〈王国〉軍冬季大攻勢 6
ヴィルハルト率いる第一擲弾戦闘団が即応予備として待機しているアスペルホルンには元々、東部方面軍隷下の独立銃兵第12旅団の司令部が置かれていた。山の麓に築かれた街の南側にある白く武骨な作りの建物がそれだ。敷地内には一個連隊程度ならば簡単に収容できるほどの広さの訓練場もあり、戦闘団は現在、そこの兵舎を間借りしていた。
「第二軍は現在、北街道南口にて〈帝国〉軍へ攻撃を敢行中。我が軍は敵勢を圧倒しつつあり、だそうだ」
ヴィルハルトが書類を整理していると、突然やってきたテオドール・クロイツ大尉が大して面白くもなさそうな声で報告した。そこは元々、来客用に使われていた部屋だった。部屋の中央には背の低い長卓があり、それを挟んで一対のソファが置かれている。
机の上に書類を広げていたヴィルハルトは、突然の報告に「ふぅん」とも「ほう」ともつかない返事を返した。その間にテオドールは入室の許可も求めずにずかずかと部屋へ踏み込み、ヴィルハルトの対面にどかりと腰を下ろす。
「ちょいと情報部に顔を出してきたんだ」
言いながら、テオドールは懐に手を突っ込むと煙草入れと燐寸、それから一枚の紙を取り出した。まず煙草を咥えて火をつけた彼は、それをヴィルハルトにも投げつけると一緒に取り出した紙を机の上に広げる。戦況図だった。そこには友軍の配置と、現在までに〈帝国〉軍が掴んでいる敵部隊の位置が記されている。
「我軍の戦力は二個師団を主力に各種支援部隊からなる第二軍。総兵力三万。対する〈帝国〉軍は街道正面に本領軍第3鋭兵師団。左翼に同軍第21騎兵師団。右翼には西方領軍第11軽騎兵師団。後方には同軍第8重砲兵師団、と。総兵力およそ八万。たまらんな、こりゃ」
何か酷く熱いものを吐き出すように、テオドールが紫煙を吹き出す。
「冬季大攻勢の作戦計画はほとんど知らされてないらしいが、第二軍はどうやってこいつらを皆殺しにするつもりだ?」
知ったことかというようにヴィルハルトは貰った煙草を吹かした。人に向かって投げつけるには少し上物過ぎる気がした。そういえば以前にも一度、誰かから上等な煙草を貰ったことがあったなと思いだす。誰だったか。思い出せないのは何故だろう。
「何をしにきた」
テオドールの質問を無視して、ヴィルハルトは訊いた。ちょうどその時、外から一斉射撃の轟音が響いた。
「訓練はどうした。見ていなくていいのか」
待機を命じられたからといって、ただ無意味に時間を浪費するわけにはいかない。アスペルホルンに来てからも、ヴィルハルトは部隊に走り込みと射撃訓練だけは続けさせていた。そして目の前にいる男は戦闘団の訓練担当士官だった。
「心配せずとも。この部隊の下士官たちは質が高い。放っておいても必要な技術を兵に叩きこんでくれる。それにもう、走って撃つだけなら我が兵は王都守護連隊とも互角に渡り合える。後は使い手の腕次第だ」
テオドールは鬱陶しそうな顔で手をひらひらさせながら答えた。
「それに射撃訓練はもう飽きた。演習がやりたい」
「無理をいうな」
子供のような要望をヴィルハルトはきっぱりと切り捨てた。一応は即応予備として言待機している以上、いつ前線で問題が起こり、出動が命じられるかも分からない。通常の訓練以外で、兵を無駄に疲れさせておくわけにはいかなかった。
「畜生。どうせなら、敵が攻め込んできてくれればいいのに」
天井を仰ぎながら、テオドールは不謹慎な願いを呟いた。退屈だった。アスペルホルンで過ごす日々は、彼が思い描いていた戦争の日々と何もかも違った。極寒の中で訓練を繰り返し、楽しみといえば温かい飯と寝ることだけ。待機任務中だから酒も飲めない。
しかし、それこそが本来の軍隊だった。この無為に耐えることこそが軍人たるの責務であり、だから彼は軍を辞めた。
煙草を吹かして腐るテオドールの扱いにヴィルハルトが困っていると、ブラウシュタインが尋ねてきた。第二軍との調整も一通り終わり、暇になったから様子を見に来たのだという。
「なら、近くにある砲兵隊の陣地でも見学してくるか?」
退屈に押し殺されそうになっているテオドールを見た彼は、苦笑しつつそんなことを提案した。一も二もなくその誘いに食いついたテオドールからヴィルハルトに目を向けて、君も行くかと尋ねる。正直なところ退屈していたのはヴィルハルトも同様だったので、頷いた。
では、案内役を適当に見繕うから半刻ほど待っていてくれといってブラウシュタインは出ていった。入れ違いにエルヴィン・ライカ大尉とエルンスト・ユンカース大尉がやってきたので、一応彼らも誘ってみる。特にユンカースがこれに飛びついた。彼も彼で、退屈の極致にあったらしい。ヴィルハルトが留守の間、部隊の面倒はアレクシア・カロリング少佐とエミール・ギュンター大尉に任せることにした。ヴィルハルトとはあまり折り合いの良くない二人ではあるが、こういった時に文句一つ零さず従ってくれる生真面目さは有難い。
