第一擲弾戦闘団 1
急遽、重大な決議があるとの伝令によって、前線から王都へと呼び戻された〈王国〉東部方面軍司令官、アーバンス・ディックホルスト大将は苛ついた足取りで王宮へと入った。
固い石の床を軍靴の底が叩く音が静謐で満たされていた王宮内に木霊する。
彼に気付いた者が、何事かと顔を向け、すぐに背けてゆく。
それほどに、ディックホルストはその顔から不機嫌さを隠そうともしていなかった。
王宮二階。軍務省に割り当てられている大部屋の扉をディックホルストは殴りつけるように開けた。
すると、そこでは既に〈王国〉軍の首脳陣が雁首を揃えて彼を待っていた。
「ようやく来たか、ディックホルスト大将」
〈王国〉軍総司令官兼中央軍司令官のオットー・フォン・ローゼンバインが鼻を鳴らすように彼を出迎えた。
「前線は忙しいものでな。皆さまのように、ゆったりと椅子に腰かけて物思いにふける暇もない」
ディックホルストが蹴とばすような声で答える。
「それで、その前線にある指揮官を後方に呼び出すに足る、重要な決議とやらはどんなものなのだ」
鼻を鳴らしながら、どっかりと空いていた椅子に腰を落とした彼に、従兵がそっと珈琲の入ったカップを差し出す。すまんなと言って、彼はそれを受け取った。一息で飲み干して、空になったカップを従兵に押し付ける。
「話というのは、かねてから計画されていた冬季反抗計画についてだ」
ディックホルストが一息ついたところで口を開いたのは、〈王国〉西部方面軍司令官のエドガー・フォン・バッハシュタイン大将だった。
「馬鹿馬鹿しい」
ディックホルストは吐き捨てるように応じた。
「我が軍はすでに、防御陣地の構築をほぼ完成している。今さら、運動戦などできないと、確かに伝えたはずだ」
「貴官の軍はそのままで良い」
遮ったのはバッハシュタインだった。
「我が西部方面軍が、〈帝国〉軍のお相手を致す。貴官の軍は、その後備えでもしてくれれば良い」
彼は自身に満ちた顔でそう言った。
ディックホルストは何を言っているのだという顔でバッハシュタインを見た。
「参謀総長」
そのようなやり取りを無視して、ローゼンバインが隣に座っているヨアヒム・フォン・カイテル中将に声をかけた。
「はい」
常のように無表情な〈王国〉軍参謀総長は立ち上がると、一同にかるく礼をしてから口を開いた。
「ディックホルスト大将には、ご足労をおかけしておきながらまことに申し訳ないのですが、先ほど、冬季反抗作戦決行の決議がなされました」
「何を馬鹿な……」
ディックホルストの口から、絶望的な呻きが漏れた。
カイテルは生粋の参謀だ。軍と国家の存続を第一に考える。この場で唯一の良心だと信じていた者の言葉に、彼は衝撃を受けていた。
そんなディックホルストに、さらなる追い打ちが掛かる。
「既に、女王陛下のご裁可もいただいております」
「冬季反抗作戦は、〈帝国〉軍に対する徹底抗戦という女王陛下のご意思にも適ったものであるからな」
ディックホルストが絶句していると、カイテルの横からローゼンバインが口を挟んだ。
一度口を閉じたカイテルが、よろしいですかと断りを入れてから再び説明を始める。
「確かに、常識から考えれば損害ばかりが大きくなる冬季戦ではありますが、我が軍は〈帝国〉軍に比べて湿原地も近く、兵站の面ではかなり有利であります。加えて、ディックホルスト大将の指揮によって我が国の北東部、湖水地帯に構築された防御陣地を活用すれば、数で勝る〈帝国〉軍相手にも、対等以上の戦いができるものと考えます」
彼はここで一息ついた。
「恐らく、〈帝国〉軍は来春に大規模な攻勢を計画しているものと考えられます。二か月後、敵にさらなる増援があるとの不確定な情報も無視することはできません。その前に、ここで一度敵を叩いておくことも無意味ではないはず。以上のことを上奏した結果、女王陛下は本作戦の決行をお認めになられました」
