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戦鬼の王国  作者: 高嶺の悪魔
第五幕 〈王国〉軍冬季大攻勢
179/202

〈王国〉軍冬季大攻勢 8

 灰色の雲が蠢く空にわずかな切れ目が入った。その隙間をすり抜けるようにして差し込んだ陽光が、純白に染まった大地を照らし出す。〈王国〉領北東部に降り続いていた雪は昨夜のうちに止んでいた。雪化粧を纏う山々のどこからか、ぴしぴしと何かが欠けるような音が響いてくる。凍り付いた樹木や凍結した湖が、朝日を浴びてゆっくりと溶け始めた音だった。

 北街道の南口に展開している第二軍、第二師団隷下、銃兵第二旅団の将兵たちは警戒線の塹壕の中で待ちわびていた朝の到来を告げるその音を聞いていた。ほどなくして、警戒線の内側に設けられている野営地のある方角から炊事の煙が上がり出す。一晩を凍えて過ごした兵たちはそれを見て、もうすぐ交代の時間だと互いを励まし合った。ここにいる彼らの多くが産まれ育った〈王国〉西部では冬でも滅多に雪が降らない。温かい食事が何よりも恋しかった。

 その温かみのある表情こそ見えないものの、太陽は地平線から顔を出しきったらしい。だんだんと明るさを獲得しつつある世界で、その異変に気付いたのは一人の兵だった。彼の中隊が配置されていた場所からは、北街道南口を出た先に広がる〈王国〉南東部の平野が一望できる。一様にほっとした笑みを浮かべている同僚や上官たちの談笑には加わらず、真面目に敵方を観察していた彼はそこに、赤色の軍衣に身を包んだ〈帝国〉本領軍の大部隊が大きく横に広がった合戦隊形をとって整列しているのを発見した。


 静かな朝は瞬く間に一変した。

 兵はただちに自分が見たものを分隊長の軍曹へ報告した。同じものを自分の目で確かめた軍曹は急いで中隊長の下へ飛んでゆく。陣内に作られていた掩体壕の中で仮眠していた中隊長はその報せを聞くと、自ら連隊本部まで走った。

 〈王国〉軍銃兵第22連隊、連隊長フェードア・フォン・ルントシュテット大佐は事実を確認するために自ら警戒線まで赴いた。そこにあったのは、報告と一字一句変わらぬ光景だった。

「連中は何をしてるんだ」

「分かりません。まったく動きません」

 別に答えを求めたわけでもないのに、近くにいた若い兵が彼の呟きに答えを返す。

 彼らの視線の先にある平野には、恐らく一万は下らないだろう〈帝国〉兵たちが微動だにもせずに整列し続けている。見ていた者の話によれば、かれこれ一刻近くああなのだという。

「あの、これはあくまでも思いつきなんですけど」

 先ほどルントシュテットの呟きに答えた兵が、恐る恐るといったように口を開いた。

「敵は、待ってるんじゃないでしょうか」

「待っている? 何をだ?」

「その、こちらが戦う準備を整えるのを、です」

 馬鹿な、とルントシュテットは失笑を漏らした。それから、急に真顔になる。〈帝国〉軍が伊達や酔狂であんなことをするはずがないと思い至ったからだった。であれば、今の兵の思いつきもそうそう馬鹿な話ということにはならない。

 そこへ旅団司令部に行かせていた連隊主席士官が戻ってきた。

「連隊長、急いで戦闘態勢をとれとのことです」

「やるのか」

 期待を込めてルントシュテットは聞き返した。第二軍に属する多くの将校と同様、彼もまた戦意と野心には不足がない。その瞳は欲望でぎらついていた。

「ようやく砲兵どもが追いついてきたようです。軍司令部からは準備完了次第、総攻撃に移れと。バッハシュタイン司令官はその先鋒を我々第二旅団に命じられました」

 先陣の誉れは大陸の東西を問わない。ルントシュテットは会心の笑みを浮かべた。子爵家の産まれである彼はよわい、若干34にして大佐の地位にある。だが、彼はまだまだ満足していない。目指すは〈王国〉軍総司令官の座である。こんなところで立ち止まってはいられない。