その他、副官のカレン・スピラ中尉に拝天教正典史導院から第一擲弾戦闘団の従軍司祭としてやってきたセドリック・バロウズも着いてくることになった。
「自分は中佐殿の護衛ですから」
にこやかに笑いながらそういうバロウズが何を企んでいるのか。はたまた何も企んでいないのか。ヴィルハルトはもう気にしていない。
バロウズはいつの間に調達したのか、黒い修道服ではなく〈王国〉軍の軍服を着ていた。もちろん階級章の類は付いていないが、その代わりというように聖印の銀細工を首にかけている。腰には例によって刀身の妙に反りかえった剣を佩いていた。
第一擲弾戦闘団内におけるバロウズの立場は相変わらず曖昧だった。何しろ、従軍司祭などという役職は〈王国〉軍に存在せず、兵も将校もどう扱ったら良いのか迷っている様子だった。ヴィルハルトもまた、彼をどう扱ったら良いのか分からない。なので彼のやりたいようにさせていた。考えることを放棄しているともいえる。聞いた話によると、聖職者らしく時々説法のようなことしているらしい。持ち前の人当たりの良さも相まって、一部の兵たちからは神父様と呼ばれて慕われているとのことだった。最初こそ散々に疑ってかかっていたテオドールでさえ、この頃では司祭に対する礼節を持って接している。もっとも、テオドールには彼の正体を教えてあるため、それが心からの態度なのかは甚だ疑問だった。
半刻ほどして、案内役だという中尉がやってきた。将校五人と聖職者一人という奇妙な取り合わせの一団が案内されたのは、アスペルホルン中腹に築かれた野戦砲陣地だった。塹壕と掩体で構築された陣地の中央に、大型の野砲が二門、砲座に据えられているだけの簡素なものだった。
ヴィルハルトたちが見学に来ることは事前に知らされていなかったらしく、陣地の指揮官だった砲兵大尉は突然現れた将校の一団を見て、臨時の視察だと勘違いして青くなっていた。そうではないと説明してやると一瞬だけほっとした表情を浮かべたが、案内役の中尉からヴィルハルトを紹介された途端、それまで以上に緊張で固くなってしまった。〈王国〉軍で最も苛烈な戦闘経験を持つ野戦指揮官とその一党が突然やってきたのだから、それも仕方のない反応かもしれない。
それでも、砲兵陣地の見学はそれなりの気晴らしになった。
ガチガチに緊張した大尉から、こちらが掩体であります、などと見れば分かるようなことまで説明されながら、ヴィルハルトは陣地を見て回った。どうやら準備の時間は十分にあったらしく、簡素ながらかなり強固な作りになっている。大尉によると、同じような陣地が同じ山中にあと三つあるという。さらに山を登った先の、山頂付近にある陣地が指揮所兼観測所であり、そこがこの山全体の砲陣地の射撃を統制する。つまり、山それ自体が一つの巨大な砲台として機能するのだった。さらに指揮所には腕木通信塔も建設されており、グリーゼにある総司令部と直接やり取りすることが可能になっている。アスペルホルンからグリーゼまでは直線距離にして12リーグほどあるが、視界さえ明瞭であれば腕木通信はこの距離を小半刻にも満たない時間で結ぶ。それにより、各地の砲台とも連携してより統制された砲撃が行えるのだという。
こうした陣地を、第三軍は北街道のいたるところに構築しており、その数は百を超える。もっとも、全ての陣地がここのように重砲を装備しているわけではない。軽砲のところもあれば、平射砲のところもある。もちろん、砲の性能を効率よく発揮できるように配置されていることは言うまでもない。
最後に射撃を行う際の一連の動きを見せてもらい、見学は終わった。
「以上になりますが、いかがでしょうか」
砲の前に部下を整列させた砲兵大尉が上ずった声で尋ねた。
「なにか、修正点や改善点などありましたらお聞かせ願いたいと思います」
介錯を求めるような声でそう言われても、ヴィルハルトは困ってしまう。そもそも本職でない自分が砲兵の運用に関して偉そうなことをいうわけにもいかないと思ったからだ。そもそも、どうしてこの砲兵大尉が自分にここまでの敬意を抱いているのかが分からない。
「中佐殿はレーヴェンザールで数百門からなる砲陣地群を自在に操ったと聞いております」
