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戦鬼の王国  作者: 高嶺の悪魔
序幕 〈帝国〉軍襲来
18/202

18

 騒ぎのあったその日の夜。ヴィルハルトは孤児院の院長に呼び出された。

「ああ。良く来ましたね、ヴィル。紅茶は如何?」

 教会の横に建てられている孤児院の西側に設けられた、それほど広くは無い院長室で彼を出迎えた年老いた修道女、エマ院長は呼び出した理由を感じさせない穏やかな口調で尋ねた。

「僕はいりません。眠れなくなるので。シスター・エマ」

 ヴィルハルトが彼女の勧めを断ると、エマ院長は顔に苦い笑みを浮かべた。

「まぁ。貴方はまだ、他の子たちのように私を呼んでくれないのね」

 エマ院長は残念そうに言った。

 彼女は孤児院の子供たちや、教会の者たちからマザーと呼ばれ親しまれていた。

 悪意と言うものを全て洗い流した後の、善性のみが残っているような老女だった。

「私は飲んでもいいかしら?」

 ティーポットを持ち上げたエマ院長が聞く。

 ヴィルハルトが頷いたのを見て、彼女はお気に入りのカップに紅茶を注いだ。

 室内に、豊かな香りが立ち込める。

「さて、ヴィル」

 エマ院長は執務机として用いている、簡素な木のテーブルにつくとヴィルハルトには向かいに座るように示した。

 来客用の、詰め物が施されたソファだった。

 彼女は執務机と同様の、質素な作りの椅子に座っている。

「どういうお話で貴方を呼んだのかは、分かっていますね?」

「はい」

 エマ院長の質問に、ヴィルハルトは即答した。彼女の言葉の続きを待たずに、口を開く。

「すぐに出ていきます。元々、荷物は何もありませんから。ただ、弟だけは残してやってください」

「お待ちなさい、ヴィル」

 目の前の少年が口にした言葉を、エマ院長は驚いたように遮った。

 慌てたように言う。

「貴方は何を言っているんです」

 それに、ヴィルハルトは不思議そうな顔をした。

「カールをあんな目に遭わせました。僕はもう、ここに居られないのでは?」

「ヴィルハルト。貴方は賢い子ですが、どうにも考えを悪い方向へと進めてしまう癖があるようですね」

 エマ院長は呆れたような声で言った。

「カールの怪我は、幸いにも大した事はありません。しばらく顔が腫れるでしょうが、後は口の中を少し切ったくらいです。貴方は自分の腕っぷしに随分と自信があるようですが、子供同士の喧嘩などその程度のものですよ」

 彼女の声には、少し叱るような響きがあった。

 ヴィルハルトが一人で結論を急いだ事に対する叱責であった。

 ただし、叱られている方は成程、人を傷つけるというのは案外難しいんだなと全く別方向の事で反省していたのだが。

「ご両親には事の次第をご説明しました。その事で納得もしていただいています。それに、今回の事は私たちにも問題がありました。貴方と弟のハルディオの事を、他の子供たちにきちんと説明していませんでしたからね。もちろん、カール自身にも問題はあります。つまり、昼間の一件で責められるのは貴方だけでは無いという事です」

 エマ院長はそう言い切ると、紅茶を一口だけ飲んだ。

「人は過ちから逃れる事が出来ません。しかし、過ちを取り戻す事は出来ます。ヴィルハルト、それも貴方のような子供ならばなおさらです」

 エマ院長は、ヴィルハルトの目を真正面から見た。

「私が今夜、貴方に求めるのはただ一つです」

 そして、穏やかに言った。

「反省はしていますね」

「はい」

「二度と、暴力だけに頼ってはいけません。例え、弟の為だとしても」

「はい」

「赦す事を覚えなさい」

 彼女は言った。

「他者の愚行を正すために、貴方まで同じ愚行に手を付ける必要は無いのです。人よりも多くの痛みを知っている貴方なら、それが分かるはずです」

「……はい」

 ヴィルハルトは耐え切れずに視線を背けた。

 自分が彼女の言っている事を本当に理解しているのか、自信がなかった。

「良いですか、ヴィル。貴方が見てきたもの、見てしまったものも、この世界の真実の一つではあります。しかし、それだけが全てだと思い込むのは止めなさい。この世界には素晴らしいもの、美しいものが、確かに。そして数多く存在しているのですから」

