〈王国〉軍冬季大攻勢 7
「失礼します!」
北街道南口にて、冬季大攻勢を実施している〈王国〉第二軍と交戦中の〈帝国〉本領軍第3鋭兵師団の指揮所天幕に、夜の静けさを引き裂くような勢いで伝令が飛び込んできた。冷え切った中を駆けてきた彼は、熱炉で暖められた天幕内の空気に一瞬、ほっとしたような表情を浮かべる。そんな彼に、天幕中央に置かれた円卓の上に広げられている戦況図を覗き込んでいた師団長のラノマリノフ中将を始め、師団司令部の参謀たちが一斉に注目した。それに己の役目を思い出した伝令はわずかに顔を緊張させて口を開いた。
「街道北部上空に、緑色照明弾を目視で確認しました!」
「来たか」
伝令が一息で言い切った報告に、参謀の一人が呆れとも驚きともつかない声を漏らす。
「本当に来たのか」
「閣下」
信じられぬという様子の参謀の横で、師団参謀長がラノマリノフに呼びかける。
「見てみよう」
答えて、ラノマリノフは脇に放り出しておいた大外套を掴んだ。前留めをしっかりと留めて、さらに首元から冷たい空気が入り込まぬように厚手の布を巻きつけて天幕を出る。参謀たちも彼に習った。
司令部の周囲は赤々とした松明の火で照らされているが、それでも夜の空気はしんと冷え切っていた。空には星一つ出ていない。たっぷりと雪を抱え込んだ分厚い雲に覆われているからだ。
ラノマリノフは口から白いものを吐き出しつつ、北の空へ目を凝らした。しかし、このところ老いのせいですっかり視力は落ち込んでおり、夜目も利かなくなっている彼には暗闇の他に何も見えない。そこへ、気の利いた参謀の一人が彼に望遠筒を差し出した。ラノマリノフは礼を言ってそれを受けとる。望遠筒を片目に押し付けた彼の目に、遥か彼方の夜空に光る緑色の閃光が映った。
「確かに。緑色照明弾だ。本当に来よった」
感に堪えぬという声でラノマリノフは唸った。ただちにやるべきことを思い出して、望遠筒から目を離した彼は参謀たちへ向き直る。
「すぐに総司令部へ伝令を」
「その必要はない」
指示を出そうとした彼を、女性の声が遮った。ラノマリノフたちはその声がした方向へ一斉に振り返る。予想通り、そこには〈帝国〉第307次親征軍団長、リゼアベート・ルヴィンスカヤ大将が軍参謀団を始めとした隷下部隊の指揮官たちを引き連れて立っていた。
「閣下」
ラノマリノフは驚きの表情を急いでしまうと、すぐに背筋を正して敬礼した。
「そろそろだと思ったのよ」
リゼアはふわりと微笑みながら答礼をした。老いたラノマリノフの目では見通すことのできない遥か遠くまで、彼女の蒼玉の瞳は見据えているのだろう。
「なぜ、お分かりに?」
「女の勘、よ」
尋ねたラノマリノフに、リゼアは片目を瞑る。彼女の背後に居並ぶ将官たちが諦めにも似た苦笑いをしているのを見て、そういうものかとラノマリノフは理解を投げ捨てた。
「さて」
リゼアは気分を切り替えるように一息つくと、背後に向き直った。
「これで街道攻略の手筈は整った。アルメルガー准将!」
「はい。軍団司令官閣下」
暗闇の中からやけに恭しい声が響き、かがり火の灯りのもとへ褐色の肌に野性的な面立ちの、かつては蛮族と呼ばれた男が進み出る。
「貴官は部隊を率いて山へ入れ。敵が構築している特火点を奇襲し、可能な限りこれを排除せよ」
「万事了解しました、軍団司令官閣下」
命じたリゼアに仰々しい一礼をすると、アルメルガーは再び闇の中へ消えていった。
「ラノマリノフ中将」
「は。軍団司令官閣下」
振り向いたリゼアに、ラノマリノフは背筋を伸ばした。
「貴官の第3鋭兵師団は猟兵どもが仕事を片付けるまで、上陸部隊と協働して、街道を完全封鎖せよ。が、その前に冬季大攻勢とやらを企んでいる連中に、身の程を思い知らせてやれ」
「承知いたしました、軍団司令官閣下」
実直な老将は腰をぴったり四十五度に折り曲げてその命令を受領した。
それはヴィルハルトたちがアスペルホルンの砲兵陣地を見学している頃のことだった。