「第22連隊、戦闘準備。突撃隊形をとれ」

 ルントシュテットは連隊本部に戻りつつ命じた。主席士官が各大隊へ伝令を走らせる。命令は即座に実行された。大隊長たちの怒号が飛び交い、警戒線の塹壕から這い出してきた兵たちが隊列を組み始める。あっという間に、各大隊が三列横隊を組み上げた。背後を振り返れば、彼ら第二旅団ともに第二師団の主力を担う銃兵第4旅団も急いで陣形を組み上げている。〈帝国〉軍に動きはない。赤色の軍隊はただ、〈王国〉軍が準備を整えるのをじっと待っているようだった。

 およそ半刻後。〈王国〉領北東部と南東部の境界に、深紅の軍団と対峙する空色の一軍という構図が現出した。

 どうだ。その最中でルントシュテットは胸の内で呟いた。

 見ろ、このよく訓練された兵どもを。第三軍の、レーヴェンザール守備隊の兵どもとは比べ物にならない。負ける気がしなかった。昨日までの〈帝国〉軍の戦いぶりが、噂に聞いていた精強さとは程遠かったということも、彼の根拠のない自信を増長させていた。

 後方から轟音が轟いた。振り返ると、赤色発煙弾が一発、空に打ちあがっている。第二軍司令部のある方向だった。

「連隊長。合図です。全軍、総攻撃開始!」

 主席士官が報告した。旅団司令部から、突撃ラッパが高らかに響き渡った。ルントシュテットは軍剣を引き抜くと、大きく息を吸いこんだ。

「第22連隊、前へ!」

 ルントシュテットは自らの号令とともに、これこそが〈王国〉軍総司令官の座に至る栄光の道だと信じて踏み出した。


 アスペルホルンの街に久方の陽光が差し込むのと同時に、執務室で書類と格闘していたヴィルハルトは大気がわずかに振動したのを感じ取った。窓を大きく開けると、身を切るような寒風とともに、この半年ですっかり聞き慣れた砲声が室内に入り込んでくる。聞き慣れたというよりは、聞き過ぎたのか。レーヴェンザールでの戦いを経て、この頃では砲声を聞くだけで敵味方の区別がつくようになっていた。大陸世界どの軍隊を見回しても、野砲の口径はさほど変わらない。だが、砲弾の重量差か。或いは炸薬の質や量の違いか。〈帝国〉軍のほうがやや甲高く、〈王国〉軍のそれはやや野太い。いま聞こえてくるのは後者だった。どうやら、第二軍はようやく砲兵の展開を完了させたらしい。

 冬季大攻勢か。はてさて。どうなることやら。

 そう思って、息を吐く。もちろん、ヴィルハルトには分かっている。どうにもならない。第二軍は負ける。勝機は万にも億にも、兆にもない。準備を整えただけで勝てるのなら、〈王国〉は東部過半を失っていないだろう。

 それでも、執政府は軍の攻勢計画を受け入れるより他に無かった。国民がそれを望んだからだ。何時からか、何処からか流れ出した冬季大攻勢の噂が醸成した空気に、執政府も女王も抗えなかった。噂の出所はバッハシュタインか、ローゼンバインか。交易局第三課にいる友人なら知っているかもしれない。まあ、どちらにせよ賢明さの対極にある人物ということに変わりはないが。

 いやはや。なんとも人の世は。

 下らないことを考えている内にすっかり身体が冷えてしまったので、ヴィルハルトは窓を閉めた。同時に、扉を叩く音が響く。「どうぞ」と答えた。入ってきたのは副官のカレンだった。

「中佐殿、ブラウシュタイン大佐から、ただちに出頭せよとのことです」

 ヴィルハルトは特に疑問を抱くことなく頷いた。第二軍が行動を開始したのであれば、即応予備である自分たちも何らかの準備を整えておかねばならないのは当然だ。カレンに続いて部屋を出るとバロウズがいた。どうやら、ずっとそこで待機していたらしい。穏やかな微笑みを浮かべて会釈した彼に、とりあえず頷き返しておく。それを了承と受け取ったのか。バロウズは隊舎の外へ向かうヴィルハルトの背後にそっとくっついてくる。ヴィルハルトの護衛を自称している彼が、こうして行く先々へ着いてくるのはもはや恒例となりつつある。なので、ヴィルハルトは特に何も言わなかった。もちろん、信頼とは似ても似つかない心境であるが。


