〈王国〉軍冬季大攻勢 5
〈王国〉第二軍がアスペルホルンを発って三日後。雪の舞い散る〈王国〉領北東部で、遂に開戦以来初となる〈王国〉軍の反撃作戦が開始された。
こんな表現は妙かもしれないが、戦闘は極めて平穏に始まった。
まず本隊より先行していた〈王国〉軍偵察部隊が街道を抜けた先の平野に布陣していた〈帝国〉軍部隊と接触。〈王国〉軍偵察隊は戦闘要領に従って、威力偵察を実施すべくこれに攻撃を仕掛けた。両軍ともただちに接敵を上級司令部へ報告し、戦闘開始から二刻後には双方の下へ援軍が到着。これにより戦闘は激しさを増すかに思われたが、意外にもそうはならず。戦闘開始からほぼ一日が過ぎたあとも、両軍の損害は軽微に留まり続けていた。
そんな穏やかな戦闘になった原因は〈王国〉軍、〈帝国〉軍ともに砲兵からの支援が無かったからだった。そのため、戦闘は雪が降る中での銃撃戦となり、視界の悪さや湿った小銃の動作不良といった問題が相まって、双方とも消耗が大きく抑えられる結果となった。
もっとも、砲兵不在の理由は〈王国〉軍、〈帝国〉軍でそれぞれ異なる。
〈王国〉第二軍の砲兵隊は街道に降り積もった雪に足をとられ、先鋒部隊に大きく遅れていたからだった。人力で運搬可能な軽砲や擲弾砲による攻撃も行われはしたが、当然それらは戦況を大きく動かすほどの威力は持っていない。
対する〈帝国〉軍は、砲兵を意図的に隠していた。
〈帝国〉本領軍第3鋭兵師団長、ラノマリノフ中将の戦闘指揮はまったく堅実であった。彼はこの世の何もかもをきっちりと線引きしないと気の済まない性質の男だったが、そうであるがゆえに可能な限りの敵を誘引し、かといって決して街道内には踏み込まないという単純な命令は彼の部隊運用を際立たせた。〈王国〉軍が砲兵を伴っていないのは、雪のせいで到着が遅れているからだろうと看破した彼は、敵軍の全力が揃うまで砲兵隊に射撃を禁じた。ここで敵前衛部隊を粉砕するのは簡単だが、そうすると敵を過剰に警戒させてしまい、主力が街道から出てこないか、或いはそのまま撤退してしまうかもしれないと判断したからだった。そのため、彼は隷下部隊に前進と後退を繰り返させた。押されれば引き、引かれれば押し。巧みに部隊を運動させて損害を抑えつつ、ひたすら敵が揃うのを待った。
「冬は寒くて堪らん。走り回れば、兵どもも少しは温まるだろう」
その鮮やかな手際について部下の参謀たちから称賛された際、彼は照れたようにそう答えたという。
一方で〈王国〉第二軍司令官のバッハシュタインは焦れていた。
彼はこの戦いを、祖国の命運をかけた一大決戦であると考えていた。彼が望んでいたのは、古き良き騎士道時代に行われたような正々堂々、清廉潔白な果し合いではなく。敵味方ともにありったけの鉄火をぶつけ合い、夥しい損害を出しながらも兵を突撃させ続けるような戦いだった。レーヴェンザール攻防戦でさえ霞んでしまうような、血で血を洗う激突のその先で掴むものこそが勝利だと信じていた。兵にとっては迷惑極まりないが、彼は本気でそう思っていた。
しかし、彼の想像とは裏腹に現実の戦況は膠着していた。いや、そもそも威力偵察が打ち切られた後は戦闘そのものが行われていない。彼はただちに総攻撃準備を完成させるよう隷下部隊に繰り返し命じているが、前線部隊は砲兵の援護なしに突撃はできないと、現地で塹壕を掘りだしたらしい。
前線から三リーグほど後方に設けた司令部の天幕内で、続々とあがってくる報告を聞きながらバッハシュタインは不満に唸り続けていた。
何もかもが気に入らなかった。
砲兵隊はいまだ司令部より後方の街道内に詰まっている。工兵隊に除雪を急がせているが、次から次へと降り積もる雪に人手がまったく足りず、到着がどれほど遅れるか分からないという。仕方なくバッハシュタインは予備の銃兵部隊を投入させた。銃兵たちからは戦いに来たのに何で雪かきをさせられるのかと不満が出ているという報告もあった。
そうした自軍の体たらくぶりに加え、〈帝国〉軍の動きが緩慢であるのもバッハシュタインを苛つかせた。第三軍からの情報で、正面にいる敵は〈帝国〉本領軍第3鋭兵師団であり、その背後には同じく本領軍第21騎兵師団と、砲列を敷いた砲兵の大軍が控えていることも分かっている。だがしかし、それらは友軍が戦闘中にもかかわらず動こうとしない。
何故だ。どいつもこいつも、戦争をする気がないのか。