東部方面軍改め、〈王国〉第三軍が司令部を置くグリーゼの街は平穏に一日を終えようとしていた。陽が翳り出すと、空を覆う灰色の雲はますます厚みを増してゆく。〈王国〉第三軍司令官、アーバンス・ディックホルスト大将は司令部として徴用している宿の窓から街を見下ろしていた。そこからはこのグリーゼの街全体を眺めることができる。先日から降り続けている雪で街はすっかり真っ白だった。そこを忙しなく駆け巡っている司令部要員や兵士たちに混じって、いまだ避難に応じていない住民たちの姿もちらほらとある。大してものも入っていない買い物かごを片手に家路を急ぐ主婦。冬の無聊を慰めようと、街で唯一営業を続けている酒場へ繰り出してゆく男たち。そんな彼らの横を、整然と隊列を組んだ兵士たちがすれ違う。戦時と平時の境界とはかくも曖昧なものである。いや、戦争とて所詮は人の営みの一つに過ぎない。ならばそこに日常も、非日常もあるものか。
下らない思考を弄んでいると、背後で扉が開く音がした。
「何の用だ、ウォレス」
ディックホルストは振り返りもせずに訊いた。
「おっと。バレましたか。こっそり忍び込んで驚かせようと思ってたんですがね」
おどけたように答えたのは更迭されたトゥムラー中将に代わって第三師団長を任せているウォレス中将だった。
「なんでバレんと思った」
ため息交じりにディックホルストは言った。
そもそも、自分の執務室に断りもなく入ってくるような男をディックホルストは一人しか知らない。士官学校で一期後輩にあたるこのウォレスという男は、中将になっても平民出身者らしい不作法さを捨てられないようだった。だがまあ、それでいいとディックホルストは思っている。長く生きていると、誰も彼もが変わっていってしまう。別にそれが悪いことだとは思わないが、一人くらいは変わらない男がいてもいい。
「何をしに来た」
ようやくウォレスに振り向いたディックホルストは、酒場にでも誘うような気軽さで尋ねた。
「いえね。別に何をしに来たってわけじゃないんですが」
要するに、暇というわけだった。
「そういえば、バッハシュタインは明日の朝からおっぱじめるつもりらしいですよ」
アスペルホルンからの情報です、とウォレスが言う。その報せを聞いたディックホルストは眉間にしわを寄せた。
「……できれば、わしもアスペルホルンに司令部を移したいんだがな」
嘆息するように彼は言った。
「気持ちはお察ししますよ」
茶化すように答えたウォレスだが、その顔は真面目だった。
第三軍が前線から最も離れたこのグリーゼの街に司令部を置いているのは、ディックホルストが自らの保身を優先しているからではもちろんない。執政府がそう望んだからだった。当然、それはまったく政治的な理由である。
〈帝国〉軍に三人いる大将の内、ディックホルストとバッハシュタインの二人が王都を離れている今、もしも総司令部に一人残るローゼンバインが何事かを企んだ際、彼に反対意見を述べることのできる軍人が王都にはいない。そのことを危惧した執政府が、その気になれば一日で王都と行き来が可能な距離にディックホルストを置きたがったのだった。
「執政府の気持ちも分かる。まず間違いなく、ローゼンバインは何かろくでもないことを企んでる」
ウォレスの言葉に、ディックホルスとも頷いた。
「だが、何を企んでいるのかが分からん」
彼は途方に暮れたように言った。いや、一つだけははっきりしている。どうやら、ローゼンバインはこの戦争を、軍から平民出身の将校を排除する好機だと考えているらしい。
「たとえそうだとしてもですね。そもそもあの野郎、端からこの戦争に勝つ気がないように思えませんか」
ウォレスの質問にディックホルストは顔を顰めた。軍の総司令官を「あの野郎」と呼んだことについてではない。まさかそんなはずがあるものかと言い返そうとして、それができなかったことに対してだ。
「ヤツは生き残るためなら何でもしますよ。だから、総司令官なんぞになれたんだ。その気になれば、祖国を〈帝国〉に売り飛ばしてでも生き残ろうとするでしょう」
「あり得んとは言い切れないが。しかし、〈帝国〉に寝返ったところで無駄なことくらいヤツも知っているはずだ」
〈帝国〉は他国を併合した後、その国の支配者階級を皆殺しにする。貴族である限り、粛清からは免れられない。
「だとすると、何ですかね。いよいよとなったら国外逃亡ですか」
