浮かべている。

「どうした」

 変化を歓迎するようにヴィルハルトは短く訊いた。

「街道南側から、後退する第二軍部隊を追って〈帝国〉軍部隊の一部が入り込んだようです」

 情報参謀は答えながら、最新の状況が書き込まれた戦況図を差し出した。

 始まったか。そんなことを思いつつ、ヴィルハルトは壁にかかっている刻時計へと目をやった。正午を少し過ぎた時刻だった。

「やれやれ。息つく暇もないな」

 彼は少しだけ崩れた笑みを浮かべると訊いた。

「規模は?」

「一個中隊ほどの騎兵だという話です」

「戦闘になっているのか?」

「というよりも、一方的に攻撃されているといった状況のようです」

 情報参謀の返答にヴィルハルトは頷いた。

 まともな撤退計画もなく、無秩序に後退すれば、そうなるのは当然だ。

 しかし、と。そこで少し考え込む。

 〈帝国〉軍にしても、仕掛けてくるにしても規模が少なすぎる。恐らく、これは敵にとっても予想外の事態なのではないだろうか。一部の指揮官が功を焦って独断専行するのはままあることだ。

「まあ、何事も予想通りとはいかないものだな」

 ヴィルハルトは誰にともなく独り言ちた。

「どうなさいますか」

 ブラウシュタインが訊いた。

「義勇軍第7旅団には?」

「すでに命令を達してあります」

「ならば何もすることはないな」

 ヴィルハルトは紫煙を吐きだすと、煙草を灰皿に押し付けた。

「すでに街道南口周辺は我々の火制範囲外だ。第二軍将兵には自力で第一警戒線まで辿り着いてもらうしかない。そして退いてきた友軍全てを収容し、我々が北の敵を殲滅するまでの間、義勇兵たちには何がなんでも第一警戒線を死守してもらう」

 もしも、その一つでも達成できなければ。とは考えなかった。彼はすでに命令を下してしまった。今さら撤回はできない。カレンの言ったように、連なる山々の全てを鮮血で染め上げることになろうとも。今の彼らはここで戦い、ここで死ぬ以外の選択肢を持たないからだ。


 冬季大攻勢に失敗し、たったの一戦で〈帝国〉軍に完全敗北した第二軍将兵たちはほとんど訳も分からぬまま、街道を目指して走った。この時点で作戦の失敗や戦いの勝敗を正しく認識している者は少なかった。多くの者はただ自己の安全を求めて、街道に入れば助かるだろうという根拠のない確信に突き動かされて走る。それはもはや撤退などではなく、敗走でもなく。ただ目の前の敵からの逃走であった。

 しかし、安全だと信じていた街道に入ってなお敵の追撃は止まなかった。それどころか、期待していた第三軍からの援護射撃すら行われなかった。

 この二つの事実を前に、第二軍は恐慌状態に陥った。当然、そんな状態で逃走を図ったところで、ただ敵に蹂躙されるだけだ。しかし、未だ己の責任を投げ出さずにいる指揮官たちがどれだけ反撃を命じても、敵に背を向けて逃げ出す兵が後を絶たず、中には銃をどこかで捨ててきた兵もいた。敵が迫っているというのに、この世での全てを放りだしたかのように雪の残る道端へ突然座り込んでしまう兵もいた。もちろん、味方の後退を援護しようと決死の戦いを挑む勇敢な者たちもいるにはいたが、それだけだった。


 そうした第二軍残党の収容と後送作業に追われていた義勇軍第7旅団の義勇兵たちに、第一警戒線で警戒任務にあたれとの命令が下されたのは今朝のことだった。

 武器と弾薬が配られ、持ち場を指示された義勇兵たちは困惑しつつも命令に従い、そして今、凍てついた塹壕の中で寒さに震えている。

 いや。果たして震えている理由はそれだけだろうか。

 義勇軍第7旅団第4中隊長、ニクラス・イェイツ大尉は部下たちとともに震えながら、何故こうなったのかという疑問を灰色の空へ投げかけた。無論、返答が返ってくるはずもない。


 イェイツが旅団司令部に呼び出されたのは今朝早くの事である。未だ、夜も明けきらぬ薄暮の時刻であった。

 義勇兵第7旅団は、旅団と名乗るだけの頭数を揃えてはいるものの、その組織構造は極めて単純だ。旅団隷下には連隊や大隊がなく、司令部の下に直接二十七個の中隊が置かれている。その司令部には付隊はおろか参謀団も存在せず、旅団長を含めてもたった数十名しかいなかった。