「はい。シスター・エマ」

 ヴィルハルトはその言葉にだけは即答する事が出来た。

 それだけは確かな事だと知っていた。

 彼の目の前には、彼が素晴らしいと信じる一つのものが座っていた。

 或いはそれが、彼女をマザーと呼ぶことが出来ない理由かも知れなかった。

「我らの主は、我らに試練のみを与えはしません。必ず、報われる時が来るでしょう。その日まで努力を怠ることなく、耐え忍び待ちましょう。主を疑ってはいけません」

 彼女の最後の言葉は、教義に記されている一文であった。

 ヴィルハルトは頷いた。

 エマ院長は満足げな笑みを浮かべると、紅茶を一口飲んだ。

「さしあたって、貴方の場合はまずお勉強からですね。成績がとても良いと聞いていますよ。今日の事を取り返すためにも、一層、精進なさい」

 彼女はそう締めると、さあ今日はもうおやすみなさいとヴィルハルトに退室を促した。部屋から出ていこうとするヴィルハルトの背中には、寝る前のお祈りを忘れない事と釘を刺した。

 彼は言われた通りにした。


 その後のヴィルハルトの成績は伸び悩んだ。

 彼が先の一件で得た教訓をもとに、試験の時にそれと分からないような手抜きをしたからだった。

 加えて、態度も改めた。話かけられれば、それなりに丁寧な対応をするようにした。

 教会の教義にも、忠実に従うようになった。

 朝起きた時、食事の前、日暮れ、寝る前には祈りを欠かさず、不器用ながらも他者への無償の奉仕という教えを守る為、進んで教会や孤児院の手伝いを引き受けた。

 その様は主の教えを誠実に守る、敬虔な信徒そのものであった。

 子供たちの中で確定してしまっていた自分の立場も、何時からか誰も気にしなくなった。


 彼は酷く目立たない存在へと自分を作り変えたのだった。

 もちろん、すべての者があの事件を忘れたわけでは無い。

 時折、その事を思い出したように彼を恐ろしそうに見る者も居た。

 しかし、ヴィルハルトはそれを不満に思わなかった。

 自分の努力も、要するにその程度なのだろうと認めていた。

 それに、あと一年で初等教育講座は終わりだった。

 そうしたら、しばらく教会の手伝いでもして過ごした後、兵役を適当に終えて、そこらの店で雇って貰えれば良いと考えていた。

 王都でも初等教育を受けた者はまばらだから、その願望はまったく現実的であった。

 そんな、少年が描くにしては堅実すぎる人生設計が崩れたのは15歳になる年の事だった。


 その年、ヴィルハルトはエマ院長によって二つの道を示された。

 一つは神学校へと進み、聖職者になる道。

 もう一つは、王立士官学校へ進み、軍将校へとなる道。

 本人は上手く隠していたつもりだったが、エマ院長は彼の出来の良さを見抜いていたのだった。

 平凡な、何でもないような人生を考えていた彼はそれに戸惑った。

 何よりも、示された二つの選択肢の内、自分が選ぶことの出来るの道は一つだけだという事が彼の苦悩を深めた。

 入校試験に受かってしまえば学費の掛からない士官学校とは違い、高等教育機関でもある神学校は少なくない額の学費が必要になる。

 どうやら、エマ院長はそれすらも私財を削り援助してくれるつもりであるらしかった。

 だが、行き先の無い自分を幼い頃から引き取って育ててくれたどころか、無償で教育まで受けさせてくれた彼女に対して負い目のようなものを感じていたヴィルハルトには、彼女の好意を甘受する事が許せなかった。


 いや、それすらも言い訳に過ぎない事は自分でも分かっていた。

 教会で五年間を過ごしたヴィルハルトは、その頃になると信徒として求められる全てを身に付けているように見えた。

 だからこそ、エマ院長は神学校を薦めたのだった。

 しかし、その全てが単純な反復によって身についた、機械的な動作である事を知っていたのは彼だけだった。

 神学校を卒業すれば、最低でも小さな教会の神父になれる。

 誰かに教えを説く存在になる。

 ヴィルハルトは、自分がそんなものに成れるとは信じられなかった。

 何故ならば、彼には信徒として最も重要な事柄が欠如していたからだった。

 ヴィルハルトの中には、神に対する信仰心と言うものが欠片も存在していなかった。


 結局、彼は士官学校を選んだ。

 軍隊とは彼が五年間に渡り学んできた全ての事柄を否定する存在でありながら、不思議な事に、彼は士官学校での生活が苦だとは思わなかった。

 もちろん、軍隊がこの世の楽園であったわけでは無いが、ただ他の生徒たちと比べれば彼の動揺は少なかった。

 軍で最初に求められたのは、彼がひたすらにこなしてきた、決められた動作の反復に他ならなかったからだった。

 士官学校の三年間は、人間を効率的な暴力装置へと作り変えるものに他ならない。

 その点で言えば彼ほど優秀な生徒は居なかっただろう。あの教室で見せたように、彼の中には既に暴力的な装置が備わっていたのだから。

 こうして、ヴィルハルトは将校になった。

 彼は自分に求められている役割を完全に理解している。

 それでもなお、頑なに、エマ院長の教えを信じ続けてもいた。


 かくして、ヴィルハルト・シュルツという人格は作られてきたのだった。


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