「なんであれ馬鹿馬鹿しい話だ。祖国がこの有様なのに、軍人が軍務に集中できないとは」
「だからこそ、あの二人をアスペルホルンに行かせたのでしょう?」
酷く惨めな気持ちになって意気消沈しているディックホルストに、ウォレスが励ますような声をかける。あの二人とはもちろん、ヴィルハルト・シュルツとルシウス・フォン。ブラウシュタインのことだ。前者は言うまでもなく有能な野戦指揮官。そして後者は実際に部隊を率いた経験こそないものの、恐らく〈王国〉軍の中でも指折りの参謀だ。ディックホルストの企みに乗せられる以前、長らく人事局長の椅子についていたことがその証明である。如何にレーヴェンザール侯爵家の嫡男といえど、無能に人事局長は務まらない。
その二人の存在に少し慰められたらしいディックホルストが、「まぁな」と答えた時だった。
突然、街に砲声が響いた。野砲のような重苦しい音でも、平射砲のような甲高い音でもない。ぽん、と間の抜けたその砲声は、擲弾砲のものだった。
それにディックホルストとウォレスは顔を見合わせた。
「擲弾砲? 夜間射撃の訓練でもしてるんですか?」
また司令官の新たな試みかと尋ねたウォレスに、しかしディックホルストは首を振る。
確かに、夜でも射撃が継続できればと思ったことはあった。そして、その試みはとっくに失敗している。では、いったい、何が、誰が。その答えが出るよりも先に、爆音と衝撃が部屋を揺らした。ディックホルストは弾かれたように窓へ向かった。覗き込んだ先、見下ろすグリーゼの街のそこかしこで爆発が生じていた。赤い炎がぱっと明滅するたびに、人体の欠片が飛び散るのが見える。
「なんだ……?」
すぐ背後でウォレスが茫然と呟くのが聞こえた。
「分からん、だが、攻撃されている!」
言うなり、ディックホルストは部屋を飛び出した。そこら中が混乱していた。
「敵襲! 敵襲!! 応戦せよ!!」
誰かが叫んでいる。そうだ。攻撃されているということは、敵がいるのだ。だが、それは誰だ。一瞬、ローゼンバインの顔が浮かんですぐに消えた。では。他にこの国に敵がいるとすれば……。〈帝国〉軍? まさか。そんな馬鹿な。どうやってこんな場所まできた。まさか雪山の中を迂回してきたとでもいうのか。砲を担いで? 馬鹿な。
混乱した頭の中を矢継ぎ早に疑問ばかりがすり抜けて行く。ディックホルストはそのまま、外套も着こまずに宿の外へ出た。考えるよりも、実際に自分の目で確かめた方が早いと思ったからだ。宿から街へと伸びる階段を一気に下る。街も大混乱に陥っていた。そこかしこから悲鳴や絶叫が響いている。階段を下りきったところに、男が一人倒れていた。辺りを真っ赤に染めて悶絶しているその男は下半身が無かった。軍服を着ていないから、兵ではない。まだ街に残っていた住民だろう。
こんなことになるのなら、住民は避難させておくべきだった。どことなく夢見心地のままディックホルストは後悔した。まだ脳が、現実を受け入れようとしない。
そこへ再び、ぽん、という音が聞こえた。ぽん、ぽん、と音は連続する。その方向へディックホルストは目を向けた。擲弾砲の射撃は彼が先ほどまでいた司令部の向こう側。山の稜線上から行われていた。視界を確保するためだろう。白色の照明弾がディックホルストの頭上で炸裂した。猛烈な光に照らされる中、ディックホルストは確かに見た。山の斜面を一気に駆け降りてくる、赤装束の兵士達。〈帝国〉本領軍。
「馬鹿な」
どうやって、こんな後方まで。こちらの警戒線に引っ掛かりもせずに潜り込めたというのか。目の前の現実はディックホルストの理解を遥かに超えていた。
「どうして、どうやって」
ただただ、彼は疑問を呟いた。ウォレスが焦った様子でこちらに走ってくるのが見えた。
どうやら、先ほどと今の砲撃は標定射撃だったらしい。弾着地点を確認して、目標への距離と角度を修正した〈帝国〉擲弾砲兵たちが効力射を開始する。ぽん、ぽんと景気の良い音を立てて、黒い鉄の塊が無数に打ちあがる。そしてそれはまるで意思を持っているかのように、グリーゼの街へ向かって降り注いだ。
「閣下っ!!」
最後に聞こえたのは、誰かが自分を呼ぶ声だった。それきり、ディックホルストの視界は暗転した。