密会 1
ヴィルハルト・シュルツが軍状報告を終えた、その日の深夜。王宮二階、軍務省に充てられた一室で、二人の男が背の低い机を挟んで向かい合っていた。
「やってくれたな、まったく」
その内の一人、アーバンス・ディックホルスト大将は、革張りの詰め椅子に深々と腰を沈めながら、疲れを吐き出すように言った。彼はヴィルハルトが王宮を去った後に行われた、女王と軍上層部を交えての話し合いからようやく解放されたばかりであった。
「まさか、陛下の前で王都を戦場に、などと言いだすとは」
ぼやくように言うディックホルストの表情は、呆れが半分、楽しさ半分といったところだ。
「噂に違わぬ、肝の据わった男であるようですね」
彼の対面には、高級な仕立ての制服に身を包んだ、若い大佐の姿があった。
「しかし、理はあるようにも思えます」
若い大佐は品の良い面立ちを無表情に染めて、報告書をまとめるような声音で言った。
「だから問題なのだ」
ディックホルストは渋面を作ると唸った。
「確かに、理にはかなっている。結局のところ、我が軍は何処まで行っても〈帝国〉軍に数で負けている。戦場を限定し、そこに戦力を集中させるというのは戦略として間違っていない。問題は、その為の囮に王都を使うということ。あとはまぁ、あれだ。それをやる度胸のある者が誰もおらん」
そこまで言うと、彼は両足を投げ出すようにして椅子へもたれ掛かった。ちょうど、従兵が淹れたての珈琲をもってやってきた。ディックホルストは礼を言ってそれを受け取ると、有難そうに口を付けた。
「……それで、彼をどうなさるおつもりですか?」
従兵を退室させた大佐が、ようやく一息つけた様子の老大将に尋ねた。
「奴には新部隊を任せることにした」
湯気の立つ碗の中身を、一口で半分近く飲み干した彼は答えた。
「女王陛下は奴に連隊を任せたいとお考えだったようだが、難しい」
「グライフェン軍務大臣か、ローゼンバイン大将あたりが認めませんでしたか」
ディックホルストは頷いた。残っていた珈琲を全て飲みこみ、空になった碗を机の上に戻すと改めて、目の前の若い大佐に向き直る。
「そこで、貴官の知恵を借りたいのだが。軍務省人事局長、ルシウス・フォン・ブラウシュタイン卿」
老大将からそう呼ばれた若き侯爵は、形の良い眉を迷惑そうに顰めてから、困ったように笑った。
やはり、そういう話かと思っている。
彼は先日、亡き父親であるレーヴェンザール侯爵、ユリウス・アイゼナハ・フォン・ブラウシュタインから当主の座を継いだばかりであった。
「女王陛下が彼に連隊を与えたいとお考えならば、勅令を出されれば良いのでは?」
若きブラウシュタイン侯爵は、何かから逃れるようにそう口にした。
「駄目だ」
しかし、ディックホルストは首を真横に振ってその案を切り捨てた。
「とにかく面倒な男なのだ」
彼は愚痴るようにそう前置きをすると言った。
「本当ならば、今すぐにでも大佐にしてやりたい。それだけの武功は上げている。だが、まず生まれが邪魔をする。もちろん、それだけではないが。奴は嫌われ過ぎている。特に貴族の連中からは、恨まれていると言ってもいいほどに。中佐に昇進させるだけでもあちこちから難癖が付いたというのに、今日もまた敵を増やすような真似をして……何を考えているのか分からん。生き残りたくないのか」
「閣下とシュルツ中佐とでは、生き残るの意味が違うのでしょう」
やれやれと溜息を吐きながら言ったディックホルストに、ブラウシュタインは他人事のように応じた。
「ともかく」
ディックホルストはそれに取り合わなかった。
「そうした理由で、陛下に奴を昇進させる勅命を出していただくわけにはいかんのだ。陛下の治世は未だ短く、軍部に対して我儘を通せるほどの影響力もない。確かに、陛下の勅命があれば奴を大佐なり、連隊長なりと好き勝手に昇進させることはできるが」
そこで言葉を切った彼に、ブラウシュタインは頷いた。
女王は軍の統帥権を握っている。しかし、軍の実権を握っているのは未だに貴族たちなのだ。今、この時期にヴィルハルト・シュルツを勅命によって昇進させてしまえば、彼らが色よく思わないのは火を見るよりも明らかだった。
「今日の軍状報告でも、軍上層部の反対を押し切ってまで奴を呼び出したのだ。そのせいで、特にローゼンバインあたりは反感を募らせているだろう。先のことを考えれば、今の段階でこれ以上、陛下と軍部の溝を広げるべきではない」
そう断言したディックホルストに、ブラウシュタインもまた同意するように頷いた。
そして同時に、なるほどなと思っている。今夜、この〈王国〉軍の宿将とも呼ぶべき人物がわざわざ、自分を呼び出した理由について納得したからだった。
つまり、これは政治の話なのだと彼は思った。
いや、軍事もまた政治の一方面であることを考えるのならば、軍で行われるあらゆることもまた政治の延長ということになるのだが。
その軍は今、ヴィルハルト・シュルツという一中佐の扱いを巡って二つに割れている。
そしてこの二派は同時に、これまでの〈王国〉政界において対立してきた二つの派閥にそのまま置きかえることができるのだ。即ち、従来通り貴族の権威を絶対のものと考える貴族派と、民衆の権利拡大を推し進めようとする前国王から続く民衆派の二つに。
この対立が、宮廷内の話であればそれほど問題はなかった。しかし、今は戦時中なのだ。
祖国の存亡をかけた戦争の最中に、君主と軍部が対立などということになればろくなことにはならない。
だから自分に白羽の矢が立った。
ヴィルハルト・シュルツに関する人事について、表立って口を出すことができない女王の代わりに。
ブラウシュタインはディックホルストの腹の内を読むように、そう結論した。自らの首に値札をつけるような気分だった。
彼の軍人事局長という便利な役職に加えて、侯爵家当主という肩書きは公爵家の存在しない〈王国〉において最上級の爵位にあたる。家督を継いでから日が浅いとはいえ、父の代から付き合いのあった大貴族や国家の重臣は数多い。多少の無茶も押し通せるだけの後ろ盾が、今の彼にはあるのだった。
もう一つ、誰にとってかは分からないが都合の良いことに、今、この国の民の間ではレーヴェンザール侯爵という名には特別な意味がある。
旧王都を巡る戦いで名を挙げたのは、ヴィルハルト・シュルツ一人ではないというわけだ。
彼の父、ユリウス・アイゼナハ・フォン・ブラウシュタインが最期に行ったという演説を知らぬ者は今の〈王国〉にいない。軍の新兵募集所や、義勇兵たちの集会場には“レーヴェンザール侯爵に続け”という標語まで掲げられている始末だった。
その父の下で戦った英雄と、息子である自分。なるほど、抱き合わせて売るにはこれ以上ない二人だろう。
遅くなりました。続きは来週。