16
お待たせしました。
ようやく戦争らしくなってきます。
「斥候に出ていた者が見つけました。敵は騎兵一個小隊。軽装で、胸当ても付けていないそうです。速歩を取っておらず、並足で副道を進んでいます。こちらへの予想到達時刻は、およそ半刻後」
警戒線に到着したヴィルハルトへ報告したのは、現場の指揮を任せていたアレクシア・カロリング大尉だった。
彼女は言い終えた後に、横に立っていた軍曹へと視線を送った。
アレクシアの視線を受けた軍曹は、ヴィルハルトへと顔を向けて重々しく頷いて見せた。
斥候に出ていたのは彼だったらしい。
ヴィルハルトも彼の事は知っていた。
自分よりも二つ年上で、軍曹としては若い。つまり、優秀な男だった。
下士官兵たちに対しては、その能力に疑問を持たないヴィルハルトはすぐに頷きを返した。
それに敵は当然、騎兵による偵察隊を先遣させるはずという予想をしていたヴィルハルトにとって、この事態に驚くべき点は一つもない。
「では、カロリング大尉。中隊を借りるぞ」
「はい、大隊長殿」
ヴィルハルトは、さっと辺りを見回した。
警戒線を張らせていた場所はそれほど広くは無い道だ。
副道の両脇が未だ森に囲まれている。
「伏撃する。中隊全員を森へ」
「総員、配置に付きました」
道から少し外れた木々の間で姿勢を低くしていたヴィルハルトの下へ、ヴェルナー曹長が小声で報告した。
ヴィルハルトがご苦労と頷くと、ヴェルナ―は彼の隣で配置に付いた。
ヴィルハルトは後ろを振り向いた。身を隠していた木の幹に背中を預けるようにして座ると、そこに控えていたエルヴィン・ライカ中尉とアレクシア・カロリング大尉の顔を交互に見る。
「確認する。カロリング大尉は第1小隊を率いて、敵の進行経路に対して先頭に付け。ライカ中尉、第3小隊は最後尾。第2小隊は中央。俺が直卒する」
二人が首を縦に振るのを見てから、続けた。
「第1小隊は敵が通過するまで待て。戦端は第2小隊が開く。その後、後退しようとする敵を狙うのだ。良いか、一騎も逃がすな」
「はい」
端正な顔立ちを硬直させたアレクシアが答えた。
「第3小隊は強引に突破しようとする敵のみを排除しろ。よって、両小隊とも、俺たちが撃つまで、発砲を禁止する」
エルヴィンはひらりと敬礼して見せた。
「以上だ。何か質問は?」
ヴィルハルトは両者の顔を眺めた。何かに不安のある顔つきだった。
その不安の原因を誤解していないヴィルハルトは、さっと周囲を見渡す。
そこには顔を青褪めさせ、唇をきつく結んでいる兵士たちが居た。
天へと向けられた銃口の多くが小さく震えている。
銃を握る手に、必要以上の力が込められているからだった。
ちらりとヴェルナーへ目を向けると、彼は視線だけで「いけませんな」と伝えてきた。
誰もが怯えていた。
当然と言えば、当然だった。彼らは誰一人として、銃口を人間へ向けた事が無い。
つまり、ヴィルハルトたちの不安はそこであった。
兵士たちが、自分たちの命令に従うのか否か。
ついに俺も、将校としての資質が試される時が来たなとヴィルハルトは他人事のように考えていた。
と、そこで。
「やれやれ。まさか、先輩の企みに乗っかる日が来るとは」
エルヴィンが大袈裟な溜息とともに、大きな独り言を吐き出した。
もちろん、わざと周りに聞こえるように言ったのだった。
「何だ、ライカ中尉。何か不安でもあるのか」
彼の意図を読んだヴィルハルトがその軽口に応じる。
彼はますます砕けた口調で答えた。
「いいえ、不安はありませんよ。先輩の悪辣極まる策士ぶりは、士官学校でも良く耳にしたものですから」
「まるで俺が、普段から良くない事を企んでいたように聞こえるのだが」
「そりゃあ、仕方ないですよ。ライバル関係だった同期生を貶めて放校に追いやったとか、演習中に気に入らない教官を落とし穴に落としたとか。色々と耳にしましたから」