大金を積んで用意してやった贈り物に見向きもしない女のような。自分のことなど相手にもしていないとでもいうような〈帝国〉軍の態度はバッハシュタインの苛立ちをより助長させた。
動かないといえば、第三軍もだ。そもそも街道内の除雪は奴らの仕事ではないか。
一度湧きだせば、中々涸れ果てないのが不満というものだ。バッハシュタインは次から次へとその水源を掘り当てては不機嫌に鼻を鳴らした。部下たちは戦闘開始から思うようにことが運ばず、終始機嫌の悪い司令官に近づこうともしない。
そんな中、一人の大佐が天幕に入ってきた。司令部の警備を担当している本部付連隊の連隊長だった。
「閣下」
「なんだ」
「閣下にお目通りしたいという方が来ておられます」
「誰だ」
不機嫌ゆえにバッハシュタインの応答は端的だった。大佐は終始、腫物を扱うような態度のまま答えた。
「義勇軍第七旅団長の、レイク・ロズヴァルド中将です」
その名を聞いたバッハシュタインは侮蔑に満ちた顔を大佐に向けたが、すぐに思い直したように表情を切り替えると、通せ、といった。
元国境守備隊司令であったレイク・ロズヴァルド中将は紆余曲折を経て、現在は義勇軍第七旅団長に任じられていた。ありていにいってしまえば、左遷である。伯爵家嫡男でありながら、戦場でなんらの戦果も挙げられなかったというのがその理由だった。
しかし、ロズヴァルドは義勇軍への異動を命じる辞令を受け取ったその日から今日に至るまで、頑なに現実を受け入れることを拒んできた。
これは何かの間違いだ。彼はそう信じていた。
自分は常に祖国を滅亡から救うために行動していた。恐怖に負けて戦わなかったのではない。兵力を温存し、反撃の機会を窺っていたのだ。
事実、彼は心の底からそう信じて行動していた。そして今もそうだと確信している。
この人事は謂れなき仕打ちであり、伯爵家嫡男である自分に対する大変な侮辱だと感じていた。けれど、どれほどそう喚いてみたところで誰も彼に耳を貸そうとはしなかった。軍上層部も実家も、とっくに彼のことを見限っていたからだ。ロズヴァルド伯爵家の現当主である父に至っては、伯爵位を次男に継がせようとまで考えているらしい。戦果を挙げるまで帰ってくるなと罵る手紙も受け取った。
なぜこんなことになったのか。ロズヴァルドはさっぱり分からなかった。分からなかったが、ともかく、早急に何かしら目に見える形で成果を上げねばならない事だけは分かった。
そうした焦慮の末、彼は気付けば第二軍司令部へ一人で出向き、自分を見限った一人であるバッハシュタインの前に立っていた。
「何用だ、ロズヴァルド中将」
ロズヴァルドが上官に対する挨拶をするより先に、バッハシュタインアが口を開いた。その声は酷く渇いていた。
「なにか、閣下のお役に立てないものかと思いまして」
ロズヴァルドは敬礼をしつつ、媚びるような、縋りつくような、それでいて決して傲慢さを失っていない声で言った。
「貴様の義勇軍第七旅団は第三軍の兵站支援を行っているのではなかったか」
「その通りであります」
バッハシュタインが答礼もせず話を続けたので、ロズヴァルドは敬礼をしたまま答えねばならなかった。
「しかし、女王陛下と祖国の藩屏たる〈王国〉軍人として、我が軍が反撃を行おうとしていることの時に、見て見ぬふりなどどうしてできるでしょうか」
それを聞いたバッハシュタインの顔に、あからさまな嘲りが浮かんだ。
義勇軍に何ができる、と訊いているようだった。
〈帝国〉との開戦初期に細々と結成された義勇軍は、レーヴェンザールの陥落から急速に規模を拡大させていた。特にレーヴェンザール侯爵最後の言葉と題された歌に触発された、兵役年齢に達していない若者が多く入隊しており、現在その総数は3万を超すという。
有事における義勇兵の扱いを記した義勇兵役法で、「軍に属さず自らの意思で武器を取り祖国のために戦う者」などと大層な言葉で表現される義勇兵だが、要するにその実態は女子供、或いは身体的若しくは健康上の理由により新兵徴募から漏れた者。そしてとうの昔に予備役から解放されている老人たちなのだ。
当然、装備の支給など行われない。各々が持ち寄った装備はほとんどが骨董品のような旧式小銃であり、中には撃てるのかも疑わしい代物が混じっている有様だった。
