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戦鬼の王国  作者: 高嶺の悪魔
序幕 〈帝国〉軍襲来
17/202

17

 ヴィルハルトが少年の耳元で囁いたのは、大陸中で信仰されている宗教において、死者を送り出すための聖句であった。

 天上に座すという唯一神を信仰し、祈りの際に空を仰ぐ所作をする事から“拝天教”と呼ばれるこの宗教は多くの国における国教であり、大陸世界に暮らす一般の人々の生活にも深く浸透している。

 であるからこそ、遠目に見ていた兵士たちでさえ、自分たちの上官が敵国の兵士に対して行っている行為の意味するところを一目で理解していた。

 そしてそれは、この頃の大陸世界で軍人たちが最も尊ぶべきとされる騎士道精神に合致した行動でもあった。

 だからこそ、彼らは誤解した。

 自分たちの指揮官は敵に対しても慈悲の心を忘れる事の無い、気高い人物であると。

 己もそうであろうと。

 しかし、ヴィルハルトの見解は彼らとは全く逆であった。

 自分は最低で、最悪の偽善者だと思っていた。

 そもそも、自ら手をかけた相手の冥福を祈るなど偽善以外の何物でもない。

 何よりも度し難いのは、兵士たちが誤解する事を承知でその偽善を行った事だ。

 これで彼らは、上官である自分を疑わない。

 俺の命令が全て正しいものだと信じ込む。

 最低、最低。最低だ。

 ヴィルハルトは知らず、自身の胸を掴んでいた。

 そこの中では人として絶対に切り離せないもう一人の自分が喚いている。

 こんな事は、絶対に。断じて。正しくなどない。


 ――17年前。

 彼はおよそ十日余りの間、ずたずたに引き裂かれた〈王国〉南部の平野を彷徨っていた。

 最初の数日だけ聞こえていた悲鳴や蛮声はいつしか聞こえなくなり、後に残ったのは焼き払われた村々の家や人間が燻る臭いと、微かな硝煙の香り。

 救出に来た軍の人間に対して、何故抱いていた赤ん坊が自分の弟だと言ったのか。

 その理由は未だに分かっていない。恐らく、一生分からないだろう。

 ただ、それが自分の良心によるものでは無いという事だけを確信していた。


 軍により助け出された後、彼らは兄弟として王都の教会が運営している孤児院へと引き取られた。

 そこで過ごした五年の間に、赤ん坊が自分とは似ても似つかぬ風貌へと成長していくのを、教会の修道士や修道女は気付いていたに違いない。

 しかし、誰も何も言わなかった。

 幼くして、余りにも過酷な状況から生還した彼ら二人に対して疑問を抱く事はあれど、真実を明らかにしようとする気持ちを持つ者は誰一人居なかったからだった。

 何よりも、互いに兄弟として接しあう彼ら二人を見て、血の繋がりなど些細な事だと思ったのかもしれない。

 それほど、彼らの兄弟としての絆は確固たるものであった。


 彼らを引き取った教会では、敷地内にある小さな小屋に子供たちを集め、初等教育を施す事業も行っていた。

 無論、教会の活動の一環である為、教育内容は教義に重きが置かれているのだが、当然、読み書きや算術なども含まれている。

 これは、本来ならば教会に対して一定以上の額の寄付や貢献を成した家や信徒の子に対して施される教育であるが、そこでは孤児院の子供に対して無償で授業を受けさせていた。

 自らの他に頼るべき者を持たない孤児に対する、まったくの善意であった。

 ヴィルハルトの名を与えられた彼も、この講義に参加する事となった。


 講義に参加し始めてから間もなく、ヴィルハルトは子供たちの中で孤立しはじめる。

 その頃からは人当たりの良い方では無かったヴィルハルトにとって、ある意味で当然だと思えるこの結果はしかし、半分は本人の責任ではあったが、後の半々は教師や彼の弟にも責任を追及する事が出来る。