 二人を連れたまま兵舎を出たヴィルハルトは、営庭を挟んだ先にある独立銃兵第12旅団司令部の本棟へと入った。待っていた兵に促されて、幾つかある会議室の一つへ入る。

 中にいたのはブラウシュタインの他に、第一擲弾戦闘団と同じく即応予備として待機している第12旅団の旅団長、ロクサム少将と砲兵第六連隊長、それから街に駐屯している銃兵部隊の指揮官だった。

 その顔触れは予想通りなのだが、何やら様子がおかしい。ブラウシュタインは議卓に肘をついて何やら深刻そうに俯いているし、それ以外の者たちも一様に苦痛に耐えているような表情を浮かべていた。

「ヴィルハルト・シュルツ中佐、参りました」

「ああ」

 ヴィルハルトの声に、ブラウシュタインが顔を上げた。ブラウシュタインはたった一晩で十年も老け込んでいた。

「なにかありましたか」

 尋ねると、ブラウシュタインは口を開きかけ、それから何かを思い出したようにまた閉じた。ヴィルハルトは、どうやらこの部屋にいる者たちは自分の背後を気にしているらしいと気付いた。

「二人とも、少し下がっていてくれ」

 カレンとバロウズに振り返ったヴィルハルトが、そっと命じる。

「いや、構わん」

 それを押しとどめたのはブラウシュタインだった。

「どうせ知ることになる。遅いか早いか。それを誰の口から伝えるかというだけの話だ」

 言って、彼は隣に座っているロクサム少将へちらと目を向けた。ロクサムが酷く申し訳なさそうに首を振る。ブラウシュタインが血を吐くように溜息を吐いた。何かを覚悟したように顔を上げる。

 そして、告げた。

「昨夜。真夜中も過ぎたころだが、第三師団から一つの報せがあった」

「何でしょうか」

「グリーゼの街が〈帝国〉軍に襲撃され、第三軍司令部が壊滅した」


 しばらくの間、ヴィルハルトは言われた言葉の意味を理解しかねていた。彼をしてそうなるほど、突飛な話であった。

「……壊滅?」

 静まりかえる室内にカレンの震える声が響いて、ようやく意味が分かる。

「おとうさ……いえ、ディックホルスト閣下は? ご無事なのでしょう?」

 唇を真っ青に染めたカレンが、縋るような声で訊いた。ブラウシュタインが何も答えないので、彼女は視線を隣にいるロクサムへ向ける。ロクサムもまた、今は亡きシュトライヒ少将やウォレス中将同様、ディックホルストに引き立てられた平民出身の将校だった。彼女のことも、幼い頃から良く知っている。

「……分からない」

 その彼は、悲痛そのものの声で彼女に応じた。

「グリーゼには第三師団の本部もあった。師団長のウォレス中将、ディックホルスト大将ともに安否不明だ。現在、より詳しい状況を確認しているのだが……」

 ロクサムはその先を濁した。それだけで十分だった。

「そんな……」

 カレンが膝から崩れ落ちた。床にへたり込んだその顔に感情はない。死人のほうがまだ感情豊かだろう。ただ放心していた。

「〈帝国〉軍はいったいどこから?」

 足元の副官を無視してヴィルハルトは訊いた。彼の脳はすでに現実を受け入れ、その対処を始めている。

「それが全く分からないのだ。敵襲から生き残った者の証言では、まず初めに北の山から砲撃を受けたというのだが」

 首を振りながら、ブラウシュタインは途方に暮れたように答えた。

 その瞬間。ヴィルハルトの脳内で小さな閃光が幾つも瞬いた。不思議な感覚だった。グリーゼの街、司令部として使われていた宿といった映像が目まぐるしく頭の中を駆け巡り、消えてゆく。ブラウシュタインが何か重要なことを口にしていた気がした。思い出す。確か、父と以前あの宿に泊まったことがあるという話の一つ前だ。北の山を越えると、海岸がある。夏場は海水浴客でごった返す。そこへ、あの鮮やかな女性の言葉が蘇る。あらゆる事柄が一瞬で繋がった。全ての思考を飛び越えて、答えが頭の中に直接飛び込んできたような感覚。