淡々と、現実のみを読み上げるカイテルの言葉に、ディックホルストは静かに奥歯を噛み締めた。
確かに、彼の説明は筋が通っている。だが、女王がこの作戦を認めた理由は何も、理があるからというだけではないだろう。
ローゼンバインと、バッハシュタインだ。
〈王国〉三軍の司令官の内、二人から強硬に主張されれば、女王とてそれを無視することはできない。
それにしても。
ディックホルストは彼らの能天気さに呆れた。
レーヴェンザールにおける、ヴィルハルト・シュルツの奮闘によって、この〈王国〉に奇跡的に齎されたこの一月余りの時間が利したのは、何も〈王国〉軍だけではない。
時間は誰にでも平等だ。
物乞いも、皇帝も。そして恐らくは神でさえも。
誰一人としてその流れを止めることなどできはしない。
この間に、〈帝国〉軍も準備を整えているはずだ。何故、それが分からない。
いや。ディックホルストには分かっていた。
前線と切り離された会議室では、現実の定義が切り替わる。
今、ここにある現実はローゼンバインとバッハシュタインの頭の中だけあるものなのだ。
案旅たる気分になったディックホルストの前で、カイテルの説明は続いていた。
「作戦には、西部方面軍主力を投入します。ここに中央軍から第五騎兵師団を筆頭に、船舶部隊を始めとした各支援部隊が参加。加えて、義勇軍から四個旅団規模の兵力を派遣して、後方における警備などを担ってもらいます」
「我が軍はなにをすればいい」
ディックホルストは訊いた。
「閣下の軍は、防御陣地において、突出してきた敵を叩いていただきたいと考えています」
「積極的防御というわけか」
カイテルの返答に、ディックホルストは大して面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
つまり、自分は何もしなくていいという意味だった。
ローゼンバインとバッハシュタインの、戦争を指導する立場を平民から取り戻したいという思惑がありありと見てとれる。
だが。そうそう、うまく行くものかとも思っていた。
「兎にも角にも」
説明を締めくくるように、ローゼンバインが机に掌を叩きつけた。
「これまで、負け通しだったのは戦力が不足していたからだ。連中は、我が〈王国〉軍の真の実力を思い知ることになるだろう」
「作戦の指揮は、バッハシュタイン大将が執られます」
カイテルが付け加えるように言って、バッハシュタインが胸を張った。
軍隊では、攻撃を主張する者が常に優位に立つ。
ディックホルストは目の前の現実を飲み下すように深く、息を吐いた。
かくして。王都の平穏は終わりを告げるというわけだ。
話を聞き終えたディックホルストは、すぐに王宮を後にした。
彼は前線指揮官だ。何時までも、任地を空けてはいられない。
だが、その前に。
王宮へ続く坂道の下に待たせていた馬車に乗り込んだディックホルストは、御者に自分の家へ向かうように命じた。
自宅へ帰ってきたディックホルストを、彼の妻は酷く安堵したような笑みで出迎えた。
だが、夫が軍服を脱ごうとしないのを見て、その笑みもすぐに苦いものへと変わる。
ディックホルストは、そんな妻にすまんなと短く詫びてから、カレンはいるかと訊いた。
妻が答えるまでもなく、彼が居間の椅子に腰を下ろしたところで彼女はやってきた。
まだ眠るつもりはなかったのだろう。カレンもまた、養父と同じ軍服姿だった。
いったい、いつからこの家はこんなに堅苦しくなったのでしょうねとぼやく妻を宥めてから、二人は向かいあって座った。
妻は諦めたように溜息を吐いて、部屋を出ていった。
ディックホルストもカレンも、仕事の話は極力、家でしないようにしていたが、どうしてもという時にはこうして気を使ってくれるのだった。
「それで。どうだ、彼は」
