〈王国〉軍冬季大攻勢 9
「中佐。私は現状、第三軍司令部の中で唯一、無事が確認されている生き残りだ。なので、暫定的に軍の指揮権を引き継いで、臨時司令部を設置する必要がある」
ロクサムがカレンを立ち上がらせ椅子に座らせたところで、ブラウシュタインが言った。
生き残った最上級者が指揮を引き継ぐ。軍の原則通りの彼の発言にヴィルハルトも頷く。
「司令部の要員はさしあたり、周辺にある部隊から引き抜くとして。中佐、君の言う通り、〈帝国〉軍が海を渡ってきたとして、我々はどうするべきだと思う」
「全力で北の敵を叩くべきかと」
ヴィルハルトはさらりと答えた。
「幸いなことに、第二軍が南で攻勢を仕掛けている現在。我々はそちらを気にする必要がありません。いまならば北に戦力を集中できる。船でやってきたのだとすれば、装備は軽装だと思われます。火砲も擲弾砲と、騎兵砲くらいは持ってきているかもしれませんが、重砲はないと考えて良いと思います」
ヴィルハルトの予想は根拠があった。船舶部隊に詳しい、元同級性からの教えだ。
ブラウシュタインは思わず感嘆の唸りを漏らしそうになった。先ほどまで混沌としていた状況が一変したような気分になったからだった。為すべきことが明確になり、やらねばならぬことが一覧なって頭の中に思い浮かぶ。
ブラウシュタインは横にいるロクサムへ目を向けた。そちらも同じような気分のようだ。
「決まりですか」
「決まりだな」
ブラウシュタインの問いかけに、ロクサムが頷く。ヴィルハルトが不可解なやり取りに顔を顰めていると、ブラウシュタインが顔を上げた。
「実は、司令部の要員は既に確保できている。足りないのは指揮官だけだ」
「指揮官は貴方では?」
訝しんで聞き返したヴィルハルトに、彼は肩を竦めた。
「私に軍の指揮など執れると思うか? 軍に入ってからずっと事務畑だったんだぞ。小隊の指揮だってまともに執れるかどうかも怪しい」
だから、と。ブラウシュタインはヴィルハルトを見つめた。この世の全てを恨んでいる科のような凶悪な目つきが彼を睨み返す。
「だから、君に臨時の司令官として第三軍の指揮を執ってもらいたいのだ」
「……自分は中佐ですよ」
しばしの沈黙の後。ヴィルハルトは当然の反応を返した。
「だからなんだ。もったいぶるな」
ブラウシュタインが少し苛ついたように言った。ヴィルハルトはこの戦争が始まってから、こんなことばかりだなと思いながら続けた。
「順序を考えれば」
「順序を考えれば、ロクサム少将に引き受けていただくべきだ。当然、私もそうお願いした。しかし、少将は旅団の指揮に集中したいと拒否された」
ヴィルハルトはロクサムを見た。痩身の老将は事も無げに肩を竦めて、彼の抗議の視線を受け流した。
「儂も軍の指揮など執ったことがないからな。もちろん、マイネンハイムもだ」
「自分だってありませんよ」
「惚けるな、中佐。レーヴェンザールにおける君の戦ぶりを知らない者はいない」
ブラウシュタインが口を挟んだ。
「……つまり。自分以外はみんな、了承していると」
声を低くして尋ねたヴィルハルトに、ブラウシュタインとロクサムはほど同時に頷いた。
つまり、グリーゼ急襲の一報からヴィルハルトを呼び出すまで時間があったのは、カレンに養父の死を報告する役回りを押し付け合っていたからではなく。自分に臨時司令官の職を押し付けるためのお膳立てを整えるためだったのか。ヴィルハルトはどこか他人事のようにそう思った。色々と考えたせいか。煙草が吸いたいと思った。
「問題になりませんか」
「もちろん、なる。それがどうした」
それはいつかの会話の焼き直しだった。しかし。
「三個大隊の大隊長を兼任するのと、軍の指揮権を預かるのとでは意味が違います」
もしもヴィルハルトが第三軍の指揮を執るとなれば、事は軍の指揮命令系統上の問題では済まなくなる。誰が、どのような権限をもって彼をその地位に就けたのかという統帥権の問題にまで発展しかねない。
「分かっている」
だが、ブラウシュタインは頑なだった。
「そこは俺が負う。臨時司令部からの命令は俺の名で出す。公式には、君はここで何もしていないということにする。こう見えても、レーヴェンザール侯爵だ。誰に文句を言われようと、どうとでもしてみせる」
「バレたらどうするつもりですか」
「……君主大権、第十三条だ」
深く眉間にしわを寄せながらブラウシュタインが吐き出した言葉に、ヴィルハルトは呆れ返った。
「統帥権の委譲?」
聞き返した彼にブラウシュタインはむっつりと頷く。
「いつの時代の話ですか」
「あくまでも、言い訳に使うだけだ」
自分でも無茶なのは分かっているのだろう。ブラウシュタインは恥じるようにそっぽを向いた。
君主大権とはいうまでもなく、君主制国家の君主が有する最高権限である。要するに君主が国家を統治するための権限であり、一般的には立法、行政、軍の統帥権、司法、外交といった分野に関する絶対的な決定権のことを指す。この〈王国〉では、君主の持つ大権を全部で十六からなる条文によって法で規定していた。そのうちの第十三条。統帥権の委譲とは文字通り、〈王国〉の君主の持つ軍統帥権を第三者へと与えることができる大権だった。