「明日からやってくる子は、大変な思いをしてきました。ですから、皆さん。どうか、優しく、気遣いを忘れないでくださいね」

 ヴィルハルトが初めて講義に参加する前の日、教師を務めていた温和な顔つきの修道士は講義に参加している子供たちに対して、彼の事をそう吹き込んでいた。

 彼にしてみれば、子供たちの道徳心を養う恰好の機会だと思っていたのだろう。

 だからこそ、ヴィルハルトの講義参加初日には教室中の子供たちがこぞって優しげな言葉を掛けたり、気遣うような態度をとった。

 そしてヴィルハルトは、その好意を全て、眉ひとつ動かさずに跳ね退けた。

 同年代の子供たちが送ってくる同情や憐れみといった感情は、結局の所自分たちの方がマシだという確信を源泉として湧いてくると知っていたからだった。

 それは傲慢以外の何物でもないと、彼は思っていた。

 何よりも、何故自分がそういった感情の対象にされなければならないのか理解できなかった。

 声を掛けてくる子供たちの中には、彼と同じ孤児院で育てられている子も多い。

 生まれてすぐに捨てられたり、或いは流行病で両親を失くしたり、他に頼るべきものを失った子供たちまで、他の子供たちと同じような言葉を口にしているのも信じられなかった。

