帰路
軍状報告を終えたヴィルハルトは、王都五番街へとやってきていた。
王都は、湾に寄り添うように建つ王宮を中心に、扇状に広がった都市である。
城の建つ丘を下って、その周囲を囲むように貴族の邸宅が並ぶ一番街から二番街、三番街と単純な区画構造をしており、商業街である二番街を除いて、中心部に近づけば近づくほど裕福層の住居が多くなる。
その中で五番街は、貧民街ほど荒んではいないが、人生の成功者は一人もいない。そんな通りであった。
民家の窓から漏れる液灯の明りを頼りに夜道を歩くヴィルハルトの足取りは、苛ついたように石畳を蹴っていた。その両手には途中、酒場に寄って買い込んできた度数ばかりが高い安酒の瓶が大量に抱えられている。
もうたくさんだ。
何もかもが、もうたくさんだった。
レーヴェンザールでの激戦、そこからの決死の脱出行。欺瞞ばかりの凱旋式。形だけの解散式。そして、女王への軍状報告。
将校らしい演技も限界に来ていた。
こんな日は、さっさと酔って寝てしまおう。
酔い潰れ、なにもかもが曖昧なままに眠りこけてしまうことこそが何よりの贅沢だと、彼は信じていた。
五番街の中ほどまで進んだところで、ヴィルハルトは一軒の下宿屋の前で足を止めた。少し呼吸を整え、表情を切り替えると、玄関の扉に取り付けられている打金を数回叩く。
「はい……」
ほどなくして扉を開けたのは、栗色の長い髪の毛を後頭部で一纏めにした、妙齢の女性だった。どことなく寂しげな表情を湛えている彼女は、玄関の外に立っていたヴィルハルトを見るなり、ぱっと目を見開いた。
「まぁ! シュルツさん!」
「お久しぶりです、ウィンター夫人」
両手の指を交差させて、飛び跳ねるように自分を迎えたこの下宿屋の大家、リサ・ウィンター夫人へ、ヴィルハルトは軍帽を脱ぐと丁寧に頭を下げた。
「はい、はい……! 本当に、お久しぶりで、二年ぶりでしょうか。よくご無事で……あの、王都にお戻りになっているとは聞いていたので、いつお帰りになるかと……」
まるで少女のような無邪気さで、ヴィルハルトの帰りを喜ぶ彼女の眦には、涙さえ浮かんでいた。
「レーヴェンザールでは、とても辛い戦いだったと聞いています。良くご無事で……お疲れ様でした」
そう頭を下げた彼女の目が、ふと彼の制服に縫い付けられた階級章へと向けられる。
「もう中尉さんなんて呼べないのですね……あ、すみません。私ったら、こんなところに立たせたまま……」
少し寂しそうに言ってから、彼女はハッとしたようにヴィルハルトを家の中へ向か入れた。
「さあ、どうぞ、中へ」
促され、ヴィルハルトは建物の中へと踏み込んだ。
ここが、王都における彼の住まいであった。
玄関をくぐると、その先は大きな階段のある吹き抜けの空間になっている。
「お部屋はそのままにしてありますから」
ウィンター夫人は言った。それから、ヴィルハルトの抱えている酒瓶を見て、優しく彼を睨んだ。
「またそんなにお酒を買い込んで……待っていてくださいね、何か、簡単なものを用意しますから」
「いや、お気遣いなく」
ヴィルハルトはそう応じたが、返事を聞く前に彼女は奥にある食堂へ引っ込んでいった。
まぁ、良いかとヴィルハルトは階段を上った、二階の廊下はコの字になっていて、右側突き当りの扉が、彼の借りている部屋だった。
手さぐりで燭台の蝋燭へ火を点けると、閑散とした室内が浮かび上がる。部屋の中に置かれている机や椅子は備え付けのものだ。ヴィルハルトは部屋の中に進むと、机の上に燭台と抱えてきた酒瓶の束を置いた。
ふと気になって、奥の寝室へと続く扉を覗き込む。居間もそうだったが、二年ぶりに帰ったにも関わらず、室内は清潔に保たれていた。恐らく、ウィンター夫人が定期的に掃除してくれていたのだろう。
椅子を引きながら、酒瓶を一つ掴んだヴィルハルトはそのまま口を付けた。強い酒精が空っぽの胃を燃え上がらせて、キリキリと痛んだ。構わず、二口目を飲み干す。
倒れ込むような勢いでどっかりと椅子に尻をついたところで、小さく扉が叩かれる音が聞こえた。
どうぞ、と早くも酔いの回り始めた声でヴィルハルトが応答すると、部屋に入ってきたのはやはりウィンター夫人だった。
「やっぱり」
彼女はヴィルハルトの手に握られている酒瓶を見てわずかに顔を顰めると、手にしてきた盆を彼の前に置いた。そこには炙った腸詰と塩漬けの豚肉に、輪切りにされたライ麦の洋餅、それから葉野菜が少し添えられていた。
「なにも食べずに、お酒だけでは身体に毒ですよ」
言って、ウィンター夫人はもう一脚ある椅子を引くと、ヴィルハルトの対面に座る。
「あの」
口を開きかけた彼へ、ウィンター夫人は指を突きつけた。
「見張りです。見ていないと、何も食べないでお酒ばかり飲むから」
そう言った彼女の言葉は、軍務が休みになるたびにこうして大量の酒を買い込んできては深酒をするというヴィルハルトの悪癖を知っているが故だった。
「……お気遣いは嬉しいですが」
厄介な哨兵だなと思いつつ、ヴィルハルトはウィンター夫人の顔から目をそらしつつ言った。
「子供ではないのですから。それに、見張られていては落ち着いて飲めない」
「それでしたら、なにかお話をしましょう」
拗ねているような彼に、ウィンター夫人はそう笑った。
「誰かと話しながらの方が、お酒も美味しいですよ」
リサ・ウィンター夫人のこうした世話焼きは、何も今に始まったことではなかった。
自分のようなものにも親切にしてくれる彼女に対し、感謝することはやぶさかではないのだが、ヴィルハルトには時折その世話好きも行き過ぎなのではと思うことが多々あった。
特に、今日のような夜は。
酒に酔った男と二人きりになる、というだけでもどうかと思うが、ヴィルハルトは戦地から戻って間もないのだ。若くして夫を流行り病で失ったとはいえ、その程度の事が分からぬほど純真でもあるまいに。
無論、だからどうすると言うわけでもないのだが。
ヴィルハルトは、自分のそうした思考をかき消すように再び酒を呷った。
そもそもここは彼にとって、将校は営外居住が基本とされているためにやむなく借りた物件だった。軍務の合間に仮眠をとるために帰ってくる他は、こうして誰の目も気にせずに酔えるという以外、何の意味もないはずの場所。
そのはずだったのだが。
ヴィルハルトは心底困ったような顔で、仕方なくウィンター夫人の持ってきた料理に手を付けた。彼が全て食べ終わるまで、彼女は部屋を出て行かなかった。
ようやく一人になったヴィルハルトが、忘我の内に硬い寝台へ倒れ込んだのは、そろそろ日も昇ろうかという時刻であった。
しばらく、更新が不定期になります。
ご容赦ください。