「その同期生が放校処分になったのは、禁止されていた飲酒が発覚したからだし、教官殿が落ちられたのは落とし穴では無くて、偽装されたタコツボだ。何より、全部俺が関わったという証拠が無い」
「だから、先輩が犯人なんじゃないですか。僕ら後輩は、士官学校で起こる原因不明の事件のほとんどを、先輩が計画したと聞かされましたが」
「……誰がそんな事を吹き込んだのかは聞かなくても分かるが、だとしても調理場からラム酒を失敬したのは俺では無い。教官殿が落ちたのも事故だ。例えその直前に、教官殿が気分的な八つ当たりで俺を殴っていたとしても」
「ふーん……じゃあ、ジェシカ・エヴァルト女生徒の下着が無くなった事件は?」
「待て。それは本当に知らない。そんなことまで俺の罪歴に加わっているのか?」
彼らのやり取りを耳にしていた兵士の一人が、堪らずに噴きだした。
それにつられて、次々と兵士たちが失笑よりも元気の良い笑いを零す。
彼らの笑い声を聞きつけたヴィルハルトに睨みつけられて、真面目な顔で銃を持ち直した兵士たちだったが、その後に振り返ったエルヴィンが舌をちろっと出すと、堪え切れずに顔を俯かせた。
一体、この二人は何の話をしているのだと顔を顰めていたアレクシアですら、うっすらとした微笑みを浮かべている。
彼女の笑いがこの程度の抑えられているわけは、まぁ、話の内容が少々下品であり過ぎたからだった。
ともかく、銃口の震えている意味が変わった。
「大隊長殿、そろそろです」
上官たちが一通りのやり取りを終えたところで、ヴェルナ―がそっと口を挟んだ。
「うん」
ヴィルハルトは頷いた。
改めて周囲を見回す。兵士たちの気分を変える事には成功したらしい。
自分だけなら、こう上手くは行かなかっただろうなと彼は思っていた。
だからこそ、兵站担当士官を任じたばかりのエルヴィンを連れてきたのだった。
彼もまた、大隊創設当初から部隊で生き残って来た将校である。
それなりの理由があるのだ。
「もういい、中尉。さっさと行け」
「はい」
「大尉、君もだ。気を付けろ」
「はい、大隊長殿」
二人はすぐに姿勢を正すと敬礼をし、部隊の下へと走っていった。
報告の通り、きっちり半刻を待った彼らの耳に、蹄の音が届き始めた。
二列縦隊を組んだ〈帝国〉軍騎兵たちが、しきりに周囲を見回しながらゆっくりとした歩調で森の道を進んでくる姿がヴィルハルトの目に映った。
武装は腰に吊ったサーベルと騎兵銃のみ。胸当ては付けていない。
つまり、彼らは戦闘を目的としていない。
敵と接触し、攻撃を受けたならば、即座に退き、情報を持ち替える。
それが彼らの任務であった。
「初戦における我が軍は随分と情けなかったとは聞いておりますが……どうにも、敵に舐められておるのは本当らしいですな」
敵を観察していたヴェルナーが、ヴィルハルトの耳元でそっと囁いた。
その声に悔しさが混じっている事に気が付いたヴィルハルトは苦笑のような表情を浮かべた。
確かにな、と思っていた。
〈帝国〉騎兵たちは敵を捜索しているというよりも、見知らぬ土地の景色を眺めていると言った方がしっくりくる様子だったからだ。
「だが、お陰で俺たちは少し楽が出来そうだ」
ヴィルハルトは小声でヴェルナーに言った。命じる。
「小隊、撃ち方用意。最初の射撃は大隊長に続け。復唱は要らない」
命令はほんの数秒で伝達された。
よし。いいぞ。
ヴィルハルトの口元に、本物の微笑みが浮かぶ。
ここまでは訓練通りだった。つまり、これまでの訓練は無駄では無かった。
既に装填を済ませていた銃口が、一斉に同じ方向へと向けられる。
彼らが立てる音は、木々のざわめきに包まれて、敵の耳には入らない。
「着剣は?」
ヴェルナーが尋ねた。
ヴィルハルトは首を横に振った。
「不要だ。射撃のみで殲滅する」