 それで上等な人間になったつもりなのだろうかという疑問すら抱く事もあった。

 わずか十歳でありながら、そのような考えに至っていたのだから、ヴィルハルト・シュルツという少年はひねくれているどころの話では無かった

 結局、しつこく話しかけてくる級友たちに対して彼が採用したのは、無視という対策であった。

 これが功を奏し、次第に彼に声を掛ける者は減っていき、一年が過ぎる頃には皆無になった。

 ヴィルハルトはこの事態を歓迎していた。

 余計な事をあれこれと言われない方が勉強にも集中できたし、他の子どもたちほど下らない何かに熱中する事が彼には出来なかったから。

 やがて、定期的に行われる試験において、彼は常に一等の成績を修めるようになっていた。


 それが問題であった。

 特に、孤児院以外の子供たちが彼に抱く嫌悪感は凄まじかった。

 突然やって来た、何処の誰とも分からないみすぼらしい奴が、自分たちをあっさりと追い越したのだ。

 先生に言われた通り、優しくしてやったのに無視して。

 そのせいでみんなから嫌われてるのに平然としている。

 子供たちの心中は、おおむねそう言ったところであった。

 要するに、幼稚な嫉妬と思い上がり、そして理解できないものに対する恐怖に他ならなかったのだが、狭い子供たちの世界で迫害の対象にされるには十分すぎる理由であった。

 更に子供たちの悪感情を増長させる原因となったのは、ハルディオという名を与えられた彼の弟の存在だった。

 十歳以上の子供だけが受けられる講義に毎回、毎回、兄にベッタリとくっ付いて付いてきているのだ。

 これは、彼が兄から離れた途端に泣き喚いて手に負えなくなる為、大人たちが仕方なく黙認していたからだった。

 しかし、疑う事を知らない子供たちは自らが従う規則に対して従順であると同時に、それを破る者に対して過敏である。


 それはヴィルハルトが講義に参加し始めてから二年ほどが経ったときの事であった。

 常のように兄から離れる事の無いハルディオは、この頃になると兄の見様見真似で文字のようなものまで書けるようになっていた。

 そこへ講義に参加している子供たちの中でも中心的な立場である、鍛冶屋の息子のカールが近づいてきた。

「おい、何やってんだよお前」

 長机に並んで座っていた兄弟の前へ、子供たちの中で最も大柄な体を誇示するように立った彼が言った。

 ヴィルハルトはちらりとカールを見ると、すぐに視線を背けた。

 隣で弟が何事かと兄を見る。彼は何でもないよと微笑んで見せた。

 ハルディオはその笑みに安心して、兄から教えられたばかりの文字列、自分の名前を、使い古した紙の裏へぐちゃぐちゃと書き殴る作業へと戻る。

 兄弟のそんな態度を見て、カールの頭に血が昇った。

「こいつ!」

 怒りの声を上げて、ハルディオの前に広げられている紙を掴み上げる。 

「何をするんだ」

 突然、目の前の紙を取り上げられてポカンとしているハルディオの隣で、ヴィルハルトが抗議の声を上げる。

「お前ら、生意気なんだよ」

 カールは凄むように言って、顔を思い切りヴィルハルトへ近づけた。

「この教室に入っていいのは十歳以上だって、お前知らないのか?」

「授業を受けられるのが十歳以上なだけで、別にそれより下の子が教室へ入るのを禁止しているわけじゃないよ」

 心底面倒くさそうに答えながら、ヴィルハルトは新しい紙を弟の前へと差し出す。

 ハルディオは嬉々としてそれを受け取ると、再び自分の名前を書き始めた。

「じゃあ、お前の弟が文字をかけるようになってるのはなんでだよ。十歳より下の奴は、授業を受けちゃいけないんだぞ」

「これは僕が教えたんだ。先生が教えたわけじゃない」

 まったく自分の言いたいことが伝わらない事に、カールはさらに腹を立てていた。

 試験で一等を取っているくせに、なんでこいつは分からないんだろう。

 それとも頭が良ければ何をしてもいいと思っているのだろうか。

 だって、十歳より下の子供は文字を書けちゃいけないんだ。絶対。

「やめさせろよ」

 カールは文字を書く練習を続けているハルディオを指さして言った。

「何を?」

 ヴィルハルトはカールがさしている弟を見てから、首を傾げた。

「分かった。お前、馬鹿なんだな」

 カールの言葉を聞いても、ヴィルハルトは特に反応を見せなかった。

 特に自分の頭が良いと思った事は無かったからだった。

 自分が出来る程度の事が出来ない奴に問題があるのだと思っていた。

「お前の弟は、まだ文字なんか書けちゃ駄目だし、読めても駄目なんだよ!」

 絶対の自信を持って、カールはそう言い放った。

「何で?」

 ヴィルハルトが聞き返した。本当に分かっていないという顔だった。

 カールにしてみれば、理由など無かった。

 いや、要らなかった。

 何故なら、彼も十歳を超えるまで文字を読むどころか書く事すら出来なかったのだから。

 それが当然で、みんなそうだと信じていたし、そうあるべきだと思い込んでいた。

 なんでこんな当たり前のことが分からないんだ。

 そう思うと、地団駄を踏みたくなった。

 やっぱり、親無しの奴は頭が悪いんだ。

 ハルディオは、また新しい文字列を書き始めている。

 もう我慢できなかった。

「やめろって言ってるだろ!」

 彼は半ば叫ぶように大声を出すと、ハルディオの目の前に敷かれた紙を鷲掴みにして取り上げた。

 幼い彼が返してと舌足らずな声で必死に喚く。

 隣ではヴィルハルトが立ち上がろうとしていた。どういう訳だが、その顔は怒っている時の父親よりもよほど恐ろしく見えた。

「うるさいっ!!」

 様々な感情が爆発して、カールの腕が反射的に動いていた。

 振り回された彼の手がハルディオの頬に思い切り叩きつけられて、柔らかいものが破裂するような音が響いた。

「あっ」

 カールが小さな声を漏らす。

 周りで事の成り行きを見守っていた他の子供たちが、僅かに息を飲む。

 一瞬の静寂。

 そして、爆発的な泣き声が上がった。

 当然、鳴き声の主はハルディオだった。

 真っ先に我を取り戻したヴィルハルトが、泣き叫んでいる弟の顔を覗きこむ。

 涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔。泣き叫ぶ口からは涎では無い、赤い血が滴っていた。

 途端。ヴィルハルトの中で眠っていた装置が作動した。

 この場に居る子供たちが誰一人聞いたことのないだろう本物の憎悪を喉の奥から漏らし、長机を一気に飛び越してカールへと飛びつくと、そのまま床へと引き倒した。

 その後の事は、ヴィルハルト自身も良く憶えていない。

 カールに馬乗りになると、ただひたすら顔面を殴り続けた事だけは確かだった。

 弟と同じ目に遭わせてやるという目的は何時しか頭の中から無くなり、ただ目の前の少年を痛めつける事だけに没頭した。

 途中、幾人もの子供たちが止めに入っていたような気がする。

「もうやめて」「十分だよ」「許してあげて」「カールも謝ってるから」などと言う言葉を耳にするたびに、ふざけるなと心の中で叫んでいた。

 もっとだ。もっと、もっと。と頭の何処かで囁く声が聞こえていた。

 ようやく大人に、教師役の修道士によって羽交い絞めにされて止められた時には、カールの顔は鼻や口から噴き出したもので真っ赤に染まっていた。

 それを目にしたヴィルハルトの身体から突然、力が抜ける。

 周りを見る。そこに居た子供たちは、殴られた訳でも無いのに何故か泣いていた。

 離してくださいと、何処までも冷静な声で修道士に告げると、彼は弟の所へ戻った。

 泣き続ける弟に優しく声を掛け、口から溢れた血を拭い、彼が落ち着くまで頭を撫で続けていた。

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