王都の日々 15
ウェスト夫人の下を訪れた日。
ヴィルハルトが下宿屋へと戻ったのは、月が中天を跨いだ頃合いであった。
彼女との長く、そして短いやり取りの後で、そのまま帰宅する気にはどうしてもなれなかった。なので、辻馬車も拾わずに、夕暮れの王都をふらつきながら、目についた酒場へ片端から転がり込んでいたら、こんな時間になってしまったのだった。
どの店でも料理は頼まずに、酒を一杯だけ飲み干して出た。
酔いに揺れる頭を抱えながら下宿先へと辿りついたヴィルハルトは、呼び鐘も鳴らさずにそっと扉を開けると、その中へと滑り込んだ。
ホールはひっそりと静まり返っている。
ヴィルハルトは足音をたてぬように階段へと向かった。
途中、食堂から小さな灯りが漏れていることに気が付く。
覗き込むと、ウィンター夫人が眠り込んでいた。彼女が枕にしている机の上には小さな液灯が灯され、食器が一揃い並んでいる。
どうやら、ずっとヴィルハルトの帰りを待っていたらしい。
そういえば、彼女には朝、早く済ませて戻ると言って出たはずだった。申し訳ない事をしたなと思いつつ、ヴィルハルトは部屋に続く階段を上った。
ここで、眠っている彼女に布の一枚でもかけてやろうという発想が出来たのならば、彼は軍人になどなっていなかっただろう。
廊下を軋ませながら、部屋の前に立った時。
ヴィルハルトは無意識に腰へ手を伸ばした。自分でも、何故そうしたのか理由がはっきりとしない内に、指先が冷たい金属の塊に触れる。
途端、酔いに冒されていた頭がすっと冷たくなった。
胃に溜まった酒精を全て吐き出すように長く息を吐ききって、表情を引き締めたヴィルハルトは、短銃を腰から抜いて扉へと手を掛けた。
中は暗い。
窓から差し込む淡い月明かりに、家具の輪郭がぼんやりと闇の中に浮かび上がっている。
けれど確かに感じる、何者かの息遣い。
どこの誰に命じられてきたのかは知らないが、刺客にしては気配の消し方が甘い。或いは、わざとか。
「誰だ」
部屋の前に立ったヴィルハルトは、そう暗闇に呼びかけた。しかし、答えはない。
仕方なく、ヴィルハルトは部屋の中へと踏み込んだ。部屋の間取りを脳内に浮かべながら、入ってすぐの壁に掛けておいた軍剣を、銃を持っていない方の手で掴む。両手を使うわけにはいかないため、鞘から刀身を抜くことはできないが、無いよりはマシだろう。
「何者だ。姿を見せろ」
再び、闇へ呼びかける。
この部屋には身を隠せるような場所はほとんどない。最悪、怪しげな場所に数発、弾を撃ち込むか。階下で眠っているウィンター夫人には申し訳ないが。
ヴィルハルトがそんなことを思いながら、寝室へと続く暗がりへ銃を向けた時だった。
「お待ちしておりました、シュルツ中佐」
若い男の声と同時に、背後で燐寸を擦る音が響いた。
ヴィルハルトは反射的に振り向いた。銃口を向けた先の暗闇には、小さな火が灯っている。
侵入者はそれで、卓に置かれている燭台に立っている三本の蝋燭すべてに火をつけた。
浮かびあがったのは、やはり若い男であった。
端正な面立ちに柔和な、というよりも、にこやかな笑みが浮かべている。
漆黒の衣装を身にまとっているのか、首から下は闇に溶けこんでいて、まるで笑顔の生首が宙に浮いているように見えた。
「何者だ」
ヴィルハルトは男に短銃を突きつけつつ訊いた。
「ああ、少し落ち着いてください。私は敵ではありません。どうか、銃を下ろしていただけませんか」
対する男の態度は落ち着いたものだった。
「こんな夜半遅くに大変失礼かとは思いますが。しかし、貴方のお帰りがこれほど遅くなるとは思わなかったのです」
そう言って、男は丁寧な物腰で腰をおった。その胸元で何かが、蝋燭の灯りに反射してちかりと光る。
それを見たヴィルハルトの眉が怪訝そうに歪んだ。
「……聖職者か?」
彼の質問に、男が背筋を伸ばした。その胸元で揺れているのは、間違いなく拝天教の聖印である円十字を象った銀細工。ならば、着ているのは黒い修道服か。
「私は正典史導院のセドリック・バロウズと申します。今晩は、中佐殿にとあるお願いがあって参りました」
「……正典史導院?」
正典史導院とは、拝天教団の発足当時から存在する教皇直轄機関の一つだ。
その活動や目的の一切は謎に包まれている。
教会で育てられたヴィルハルトですら、何やら聖典について研究しているらしい、という噂話のような話しか知らない。
しかしその名は、拝天教を国教として掲げている全ての国家に対して絶大な影響力を持っていた。
何故か。
例をあげるとすれば、とある国が教会の意にそぐわぬ政策(理由は不明だが)を実行しようとした時。
その国家、或いは君主に対して「教義に反する」と声明を出す際に使われるのが彼ら、正典史導院の名であるからだ。
声明を無視して政策を推し進めれば、教会はその国の君主を破門してしまうだろう。
王権神授説が全盛のこの時代。王権は神によって下賜されたものである、という後ろ盾を失った者は、もはや君主として見做されない。