妻が部屋を出ていったのを見計らって、ディックホルストは不躾にそう尋ねた。
彼とは言うまでもなく、ヴィルハルト・シュルツの事だった。
「どう、と訊かれましても……」
答え辛そうに、カレンが口を開いた。
それはまあ、そうだろう。休暇中のヴィルハルトは、堕落を絵に描いたような日々を送っているだけなのだから。
「本当にやる気があるのか、分かりません」
結局、彼女は自分にできる精一杯の好意的な表現でそう答えた。
「ふむ」
ディックホルストはそれをどう受け取ったものかと、顎を撫でた。
そこへ。
「ただ」
カレンが、絞り出すような小声で言った。
「できるだけ早く、前線へ戻して差し上げるべきです」
ディックホルストは驚いたように両眉を持ち上げた。
「それはまた。随分と嫌ったものだな」
命の危険がある前線へ戻せとは。
彼の、というよりも、妻の尽力によって心優しく育ったはずの養女が口にした言葉をそう解釈した彼に。
「いえ、そうではありません」
カレンは、首を横に振った。
ディックホルストが不思議に思って彼女の顔を覗き込む。カレンの溌剌とした少年のような面立ちには、何かを悼んでいるような表情が浮かんでいた。
「口で説明するのは難しいのですが……あの人は、その。戦場にあってこそ、あの人であれるというか。まともでいられるというか」
彼女の酷く歯切れの悪いその説明に、ディックホルストは顔を顰めた。
養父の表情の意味は、カレンにも分かっている。
誰もが日々、血に狂いゆく戦場でこそまともでいられるとはどういうわけかと訊きたいのだろう。
だが。
カレンは、懊悩を吐き出すように息を吐いた。
“あれ”は、見なければ分からない。
ヴィルハルト・シュルツの、王都での日々。
戦場における彼の、冷酷非情な顔を知っているからこそ、カレンはその姿に無理を見ていた。
たとえば、あの下宿屋の女主人に対する丁寧な言葉遣いと、努めて柔らかい態度。
たとえば、教会へ行った時見せた、拝天教信徒として何一つほころびの無いあの所作。
そして。そして、あの弟。
弟と一緒にいる時の彼は、本当にあのヴィルハルト・シュルツなのかと疑いたくなるほどだった。
まるで別人のように、どこまでも兄としてあろうとする彼と、その弟。
互いの身を案じ、将来が明るいものであることを切望し、時には声をあげて笑い合うあの二人を前に、カレンは何度となく目を覆いたくなった。
それはもはや、悲劇だった。
血の繋がりが無いことなど、両者の顔を見れば一目瞭然だ。
互いの境遇に、お互いがどこか後ろめたいものを抱えていることも、時折、相手の顔を盗み見ている時の二人の表情から察することができた。
それでも。
どこまでも必死に。どこまでも懸命に。
二人はどこまでも兄弟であろうとしていた。
きっと、兄は何かを償うために。
きっと、弟は恩に報いるために。
あんなにも惨めで悲しい兄弟ごっこがこの世にあっていいのか。
どうして、誰もあの二人を止めてやらなかったのだ。
だから。分かった。ようやく分かった。分かってしまった。
彼がどんな人生を歩んできたのかが。
そんな嘘と偽りに満ちた彼の人生の中で、唯一己に正直でいられる場所が、戦場なのだ。
懸命に己を押し殺して、必死に他者への礼を払い、義務感のような気を配る彼を。
あの場所へ、帰してやらなければ。
これ以上、彼を惨めにしてはならない。
戦場でなら、彼はきっと何かを掴めるはずだから。
「……まあ、いい」
口を噤んでしまったカレンをしばらく見つめていたディックホルストが、やがてそう呟いた。
「どの道。望むと望まないとに関わらず、奴は戦場には征かねばならん」
「ええ。そうですね」
罪悪感に満ちた顔で、カレンは頷いた。
自分で口にしておきながら、今さらのようにその残酷さに気が付いたからだった。
確かに、戦場でなら彼は何かを掴めるだろう。
だが。それがあの兄弟を救ってやれるはずもないのだ。