王都の日々 14
話の切れが悪かったので、ほんの少しだけ、前話に加筆しました。
ヴィルハルトは残る数日の休暇を、これまでよりも怠惰に過ごした。
弟が訪ねてくることもなくなったせいか。毎日やってくるカレンにいくら小言を言われても、耳を貸そうともしない。
流石に朝早く起床する習慣だけは抜けていないが、目を覚ましても昼過ぎまで部屋で煙草を吹かしながら微睡み、陽が傾けばすぐに酒を呑み始めてしまう。
そんな数日を過ごして、ヴィルハルトが再び戒衣に袖を通したのは軍務復帰の前日、休暇最終日の事だった。
たとえどれほどやりたくないと思っていても、やらなければならない事はある。
人は何かを食べなければ生きて行けないのと同じように。
要するに、それが生きるという事なのだろう。
空色を模した軍服に身を包みながら、ヴィルハルトは珍しく詩作的な思考を弄んでいた。
着替えを終えた彼は軍剣を腰に下げて、部屋を出た。
カレンは、今日は来ないと言っていたので待つ必要はない。
階下に降りたところで、軍装に身を包んだ彼を見たウィンター夫人がお仕事ですかと訊いた。
それに極めてあいまいな笑みを浮かべて頷く。
そんな彼に、お帰りは何時頃でしょうかという、いつもの質問が続く。
できるだけ早く済ませますと、ヴィルハルトは答えた。
そう。できるだけ早く済ませてしまいたい。
いや。本来ならば、もっと早く済ませねばならなかったのだ。
戦死した部下の、遺族への戦死報告など。
下宿屋から出て、辻馬車を拾う。
行き先は、王都三番街の外れ。決して裕福とは言えないが、さりとて貧しているというわけでもない王都の中流階級が住まう一画に、その家はひっそりと佇んでいた。
玄関の前に立ったヴィルハルトは改めて身だしなみを整えてから、呼び鐘を鳴らし、暫し待つ。
やがて家の中から現れたのは寂しげな表情の、妙齢の女性だった。
元貴族の令嬢だったと聞いていた通り、その顔にはどことなく気品を感じる。
「ヘルミーナ・ウェストさん、ですね」
軍帽を取って、頭を下げながらヴィルハルトが聞いた。
「はい」
彼女はそれに静かな声で頷いた。
「貴方は、ヴィルハルト・シュルツ中佐ですね。きっと来てくれると思っていました。さあ、大したもてなしはできませんが、中へどうぞ」
そう促した彼女へもう一度頭を下げて、ヴィルハルトはその家に踏み込んだ。
家の中は殺風景だった。最低限の生活用品以外に、何も置かれていない。
「……どこかへ、お引越しするのですか?」
何かを察したようにヴィルハルトが尋ねる。
「はい。この家は一人では広すぎますから。南部の、小さな家で静かに暮らそうかと。それくらいのお金は、遺してくれましたから」
ヘルミーナはそう言って、彼に椅子を勧めた。
ヴィルハルトが断りの言葉とともに腰を下ろすと、彼女はお茶の準備を始めた。
お構いなく、などという言葉を口にできる雰囲気ではないので、彼は黙ってお茶が出てくるのを待った。
さほど待たずして、目の前に机に湯気の立つ碗が置かれた。
どうも、と礼の言葉を口にした彼の対面にヘルミーナが座る。
「それで」
目を伏せるようにして、彼女が口を開いた。
ヴィルハルトは立ち上がり、背筋を正すと一息に言った。
「直属の上官として、オスカー・ウェスト大尉の戦死をお知らせに参りました」
飾り気の一つもないヴィルハルトのその言葉に、彼女は動じるでもなく、彼を責めるでもなく。
「はい」
と、やはり寂しそうな顔でただ、静かにその言葉を受け入れた。
驚かないのも、悲しまないのも当然だろう。
オスカー・ウェストの戦死から早くも半年が経過しようとしているのだから、彼が報せに来るまでもなく、彼女は夫の死を知っていたはずだ。
そういったことはもう、済ませてあるのだろう。
それでもヴィルハルトがここへ来たのは、軍人として、上官としての責任を果たすためだ。それ以外の理由はない。そして同時に、これが己の浅はかな自己満足のための行動に他ならないことも、彼は自覚していた。
それが、今の今まで引き延ばしにしてきた理由だった。
「……いつか、こうなるかもしれないという覚悟はしておけと、主人は良く言っていました」
何かを諦めるように、長く、細い息を吐きだした後で、ヘルミーナは小さくそう零した。
「けれど、軍の人が報せに来てくれてからもどこか、頭の中では分かっていても、心の底から信じ切ることはできなかった。実は何かの間違いで、あの人は今も元気に、と言ったらおかしいかもしれませんが、自分の仕事を果たし続けているのではないかと」
静かに、訥々と心情を吐露する彼女の言葉を、ヴィルハルトは黙って聞いた。
「でも。貴方の口からお聞きして、ようやく踏ん切りがつきました。シュルツ中佐」