何故そのようなものが大権に含まれているかといえば、事はこの国の独立当時にまで遡る。この国が独立へいたるまでの戦いで軍の全権を任されていたレーヴェンザールは傭兵だった。今でこそ後世の創作によって無数の尾ひれがついた大英雄として称えられているが、しかし。傭兵は傭兵だ。金で雇っている者に軍の全権を任せたという、〈王国〉にとって不名誉な歴史的事実であることに変わりはない。それを正当化するためにでっち上げられたのが、君主大権第十三条。統帥権の委譲というわけだった。
無論、近代的な軍制が整備された現代ではそのような大権も無用の長物である。そもそもその存在を知っている者すら少ない。よほど研究熱心な法学者か、或いは文書整理で暇と退屈を持て余す、平時の哀れな軍人くらいのものだろう。もちろん、ヴィルハルトが知っていたのは後者だからだった。
しかし。ブラウシュタインはそれを言い訳に使うというが、君主大権はいうまでもなく君主のみがもつ権限だ。彼は貴族ではあっても、君主ではない。そして今は、ただの軍大佐に過ぎない。そもそもそんな言い訳が通るはずもないのだ。
そういったヴィルハルトに、ブラウシュタインは見事な詭弁を使って答えた。
「私はレーヴェンザール侯爵だ。侯爵とは領主であり、レーヴェンザール侯爵家の領地は〈王国〉の東半分。ならば、ここの君主は私だ。大権の一つや二つ、振りかざしたっていいはずだ」
ほとんど息継ぎもせずに言い切った彼を、ヴィルハルトはしばし黙って見つめた。
なんとも滅茶苦茶な言い分だ。誰がそんな子供の言い訳以下の戯言に耳を貸すだろうか。しかし、これが血筋というものなのかもしれないと思った。じゃあ、自分はどうだろうと想像する。どうでもよかった。酷く煙草が吸いたくなってきた。
もちろん、ヴィルハルトには断ることもできる。いや、常識的に考えれば、断るべきだ。これ以上、政治的な問題に巻き込まれるのは御免だった。しかし。
「一つだけ。自分が軍を指揮するとなれば、貴方も自分の部下になるということですが」
「当然だ」
溜息を吐くように尋ねたヴィルハルトへ、ブラウシュタインが頷く。それが悪魔との契約書に血判を捺す行為だったと、彼は後になって気付いた。しかし、全てはもう遅い。
「なるほど。なるほど」
ヴィルハルトは低く笑いながら、煙草を取り出した。もう我慢できなかった。火をつけて、大して旨くもない煙を胸一杯に吸い込む。
敵の策に嵌って、あっという間に絶体絶命の危機に陥った一軍を指揮し、これを救う。
なんとも厄介で面倒な仕事だと思った。しかも、やりきったところで得られるものなど何もないし、最悪の場合は死ぬ。
だというのに。ヴィルハルトには抗いようもなく魅力的な仕事であった。
大きく息を吐いた。紫煙がもうもうと室内に立ち込めて、部屋にいる者たちの視界からヴィルハルトの顔を隠した。
「なるほど。見事なお覚悟です。であれば、精々ご期待に応えられるよう、微力を尽くしましょう」
煙が晴れた時。そこにいたのはもはや先ほどまでの彼では無かった。
「では、作戦参謀」
人格が一変したとしか思えない声で、ヴィルハルトはブラウシュタインを呼んだ。ブラウシュタインは己の背筋が震えるのを自覚した。自分がもはや引き返せないところまで来てしまったのだと理解したからだった。
「司令部の要員はいつ集まる?」
「昼までには」
ヴィルハルトは頷いた。
「その前に、君を作戦参謀から解任し、参謀長に任命する。司令部の人事は君がやれ。俺は実戦で使ったことのない部下を使いこなす自信がない。中尉、いつまでそうしている」
最後の言葉は、カレンに対するものだった。彼女は悄然とした顔でヴィルハルトを見返した。
「任務を放棄する気か。それならばよろしい。さっさと出ていけ。俺は構わない」
「中佐」
あまりの言い様にロクサムが顔を顰めた。だが、ヴィルハルトの言葉を受けたカレンがキッと眦を引き結んで立ち上がったのを見て、口を閉じる。
「申し訳ありませんでした、団長。私は任務を続行したく思います」
鋼のような声で彼女は言った。ロクサムの聞いたことがない声であった。
「では。一度戦闘団に戻り、即応態勢を取らせておけ」
「ただちに」
応じるが早いか、カレンは会議室を出ていった。彼女とすれ違う寸前、ロクサムはその翡翠の瞳に暗い炎が燃えているのを目にした。彼女の上官が瞳の奥底で絶やすことなく燃やし続けているものと同じ炎だった。
なんてこった。
ロクサムは嘆いた。カレンは今、養父を失った喪失感をヴィルハルト・シュルツの狂気に身を委ねることによって埋めようとしている。幼い頃から知っている少女が戦争に飲み込まれてゆくのを、ただ黙って見ているよりない自分が歯がゆかった。
唐突に、養女が軍に入隊するといいだした、と深刻そうな顔で相談してきたディックホルストを仲間たちと一緒になって笑いながら茶化していた時のことを思い出した。その時の自分を殴ってやりたかった。そういえば、あの時。唯一ディックホルストの悩みを真剣に受け止めていたのはシュトライヒだけだったなと思いだす。正しいヤツ、良いヤツから先に死んでいく。だのに、糞ったれの俺はまだ生きている。
クソ。ならば、仇を討たねばならない。
独立銃兵第12旅団長、ルートヴィッヒ・ロクサム少将は心に固く誓った。
今年最後の投稿になります。
本年もありがとうございました。
また来年もよろしくおねがいします。