結局は教会の、いや、何を目的に、何を行っているのかすらわからない組織の言いなりになるしかない。
そう言った理由から大陸諸国の王侯たちからは煙たがられている(無論。それを態度に出すようなことはしないが)。
そこから来たという男へ、ヴィルハルトは疑うような視線を送った。
バロウズと名乗った彼は、相変わらずにこやかな笑みを浮かべている。ヴィルハルトはいまだ銃を下ろしていない。一介の聖職者にしては、異常なまでの落ち着きだ。
「……それで、正典史導院が俺に一体、何の用だ。教義に反した憶えは無いが」
未だ警戒を解いたわけでは無いが、ヴィルハルトはともかくバロウズから銃口を逸らした。
「ですから、お願いです」
バロウズはにこやかに答えた。
「中佐殿は明日から、新部隊の部隊長になられるとか」
それにヴィルハルトは曖昧な頷きを返す。
相変わらず、話は読めない。
まさか、これまでの話は全て嘘で、新部隊設立をよく思っていない貴族連中辺りが差し向けてきた刺客なのだろうかという疑いが頭を過ぎった。
しかし、何もそこまでするだろうか。
ヴィルハルトがそう、頭を捻った時。
バロウズは予想もできない言葉を口にした。
「その新部隊に、私も参加させて欲しいのです。なんと言いますか……そう、従軍司祭とでも言いましょうか。実際の役職はなんでもいいのですが」
彼の発言を噛み砕き、咀嚼するのにはしばらくの時間が必要だった。
「……それならば、俺ではなく、まず司令部に裁可を」
「ええ。許可はもう頂いています」
眉間を揉みながら応じたヴィルハルトに、バロウズは懐から一枚の紙を取り出した。
差し出されたそれを受け取ったヴィルハルトは、紙を蝋燭の灯りにかざす。
「……本気か?」
彼は呆れた声でバロウズに訊いた。
「ええ。まったくもって」
彼はにこやかに頷いた。
ヴィルハルトはもう一度、その紙に目を落とした。
それは確かに、〈王国〉軍総司令部から出された辞令であった。
文面はセドリック・バロウズ助祭を軍属の司祭として任ずる、というものだ。
しかし。何もかもを明確に明文化する軍にあって、このような辞令があるものか。
どの程度の階級に相当する者として扱うのかはおろか、果たすべき任務の内容すら書かれていない。ただ、配属先だけが〈王国〉東部方面軍第一擲弾戦闘大隊と、付け加えるように書かれているその辞令に、ヴィルハルトは呆れていた。
そもそも、〈王国〉軍に従軍司祭などというものは存在しない。
頻繁に遠征をおこなう〈帝国〉軍などでは、そうした軍属の聖職者が存在しているそうだが。国内での防衛のみを想定した組織である〈王国〉軍には、そんなもの必要ないからだ。
だが、その紙には確かに、〈王国〉軍総司令部発と記されている。
その上、〈王国〉軍総司令官であるオットー・フォン・ローゼンバイン大将その人の判まで捺されていた。
目の間にいる男と手元にある辞令を交互に見比べながら、ヴィルハルトは何となく予想した。
恐らくだが。
この文面は軍人が使うそれではなく、娑婆の人間が使う意味で、適当に考えられたものなのではないだろうか。
と、同時に。それはどこまでも正規の辞令であった。
つまり。それだけの無理難題を押し通せるだけの組織という事か。正典史導院というのは。
実際に顔を合わせた時間はわずかだったが、ローゼンバイン大将がどのような人物であるのかは、ヴィルハルトも良く知っている。
あの堅物がこの辞令に捺印している場面を思い描くと、なんとも奇妙な気分になった。
「それで。俺は君をどう扱ったらいいんだ」
内容とそれが出された背景はともかくとして。従軍司祭などという聞いたこともない部下をどう扱えば良いのか。
「いえ。別に。どうされなくても構いません。何か手伝いか、雑務でも命じられれば従います。お茶でも淹れましょうか?」
そう訊いたヴィルハルトに、バロウズは飄々と肩を竦めた。
「ただ。自分は貴方の傍にいることが任務ですので」
彼の答えにヴィルハルトは、それを早く言えと大きく肩を落とした。
彼が何故ここへ来たのか。ようやくはっきりしたからだった。
要するに。
「監視か。しかし、何故だ。先ほど言ったように、俺は教会の教えに背いたことはないと思うんだが」
いや。背いたか。少なくとも教会では、大量虐殺をするように説いてはいない。
しかし、分からない。
正典史導院などに目を付けられる意味が。
まさか。同じ教会に関わりのある、嫌われ者同士仲良くしましょうなどという事でもないだろうに。
「監視というよりは、護衛です」
ヴィルハルトが奥歯に何かが詰まったような顔をしていると、急に真顔になったバロウズが口を開いた。
「今、貴方に死なれるわけにはいかないのです。少なくとも、この戦争が終わるまでは」
言って、彼は背後の暗闇からなにかを取り上げた。
それは一振りの剣であった。奇妙な形の剣だ。切先へ行くにつれ、刀身が妙に反っている。
「こう見えても、結構使えるのですよ」
そんなことを言って、バロウズはにこりと笑った。
どうして聖職者が剣術などを。と訊く元気が、ヴィルハルトにはもう残っていなかった。