良くいえば大規模な自警団。悪しざまにいえば武装した素人の集まり。〈王国〉における義勇軍とはそういうものだった。
それでいて、義勇兵役法には有事の際、義勇軍でも中隊長以上の役職には現役将校を充てると明記されている以上、軍はその責任を果たさねばならない。〈王国〉軍にとってこれはかなり頭の痛い問題だった。どうにか人員を確保するため予備役で中尉だったものを無理やり大尉に昇進させたり、実役年齢を過ぎた者まで招集されていた。さらにその下で小隊長を任せているのは〈王国〉の高等教育機関で必修とされている初等指揮教練を受けたことがあるだけの学生少尉たちだ。予備役将校はともかくとして、学生少尉に戦闘指揮など執れるはずもない。
だが、それでも使い道はあった。軍にとって義勇兵とは給与を支払いせずにすむ素晴らしい労働力だからだ。戦闘には投入できずとも、戦場には戦う以外にも陣地構築や物資の運搬など人手が必要とされる仕事は無数にある。
ロズヴァルドの指揮する義勇軍第七旅団もまた、第三軍への後方支援を行うために派遣されているはずだった。
しかし。
「どうかお願いです、閣下」
敬礼をしたまま、ロズヴァルドはバッハシュタインに懇願した。
「私はずっと、閣下のような方の下で戦いたいと思っていたのです」
「どういう意味だ」
バッハシュタインは小馬鹿にするように鼻を鳴らしてから聞き返した。ロズヴァルドの言わんとすることは分かっている。バッハシュタインの下だからという話ではないだろう。要するに、平民の下でなければ誰でもいいのだ。
そうした本音を、ロズヴァルドは実に貴族らしい優雅な言葉で修飾してみせた。
「閣下のような、王者の戦いができる方のもとで、という意味です」
王者の戦いときたか。あまりにも明け透けなその態度に、バッハシュタインは思わず失笑を漏らした。だが、悪くはない気分だった。最初はロズヴァルドの惨めな姿でもみて憂さ晴らしをするつもりだった。だが、卑屈そのものの彼の態度に気を良くしたバッハシュタインは少し違うことを考え始めていた。利用してやってもいいかもしれない。軍に戻れるかもしれないという可能性さえちらつかせれば、ロズヴァルドは文字通りなんでもするだろう。
確か、ロズヴァルドは自分と同格の伯爵家の出だったか。それを顎で使えるというのは中々に愉快でもある。
しかし。問題が一つだけあった。義勇軍第七旅団は第三軍の指揮監督下で兵站支援を行っているということだった。それを勝手に指揮下へ組み込んだとなれば、どんな文句を言われるか。バッハシュタインもロズヴァルド同様、平民出身のディックホルストを見下してはいたが、しかし彼の政治的才能と弁舌の実力は認めていた。ここで後に追及を受けるような下手な手を打つわけにはいかない。
「そもそも私は第三軍の方針には疑問があったのです。陣地に籠ってどうして敵を打ち倒せましょう?」
「なるほど。貴官の意見には中々聞くところがある」
初めて好意的な返答を得ることができたからか。ロズヴァルドの瞳に会心の光が宿った。何かを勘違いしているなとバッハシュタインは思ったが訂正してやるつもりは全くない。彼は続けた。
「ところで、中将。ここへ来たのは君の独断か?」
「自らの信じる正義に従ったまでです」
よろしいとバッハシュタインは頷いた。ようやく、答礼をしてやる。ロズヴァルドがほっとしたように手を下ろした。
「実は、街道の除雪が難航していて、砲兵隊の到着が遅れている」
机に両肘をついたバッハシュタインは独り言のようにぼそりと呟いた。それにロズヴァルドは素早く反応した。
「承りました」
さっと一礼をして、嬉々として天幕を出て行く。
あそこまで分かりやすい馬鹿も珍しいとバッハシュタインは思った。
「よろしいのですか?」
話を聞いていた参謀の一人が心配そうに尋ねた。
「何がだ?」
バッハシュタインは白々しく惚けてみせた。
「よろしいも、よろしくないも。わしは何も言っておらん。義勇軍が何をしようと、その結果どうなろうと。すべてはその指揮官の責任だ」
恐らく、ヤツはそう思っていないだろうが。しかし、バッハシュタインはいま独り言を呟いただけだ。何かを申し入れたわけでもないし、ロズヴァルドの申し出を受け入れたわけでもない。そうだろう、とバッハシュタインは参謀たちに同意を求めた。まあ、そうですなと彼らは応じた。落ち目の貴族将校がどんな野心を抱こうとも、彼らには関係のない事だった。