「海か」

 我知らず、ヴィルハルトは呟いた。

「なに?」

 ブラウシュタインが茫然と聞き返す。

「そうか。海か」

 ヴィルハルトは繰り返した。ブラウシュタインを無視したつもりはない。あまりにも高速で回転する脳が、周囲の現実を認識する機能を放棄しているのだった。

 あり得ない、という言葉が次に浮かんだ。それをヴィルハルトは即座に打ち消す。天地が逆転したわけではないのだ。それに、考えれば考えるほどそうとしか思えない。

 クソ。あの姫様は天才だ。

 悔しくなった。酷く羨ましかった。いや、妬ましかった。

 やっていることは同じなのに、どうして彼女はこうも鮮やかで、自分はこの有様なのだろうと思った。

 負の感情に揺り起こされて、ようやくヴィルハルトの意識は現実に帰還した。目の前には呆気にとられたように自分を見つめているブラウシュタインとロクサムたちの顔があった。

「なにか分かったのか、中佐」

 ブラウシュタインが呆けたような顔のまま訊いた。

「あくまで、憶測ですが」

「構わない。教えてくれ。〈帝国〉軍はどうやって、我々の最後尾に回り込んだのだ」

「敵は恐らく、海を渡ってきたのです」

 その答えに、その場にいた全員が固まった。

「馬鹿な」

 呟いたのはロクサムだった。

「海を船で……?」

「はい」

 ヴィルハルトは頷いた。

「不思議なことは何もありません。我が国の領土と〈帝国〉領を隔てているドライゼ山脈も、大海を遮っているわけではない。船であれば、その北側を回り込める」

 たったそれだけのことに、なぜ彼らがこれほどの衝撃を受けているのか。現代に生きるものでは想像もつかないだろうが、世界には大陸一つしか存在しないと信じられていたこの時代。海に船を浮かべるという発想そのものが存在しなかった。多くの人や荷物を載せることのできる帆船を、運ぶ先もない大海に浮かべる意味などない。それが当時の、大陸世界の一般常識であった。

 だが。ヴィルハルトは言った。

「聞いたことがありませんか。〈帝国〉軍が東の果てで行っているという戦争を」

「極東諸島併合……海を挟んだ先にある陸地への、渡海上陸戦」

 ブラウシュタインが思い出したように呟いた。

「お伽噺だとばかり思っていた」

「自分もです」

 ヴィルハルトは下唇を嚙みながら、むっつりと頷いた。

「だから、今の今まで思いつかなかった。しかし、〈帝国〉軍の司令官はあの辺境征伐姫です。ここへ来る以前は、〈帝国〉東方軍や南方軍でも指揮を執っていた。当然、極東諸島への渡海上陸戦のことも知っていたはず。彼女の経歴に手がかりはあった。もっと早く思いついていてよかった。いや、思いつくべきだった」

 まるで自分一人で戦争しているような口ぶりだった。ブラウシュタインとロクサムは互いに感に堪えぬといった表情で顔を見合わせた。ヴィルハルトが本気で自分に腹を立てていると分かったからだった。


「第三師団の指揮は現在、誰が?」

 思い出したようにヴィルハルトは訊いた。

「ひとまず、銃兵第3旅団長のマンネンハイム少将が執っている」

 といっても、未だに旅団内ですらグリーゼが襲撃されたことを知らない部隊もある中で、指揮と呼べるほどのことができているわけではない。マンネンハイムはともかく友軍に連絡をつけるべく、片っ端から伝令を走らせているらしい。その一人が、このアルぺスホルンに到着したのが真夜中をとっくに過ぎた頃だった。

 自分が呼び出されるまでにそれなりの時間があった理由をヴィルハルトは誤解しない。養父の生存が絶望的だということを、誰がカレンに伝えるかで迷っていたのだろう。第三軍、というよりも元東部方面軍の上級将校たちにはそうした人間らしさを多大に残している者が多い。それは隷下将兵の結束を強めるという意味では役に立っているのだろうが、それでもヴィルハルトには馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。他者への慈愛に溢れているといえば聞こえはいいが、軍人とはその対極にある戦争を遂行するために存在するのだから。


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