ヴェルナーは突撃するかと尋ねたのだった。
しかし、ヴィルハルトはその危険を冒す時では無いと判断していた。
如何に軽装とは言え、相手はあの〈帝国〉軍。
戦争初心者のこちらが白兵戦を挑めば、決して少なくない反撃を受けるだろう。
そう考えたからであった。
そして突然、ヴィルハルトは自分の思考している事の意味について自覚した。
自分にそれを行う覚悟があるのだろうかと疑った。
あれこれ考えている間に、〈帝国〉兵が目の前の道へやって来た。
距離20ヤード。必中距離。絶好の機会。
すぐに答えが出た。
それは彼の胸の内からでは無く、銃口から吐き出された。
乾いた音。肩に蹴りつけられたような衝撃が走る。
一拍置いて、小隊全員分の銃声が彼の答えを追いかけた。
〈帝国〉騎兵たちは完全に油断していた。
彼らの内、幾人かは事態を理解するよりも先に、頭蓋を吹き飛ばされ、腹を破られて絶命した。
糸の切れた人形のように、馬の背中からバタバタと落ちていく。
しかし、全てがそうであったわけでは無い。
むしろ、完全な奇襲の成功という状況でありながら、命中した弾は少なかった。
やはり。ヴィルハルトはすぐにその理由を把握した。
兵士たちは初の実戦、人を撃つというその動揺故か。照準が定まっていない。
「第二射、装填!!」
彼は兵士たちを怒鳴りつけた。
既に敵に位置はばれている。声を落とす必要は無い。
それよりも兵士たちが、自身の成した事について思考する暇を与えない事が重要だった。
彼らは上官からの命令に対して、思考を放棄して従うように教育されている。
「装填!!」
ヴィルハルトの命令を、ヴェルナ―が繰り返した。
「グダグダするな、ノロマども! 相手は〈帝国〉軍騎兵だぞ!!」
彼の声には殴りつけるような効果がある。兵士たちは先を争うようにして装填を始めた。
金属のぶつかり合う音が響く中、ヴィルハルトも次弾の装填を急いだ。
そう。相手は百戦錬磨の〈帝国〉軍。
一瞬の遅れも許されない。
装填が終わった。構える。未だ、事態が把握しきれていない〈帝国〉騎兵たちに狙いを付ける。
「撃てぇっ!!」
ヴィルハルトの号令とともに、再び小さな鉄球の暴力が〈帝国〉騎兵を襲った。
バタバタと人が倒れた。
〈帝国〉西方領軍の所属を示す、緑色の軍装が瞬く間に赤く染まってゆく。
「続けて撃て! 射撃を止めるな!!」
再び装填しながら、大声を張り上げる。
流石は〈帝国〉軍。すでに敵部隊の一部は混乱から立ち直りかけ、後退しようとしていた。
そこへ、すかさず別方向からの銃撃が始まった。
アレクシアの率いる第1小隊が潜んでいる辺りだった。
再びの混乱。
ヴィルハルトは装填を終えた銃を構え、弾雨の中で立ちすくんでいる敵兵へと狙いを定めた。撃つ。敵兵が突き飛ばされたように地面へ倒れた。装填する。構えた。撃つ。今度は外れた。再度装填。構える。撃つ。自分の銃口から飛び出した弾丸は、兵士たちの放った弾幕の中へ紛れた。その先で、一人の男が全身から血を噴き出しつつ倒れた。しばらく地面の上で蠢いた後、動かなくなる。気にしない。
彼は射撃を止めた。攻撃を部下に任せ、自分は敵情を把握する事に専念する。
やはり、敵の一部が強引に突破を掛けようとしていた。
馬を疾駆させようと、鞭を入れた途端だった。それまでとは逆方向からの銃撃が始まった。
突撃を掛けようとしていた一団が壊乱する。
銃弾に襲われた馬が嘶き、暴れたせいで鞍から振り落とされた敵兵が見えた。
地面を張って逃げようとする彼を、何発もの銃弾が襲った。
それを目にした瞬間、ヴィルハルトの中で得体の知れない、どす黒い何かがのたうちまわった。
「射撃中止!」
攻撃は十分だと判断して、彼は叫んだ。悲鳴のような声が出た。
「射撃中止!! 撃ち方、止め!!」
銃声に掻き消されてしまった彼の命令を、ヴェルナーが何倍にも拡声して怒鳴った。