寂しげな顔に、儚げな笑みを湛えて、彼女はヴィルハルトに目を向けた。
「主人は、死んだのですね」
確かめるように、そう尋ねる。ヴィルハルトはそれに無言で頷きを返した。
「そうですか」
その呟きとともに、背負っていた重荷を下ろすように、彼女はほっと息を吐いた。
再び、ヴィルハルトへと顔を向ける。
黙っている彼を見て、ヘルミーナが無理やり気分を切り替えるように、口元の笑みを大きくした。
「あの人が東部に、貴方の部隊に行ってから、あの人は貴方のことを良く手紙に書いて寄こすようになりました。まあ、その、あの人はあの通りの言い方しかできない人でしたから、どう書いてあったのか、とても私の口からはお話することができないのですが」
幸せな思い出を掘り起こすように彼女が言う。
ヴィルハルトはやはり何も答えずに、ただそれに頷いた。
というよりも、何を言ったら良いのか分からない。
家に入るべきではなかったなと、少し後悔する。
彼女へ夫の死を報告する。それだけのために来たのだ。
今さら、生前のオスカー・ウェストの話など聞かされても、どう受け答えすれば良いのかが分からない。
彼がそう迷っている間にも、ヘルミーナ・ウェスト夫人の思い出語りは続く。
二人が出会った頃の話。子供の頃の話。士官学校に入学したときの話。任官初日での出来事。大尉になると同時に、結婚を申し込んできた時の話。家での、彼の事など。
他にどうしようもないので、ヴィルハルトは彼女の話をただ黙って聞いた。
やがて、思い出せる限りの話を語りつくしたのか。
彼女は言葉を切ると、お茶に口をつけた。真似るようにヴィルハルトも一口、すっかり冷めてしまったお茶を飲む。
黙り込んでしまった彼女から、ヴィルハルトは部屋の窓へ目を向けた。
ここへ来たのは昼過ぎだったはずだが、窓からは淡い夕焼けの光が差し込んでいた。
対面に座っている彼女に視線を戻すと、どこかぼうっとした面持ちで、お茶の入った碗を見つめている。何か、声を掛けた方が良いのだろうかと考える。だが、何を言えば良いのかも浮かんでこない。
そうして、どれほど無言の時間を過ごしただろうか。
一寸にも、一刻にも感じられる、なんともむず痒い時間の後に。
「……あの人は、主人は、何故、死んだのでしょう?」
ヘルミーナの口から、そんな疑問が小さく零れた。
「全て、指揮官であった自分の責任です」
それに、ヴィルハルトははっきりとした声で答えた。
その言葉に、ヘルミーナの瞳が戸惑ったように揺らいだ。
恐らく、そんな言葉が聞きたかったわけではないのだろう。
何故、夫が死んだのか。それについて、納得のゆく理由が欲しかったのだ。
だが、ヴィルハルトはそれ以上言葉を続けなかった。
オスカー・ウェストが何故、死んだのか。
ヴィルハルトはその質問に、恐らく完全な答えを返すことができる。
しかし、その答えを聞いたとしても、目の前の女性は決して理解ができない。
何故ならば。
オスカー・ウェストが死んだことに、意味などないからだ。
否。彼に限らず、戦場で散ったあらゆる者の死に意味などない。
戦場にある軍人には、生きている限り戦力という値段が付く。しかし、死んでしまえばその価値もなくなる。そして、命が廉価で大量消費される戦場において、一個人の生き死にほど意味のないものなどない。
こう言えば、納得できないと反論する者は多いだろう。
だが、誰よりも納得できないのは死んでいった彼らのほうではないか。
そんな言葉を飲み込んで、ヴィルハルトは立ち上がった。
「すみません、長居をし過ぎたようです」
詫びるように頭を下げてから、彼は言った。
「なにか、お困りの事はありませんか。出来る限りの事はします」
それにヘルミーナは首を横に振った。
「いいえ。女が一人、慎ましやかに生きてゆくのには十分な蓄えと年金を、主人が残してくれました。先ほど言った通り、私はもうすぐ、王都を出ます。ここは、思い出が少し、多すぎるのです」
そう答えた彼女の声はわずかに湿っている。
俯きながら、漏れだしそうになる感情を懸命に抑えつけているのだろう。
これ以上、自分はこの場にいるべきではない。そう思ったヴィルハルトは、さっと彼女へ背を向けた。
「中佐殿」
その背中を、ヘルミーナが呼びとめた。
小さな声だった。しかし、そこにはこれ以上ないほどの激情が籠っている。
「どうか、仇を」
身を焼かんばかりの激しさで、彼女は懇願した。
「夫の仇を、どうか」
ヴィルハルトはその言葉を背に受けながら、軍帽を被った。
振り返るべきではない。今まで、彼女は必死にこの激情を抑え込んできたのだから。
「必ずや」
ただ一言、それだけを口にして。
彼はウェスト宅を後にした。