 もっともこれは何も第7旅団に限った話ではない。義勇軍がこれまでに設立した全八個旅団、その全てがほとんど同様の編制を取っている。連隊長や大隊長を務める高級指揮官が不足しているのはもちろんの事、そもそも義勇軍事態が戦闘を前提とした組織ではないからだ。司令部の仕事は正規部隊との窓口、隷下各部隊間の連絡や作業の調整などといった事務仕事が主であり、それだけならば何も大所帯である必要などない。

 しかし、ほとんど何の説明も無しに呼び出されたイェイツを含む二十七人の中隊長たちはそこで第三軍総司令部からの信じ難い命令を耳にすることとなった。

 義勇軍第7旅団は現在展開中の第一警戒線において、別命あるまで、或いは可能な限りにおいて、敵の街道内への侵入を阻止せよ。

 要するに、最前線で戦えという命令である。イェイツたちにそれを命じたのが、話が通じないことで有名な貴族出身の旅団長ではなく、その副官をやらされている旅団内でも信望の厚い平民出身の中佐だったのだから救いがなかった。要するに個人的な野心を満たそうとする旅団長の暴走でもなければ、質の悪い冗談でもないことは副官の表情を見れば分かるからだった。

 だとしても、無謀に過ぎる命令だった。第二軍で勝てなかった〈帝国〉軍相手に、どうして素人同然の義勇兵で抗えようか。それに、イェイツ直属の部下である三人の小隊長たちはいずれも総動員令によって動員された学生少尉に過ぎない。形ばかりの初等指揮教育を受けただけの彼らがまともに戦闘指揮など執れるはずもない。兵にしたって同じようなものだ。平時最低備蓄法によって定められている規定数を確保するためだけに、軍が大量に保管していた骨董品のような旧式小銃を持った一般市民。それが等身大の義勇兵の姿だ。

 その指揮官であるイェイツにしても、少し前前では現役を退いて十年目にもなろうかという予備役大尉だった。


 そんな自分に何ができるというのか。司令部は、ディックホルスト大将は、正気を失ったのか。

 幾度となく繰り返した自問自答。最悪の可能性を振り払うように頭を振ったイェイツは、そこでふと、視線を感じて顔を上げた。無言で、じっと自分を見つめている三人の学生少尉がいた。いや、彼らだけでは無かった。イェイツの部下である第4中隊の義勇兵全員が、彼を見ていた。

 彼らの瞳には縋るような、それでいて決して諦めとは無縁の光が灯っている。

 ああ、そうか。

 イェイツはそんな彼らの目を見つめ返しながら、ぼんやりと思った。

 軍からは戦力とすら見做されていない義勇兵だが、それは即ち彼らに戦意がないという意味ではない。義勇兵の多くは東部の出身だ。彼らが義勇軍に参加した動機は奪われた故郷を取り戻すためであり、敵と戦うことはむしろ彼ら自身が望むところだった。そのために軍で長い訓練を受けることを嫌って、義勇軍に入る者もいる。当然、それは理想に過ぎないけれど。まともな戦闘訓練も受けずに戦場へ出ても、できることなどたかが知れている。

 けれど、だからこそ。彼らには今、自分以外に頼るべきものがないのだ。

 イェイツは現実と理想の板挟みの中で、そう気付いた。その瞬間、彼の中で何かが弾けた。

 避けようのない困難に直面した人間の反応は大きく分けて二つある。

 一つは逃避。問題解決を諦め、運命に立ち向かうのを止めて現実から目を逸らし、自身をそのような状況に追い込んだこの世の全てを呪う。個人の生き方としては楽だろう。けれど、責任を負うべき立場の人間が選ぶべき道では決してない。

 そしてもう一つは、言うまでもなく立ち向かおうとすることだ。困難に真正面から対峙し、たとえ力及ばずとも懸命に抗おうとする。もっとも、この決断ができる人間は少ない。単に勇気がある、なしの問題ではないからだ。