理由を尋ねてみたところ、そんな答えが返ってきた。あれは撃てば敵にあたる状況だっただけなのだが、と思いつつ、少し迷ってからヴィルハルトは幾つかの安全対策について注意点を口にした。特に砲兵というのは、全力射撃をしている最中は恐ろしいほど無防備になる。そこを敵の歩兵に襲われれば一たまりもない。無論、アスペルホルンまで敵に入り込まれているような事態になれば、もはや街道防衛は絶望的だが。しかし、備えておくことは常に意味がある。
ヴィルハルトは最後に、ふと気になって陣地を放棄する際の手順はどうなっているのかを聞いた。
「陣地の放棄ですか……? それは、司令部に判断を仰ぐか、或いは司令部から撤退の命令が出れば、放棄ということになるのでしょうが」
砲兵大尉の返答は要領を得なかった。要するに、撤退の手順が決められていないということだった。司令部に判断を仰ぐというが、敵に襲撃されている最中にそんな悠長なことをしていられるはずがない。いや、そもそも。戦闘のただ中にある総司令部が一砲兵陣地の進退についてまで気が払えるだろうか。
ヴィルハルトは努めて無表情なまま憂慮した。ここへ来てから、というよりも第三軍と合流してから、なんとなく感じていた違和感の正体がようやく分かったからだった。確かに第三軍がこの北街道に構築した火力網と連絡網は、現在の大陸世界でも類をみないほどに整備されている。だがそれらは所詮、道具に過ぎない。すべては使い方だ。熟練の職人が振るえば白石の塊を女神像へと生まれ変わらせる鑿も、素人が使えばただ小石を量産する役にしか立たない。
第三軍はそれに頼り過ぎている。街道全域を火制下に収める砲陣地群、そして総司令部の命令を半刻の内に街道全域へと伝える腕木通信網。確かに大したものだ。ここまでやれば、という気になってしまう気持ちも分かる。
しかし。それに頼る余り、特に指揮命令系統が硬直し過ぎているとヴィルハルトは思った。
アスペルホルンの街に戻ったら、ブラウシュタインに伝えるべきだろうか。少し迷い、やめた。中佐に過ぎない自分が軍の指揮系統に異を唱えることに躊躇したのではない。単に、今から方針を転換しても間に合わないだろうとの現実的な判断からだった。それに考えてみれば第三軍の目的は街道の防衛であり、敵の殲滅ではない。案外、ディックホルストもこの程度の問題は織り込み済みという可能性もある。
そう自分を納得させたところで顔を上げると、砲兵大尉がまだ何か物足りないような顔でヴィルハルトを見ていた。仕方がないので、各々好き勝手に陣地を見て回っていたテオドールとユンカースを呼びつけて、敵襲を受けた際、砲兵でも行える簡単な防御戦闘について指導させた。すると意外にも、これに案内役の中尉が食いついた。あちらもあちらで退屈を持て余しているらしい。戻ったら、自分たちにも陣地防御の指導を行ってほしいと頼まれたのでユンカースに任せることにした。
防御戦闘指導は簡単に済ませるはずが、思ったよりも力が入ってしまい(テオドールとユンカースが半ば暴走したともいえる)一行が街に戻ったのはすっかり陽の落ちた後だった。
隊舎へ戻るとブラウシュタインが待っていた。
「どうだった?」
「大したものです」
ヴィルハルトは率直に答えた。懸念については伏せておいた。元々、言ってどうなるというものでもない。
「第二軍はどうなっています? 進展はありましたか?」
「いや。相変わらず、砲兵が街道で詰まっているせいで戦闘はずっと小康状態だ。大反攻とは程遠いな」
そうですか、と応じながらヴィルハルトは煙草を取り出した。一口吸って、上に向けて吐き出す。すると、視界の先で何かが光った。緑色の照明弾だった。方角は北。第三軍の総司令部が置かれているグリーゼのある方向だ。
「司令部からの夜間通信ですか?」
照明弾は見ている間にも二発目、三発目と立て続けに打ちあがる。それを示しながらヴィルハルトはブラウシュタインに訊いた。しかし、彼も不思議そうな顔で首を横に振っていた。
「いや。緊急警報時、夜間だった場合には赤色照明弾を打ち上げる手筈になっているが……」
ブラウシュタインは考え込むように左手で唇をそっと撫でた。
「やけに盛大ですね」
打ち上げられている緑色照明弾の数にヴィルハルトは顔を顰めた。既に十発は超えている。あれでは兵が夜間視力を失ってしまうだろうと思った。
「なにかの実験かもしれん」
またぞろ、ディックホルストが何かを思いついたのかも、とブラウシュタインは疲れたような口調で言った。彼の知る限り、ディックホルストとはそういう人物だった。
「朝になったら、司令部に伝令を送ってみるか」
夜の寒さに外套を身体へ巻き付けるようにしながら、彼はあくびを漏らした。
ブラウシュタインは後になってこの時、何が何でもただちにこの異変の真実を確かめるべきだったと後悔することになった。