王都の日々 10
「はぁ……驚いた」
ヴィルハルトの去った後。修道女は胸を撫でおろすと、近くの椅子へ力なく座り込んだ。
「これ、エーリカ。何ですか、今の彼に対する態度は」
そこへエマからの叱責が飛ぶ。
「す、すみません、マザー」
エーリカと呼ばれた修道女は、おどおどと詫びた。
「でも、私……昔からあの人が怖くて」
そう言った彼女は、まだ何かに怯えているようだった。
「何を考えているのか、分からないんですもの……それに、ほら、カールとの事件も」
「あの件は、私たちも悪かったと言ったでしょう」
「ええ、はい。でも。マザー」
頷きを返しつつも、エーリカの表情は納得とは程遠い。
幼いころの彼女にとって、ヴィルハルト・シュルツという少年はただただ不気味な存在だった。自ら進んで人の輪から外れ、こちらから話しかけてもろくに返事もしない。唯一反応を示すのは、弟に関する話題が出た時くらいのものだった。それ以外ではいつも、教場の隅でひっそりと本を読んでいるか、何か思索にふけっているように虚空を見つめている。そんな少年だった。
大人になった今ならば、ヴィルハルトたち兄弟の境遇を理解することもできる。その上で、少年時代のヴィルハルトの振舞いについても、一定の納得は示すことができた。
それでなお、彼女は弟のハルディオを傷つけたカールに対する、彼の報復が忘れられないのだった。
故意ではないとはいえ、小さな子供に手をあげたカールは確かに悪かった。
けれど。あの時。
もうやめて。許して。ごめんなさいと繰り返す彼を、ヴィルハルトはただの一度も手を止めることなく殴り続けた。
そして、彼女は見ていた。その間、彼がずっと笑っていたのを。
「まあ。貴女があの子を苦手に思うのも仕方のないことかもしれませんが」
恐ろしい記憶を蘇らせて、黙り込んでしまったエーリカに、エマが溜息とともにそう声を掛けた。
そうではないんです、という反論の言葉を、エーリカは努力して飲み込んだ。
苦手などという話ではないのだ。笑いながらカールを殴るヴィルハルトを見たあの時から、彼は彼女にとって恐怖の対象になった。それはあの事件以降、ヴィルハルトが態度を改め、教会の教えにも忠実に従うようになってから、今までも変わることが無い。
アレは、人の皮を被った鬼だ。
彼女はそう信じている。
だからこそ、次にエマが口にした言葉に彼女は耳を疑った。
「やはり、あの子は軍人などにさせず、無理やりでも神学校へ行かせるべきでした」
「どうしてです」
後悔しているように肩を落とすエマへ、エーリカは噛みつくように聞き返した。
「だって、あの人は多分、神様を」
「信じていないでしょうね」
流石に、口にするのは憚られたその続きを、エマがあっさりと言い切る。
「マザー……それが分かっているのに?」
「あの子は、私たちとはまた別のものを信仰しているのでしょう」
きょとんとした顔で尋ねるエーリカに、彼女は至極当然のように答えた。
「別の……?」
エーリカの眉が、聞いてはいけないことを聞いたかのように顰められた。
彼女たちが信じる“拝天教”にあって、信仰の対象は天主ただ一人である。南方蛮域や、極東の島国などといった遥か遠くの、未開の地では天主以外の存在を奉っているという話を聞いたことはあるが、それは異教や邪教と呼ばれるものだ。
そして教会はそうした神々を信仰することを許していない。教会が許していないということは、大陸世界において許されていないということだ。
この時代、大陸世界の国々は教会の示す教理に基づいて国法を定めていた。
当然、教会が許さないものは罪になる。
この〈王国〉であっても、異教を信仰することは罪だった。異教徒に下される刑罰はただ一つ。火炙りのみである。
「マザー、それは……」
エーリカが不安そうな面持ちで口を開いた。
「ああ、違います。違います」
彼女の顔を見たエマは、誤解を解くように慌てて手を振った。
「別にあの子が、異端の神を信仰しているという話ではないのです」
「では、何なのですか」
ますます話が分からなくなったのか。エーリカが困り果てたように尋ねる。それにエマは考えるように顎を指で撫でた。
「そうですね……私たち、と言ったら傲慢かしら」
「私たち?」
彼女の答えに、エーリカが首を傾げる。
「つまり」
エマは結論付けるように答えた。
「そう、つまり。あの子は人間を信仰しているのです」
聞いた途端、エーリカは「そんなわけが」と噴き出しそうになった。しかし、エマがことのほか真剣な表情をしていたために、思いとどまる。
「あの子はきっと、人間とは素晴らしいものであると信じているのでしょう。或いは、そうであって欲しいと願っている」
「どうして、そんなことが言えるのですか」
あまりにも自信に満ちた彼女の声に、エーリカは聞き返した。
「あの子を見ていれば分かります」
エマは穏やかな微笑みを浮かべて答えた。
誰も彼もを見下したような瞳で眺めながら、彼は信じているのだ。
人間は素晴らしいと。
だからこそ、彼がそうであって欲しいと願う素晴らしさを示した者に対しては心からの敬意を表する。
その逆に、そうでない者を容赦なく蔑む。しかし、それもまた期待の裏返しなのだ。
本当は素晴らしいものを持っているはずなのに。何故、それを示さないのかという。
そんな彼にとって最も残念なのは、彼の信仰において最も蔑むべき人種に自分が成ってしまったということだろう。
「きっと。良い神父とは言いませんが、良き教師にはなったと思いますよ。彼は」
あり得なかった現在について語る老女の横顔は、取り返しのつかない物悲しさに満ちていた。