 幸いというべきか。イェイツは後者であった。

 いや、或いは必然だろうか。彼は長らく予備役にあったとはいえ、かつては王立士官学校で正規の指揮官教育を受けた男だった。ヴィルハルト・シュルツのような異分子を除けば、士官学校に入学する若者の多くがそうであるように、彼もまたかつては理想に燃える少年だった。

 彼らを生き残らせてやりたい。

 自分を見つめる無数の視線。それを正面から受け止めて、イェイツは素直にそう思った。それが、生き残らせなければならない、に変わったのはすぐだった。

 たとえ義勇兵たちが愚かだったとしても、彼らの理想は崇高なものであるはずだから。

 こんなところで捨て駒のように死ぬのなんて、馬鹿げている。

 己の全てを投げうってでも祖国に尽くすこと。それは確かに、軍人に望まれる唯一にして至上の精神だろう。しかしまた、士官学校では若き士官候補生たちにこうも教える。全てを切り拓くのは己であると。たとえ全ての希望が潰えたように思われる戦場であっても、全身全霊で困難に立ち向かい、光明を見出すこと。そのために将校は部下を指揮し、戦いに勝利するための方法を学ぶのだ。

 同じ軍人でも兵と将校の最大の違いはそこにある。

 兵らが生きるも死ぬもの指揮官の判断一つなのだ。ならば、自分は彼らにとって理想の指揮官であろう。イェイツはそう決意した。そんな考えがまだ自分の中に残っていたのを知って、安堵にも似た笑みが零れた。士官学校を卒業して、十と余年。あの四年間で叩きこまれた理想が現実を前にして粉々に砕け散るには十分な時間だった。

 けれど、それでもかつての自分はその理想を本気で信じたことがあったのだ。それを無かったことにはできないし、したくもなかった。


「みんな、聞いてくれ」

 頭の中に残っている知識を総動員して考えを纏めたイェイツは、静かに口を開いた。義勇兵たちが一斉に聞き耳を立てるのが分かった。凄まじい重圧だった。けれど、彼は続けた。

「これから、戦いになると思う。まさかと思っているかもしれない。けれど、安心してほしい。みんながどうにか生き残れるようにするから、今から俺の言うことをよく聞いてくれ」

 もちろん、そんな保証はどこにもない。けれど、イェイツの言葉に三人の少尉たちは緊張した面持ちの中にわずかな安堵を滲ませた。

 要するに、旅団に与えられた任務は遅滞戦闘なのだ。

 イェイツは総司令部からの命令をそう了解していた。恐らく、第二軍が思いもよらぬ速さで総崩れとなり、第三軍の対応が間に合っていないのだ。イェイツはそう考えた。

 旅団長が本来の任務である第三軍への兵站支援から第二軍への支援を優先して、独断専行で部隊を前進させたことは全中隊長の知るところだった。恐らく、第三軍司令部は事が起こるまでそのことを知らなかったはずだ。第二軍敗走の一報を聞いた時、初めて第7旅団の現在地を知ったに違いない。攻勢に移る第二軍に場所を譲るため、第三軍は一度街道内へ部隊を後退させている。その展開が間に合っていないのだ。だから、司令部は苦肉の策として、やむを得ず義勇軍第7旅団に第一警戒線で敵を迎え撃つよう命じた。

 そう考えれば、説明はつく。無論、納得はゆかないが。

 しかし、そう考えればいくらかやりようはある。

 自分たちの役目は第三軍の部隊が準備を整えて前進してくるまでの時間を稼ぐ事なのだ。無理に戦う必要はない。決してこちらからは仕掛けず、兵を塹壕に隠して敵の攻撃に耐え抜く。やるべきことはそれだけだ。幸いというべきか第一警戒線の陣地群は強固だ。

 それに弾薬もたっぷりある。第二軍の補給用にと用意されていた分が丸々不要になったからだ。輸送の準備を整えていた馬車列は弾薬を下ろし、代わりに負傷者を積み込んで後方に退いていった。

 おおよそ、戦闘に臨もうとする指揮官がこれと望むものは揃っているというわけだった。

 となれば、後は指揮官の質が問題となる。大昔に学んだ陣地の活用方法や、防御戦闘の手順を思い出しながら、イェイツは指示を出し始めた。それは新品少尉のように拙い指揮だったかもしれない。けれどその時、彼は確かに任務をやり遂げる自信があった。

 彼は知らない。既に彼らを支援する砲台はなく、そしてまた増援も来ないということを。

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