あれほどけたたましかった銃声が、硝煙の臭いだけを残してぴたりと止んだ。
先ほどまで長閑だった森の中の小道は、今や人馬の部品が散らばる血河へと変わっていた。
暫くの間、世界が静謐の底へ沈んだような錯覚を抱いていたヴィルハルトの耳に、木々が風に揺れる音と兵士たちの荒い息遣いが聞こえ始めた。
銃声で麻痺していた鼓膜が正常な機能を取り戻しつつあるのだった。
やがて彼は、それらとは異なる音が聞こえる事に気が付いた。
〈帝国〉兵たちが沈んでいる血の海から、か細い、小動物の鳴き声のようなものが聞こえた。
制そうとするヴェルナーを押しやり、ヴィルハルトは紅い水たまりへと足を踏み入れた。
鳴き声の出所はすぐに見つかった。
大柄な〈帝国〉騎兵の死体に押しつぶされるようにして、それは倒れていた。
真っ赤に染まった〈帝国〉軍の制服に身を包んでいたのは、17、8歳ほどの少年であった。
胸と腹に銃弾を受けている。右腕の上腕部からは、ごっそりと肉がそぎ落とされていた。
彼の身体から淡々と流れだして、広がっていく血溜まりを、ヴィルハルトは無感動に眺めていた。
追い付いてきたヴェルナーが泥と涙と血で汚れた少年の顔を見て、首を横に振った。
ヴィルハルトにもその意味は分かっていた。
この少年にはもう、未来が無かった。
銃をヴェルナーへと預けたヴィルハルトは、腰に吊っている軍刀を抜いた。
大陸世界の軍隊では、抜刀突撃をする騎兵でない場合でも将校は帯剣する事が許されている。
銃の発達した現在では、実戦で振るわれる機会はめったにないものの、最後の護身用武器として、そして何より、将校の身分を示す象徴とされていた。
ヴィルハルトの持つそれは、古代の剣闘士たちが振るったような両刃造りのものだった。
切れ味よりも耐久性を重視した結果、切っ先が僅かに重く作られている。
血まみれになった少年の傍らへと屈みこんだヴィルハルトは、彼の引きつった喉から絞り出される、母を呼ぶ声を聞いた。
そっと、少年の耳元へと口を寄せる。
次に彼の口から発せられたのは、〈王国〉で話される西方語では無く、〈帝国〉の一般公用語だった。
何事かを呟く。
恐怖と苦痛にのみ支配されていた少年の目に、違う光が瞬いた。
ヴィルハルトはもう一度、同じ言葉を呟いた。
少年が必死になって、その言葉を繰り返した。
彼は腕を伸ばした。その手を取ったヴィルハルトは、静かに天を仰ぐ。
そして、抜き放った軍刀の切っ先を、少年の心臓へと向けて一息で突き立てた。
少年の目が大きく見開かれる。
ヴィルハルトはその視線を真正面から受け止めた。
その瞳は、大地の底よりも冥かった。
少年の苦しみは終わった。
「曹長、他に敵の生き残りは?」
引き抜いた刃に付いた血を拭いながら、ヴィルハルトは尋ねた。
「おりません」
剣を鞘へと納める。
「こちらの損害は」
「皆無であります」
聞いた後で、何を当たり前のことを聞いているのだと自分を罵った。
ひたすら森の中に身を隠し、こちらは発砲を受けていない。
糞。俺も冷静ではないという事か。
「よろしい。それでは……」
ようやく顔を上げたヴィルハルトの目に飛び込んだのは、紛れもない畏敬の表情を浮かべているヴェルナーの顔だった。
途端、恐ろしいほどに激しい感情の渦がヴィルハルトの胸で荒れ狂った。
止めろと殴りつけそうになる衝動に、歯を食いしばって耐えた。
しかし、ヴェルナーからの視線にだけは耐え切れなかった。
軍帽を深く被り、目元を隠した。
「俺は大隊本部へと戻る。遺品等を回収した後、敵兵の遺体を処理しろ」
「はい。大隊長殿」
ヴェルナーは背筋を伸ばしてそう応じると、ヴィルハルトの命令を伝える為に兵士たちの下へ走った。
その先に居る兵士たちがヴィルハルトを見る目にもまた、ヴェルナーと同じ光が宿っていた。