レーヴェンザール臨時守備隊 解散式 3
ユンカース一家のようなやり取りが無数に交わされてるのを、ヴィルハルトは無い瞳で見回していた。気付けば、先ほどまで隣にいたヴェルナーの姿もない。
彼にも帰るべき場所があったということだろうか。そんなことを思い浮かべたヴィルハルトは、すぐに頭を振って想像を打ち消した。彼の肌の下にある、人としての何かがそれを考えることを許さないのだった。
再び視線を戻した先で、ヴィルハルトは見知った顔を見つけた。エルヴィン・ライカ中尉の両親だった。彼の実家は王都でも中堅の商会を営んでいるだけあって、両親はそれなりに仕立ての良い服に身を包んでおり、周囲から少し浮いている。
ユンカースと同じく、母親は息子に駆け寄るなり、その胸に顔を埋めていた。夫のほうはというと、母に泣きつかれて困った顔をしている息子とは簡単なやり取りをしただけで、彼の生還を喜ぶのは妻に任せて、ヴィルハルトへ近づいてきた。
「立派になられたな、シュルツ君」
エルヴィンの父親は親しげな態度でヴィルハルトへ呼びかけた。彼は息子からの紹介で、士官学校時代からヴィルハルトのことを知っている。
「ご無沙汰しております」
エルヴィンの父親が差し出した手を掴みつつ、ヴィルハルトは丁寧に応じた。教会で育っただけあって、彼の礼儀作法は完成されたものだった。
「最後に会ったのは、任官間もない少尉だったというのに。今や中佐か。おめでとう」
エルヴィンの父親は、ヴィルハルトの軍服の肩に縫い付けられている真新しい中佐の階級章を眩しそうに見つめながら言った。
「ありがとうございます」
「辛い戦だったと聞いている」
「はい。そうですね」
手を離し、少し声を落として言った彼に、ヴィルハルトは正直に頷いた。
「これだけしか、連れて帰れませんでした」
「ああ。それは――」
営庭を見回しながら言ったヴィルハルトに、エルヴィンの父親は言葉に詰まったようだった。どう答えたら良いものか。そう逡巡する顔つきになった彼は、視界に妻と息子の姿を見つけた。何かを誤魔化すような咳払いの後で、ことさらに明るい声を出す。
「とにかく。君は私の息子を連れ帰ってくれた。私たちにとっては、それで十分だ。ありがとう。妻の分までお礼を言わせてくれ」
彼もまた、レーヴェンザールの戦況については聞いていた。それなりの教育を受け、そして兵役を経験した彼には、それがどれほど絶望的な状況であるのかも理解できていた。だからこそ、その言葉はまったくの本心だった。
「それはご子息の実力と幸運の賜物です」
しかし、ヴィルハルトはまるで他人事のような口調で答えた。
「シュルツ君」
エルヴィンの父親は咎めるような顔を彼へ向けた。
「謙遜するのは構わないが、せめて感謝だけは受け入れてくれないか。これは私だけでなく、この場にいる全員がそう思っているのだ」
彼は再会を果たした兵士とその家族や恋人たちの集う営庭を示しつつ言った。
「君は確かに、それだけのことをしたのだ」
ヴィルハルトはしばらく同じものを眺めていたが、やがて嘆息するように答えた。
「分かりました」
何かを飲み込んだような声だった。
「確かに。彼らをもう一度、ここへ連れて帰れたことだけが、自分がレーヴェンザールで掲げた唯一の戦果と言えるでしょう」
その返答に、エルヴィンの父親は頷いた。踵を合わせ、背筋を伸ばす。若い時分に叩き込まれた、敬礼の動作だった。
右手をこめかみへと当てた彼へ、ヴィルハルトは恥じ入るような態度で答礼をした。
彼は家族の下へと戻っていった。
無論、全ての帰還者がそのような幸福を得られたわけではない。いや、むしろ、そうでなかった者の方が多いのかもしれない。
エルヴィンの父親とのやり取りが終わったヴィルハルトは、営庭の隅に途方に暮れたような顔で突っ立っている兵の一人が気になった。
「どうかしたのかね」
その彼に、ヴィルハルトは努めて親しげな様子で近づいた。
「あ、司令……」
自分に声を掛けたのが誰なのかを知って、背筋を伸ばしかけた兵を遮ってヴィルハルトは尋ねた。
「迎えはないのか?」
「そのようです」
兵は捨てられた猫のように、寂しげな笑みを浮かべながら答えた。その瞳に、ヴィルハルトは嫌な予感を覚えた。忘れていた記憶が、一挙に呼び戻されるような感覚。
「君のご実家は?」
内心の予感を確かめるように、彼は何気なさを装いつつ訊いた。半ば、確信していた答えが返ってくる。
「東部です」
ヴィルハルトの頬がわずかに強張った。世界中から音が失われたようだった。
「司令」
兵は途方に暮れたままの表情で、ヴィルハルトへ訊き返した。
「自分は、何処へ帰れば良いのでしょうか?」
十七年前に、自分も浮かべていたのであろうその表情に、ヴィルハルトは耐えきれなくなって兵から目を背けた。
「他に、君と同じような境遇の者はいるか?」
考えるよりも先に、彼の口からはそんな言葉が出ていた。
「ええ、たぶん」
兵は少し自信なさそうに答えた。ヴィルハルトは眉間を揉んだ。
どうするべきかを考える。いや、結論はすでに出ていた。ただ、己の願望、彼が自身の義務であると信じるもの、を果たすためには何が必要なのか。それを考える時間が必要だった。
やがて、彼は口を開いた。
「……王都の三番街に、“碧い水晶亭”という宿がある。特上とまではいかないが、悪くはない店だ。とりあえず、今夜はそこに泊まれ。気に入ったのならば、何泊しても構わない。店の者には話を通しておくから、君と同じような境遇の者がいれば誘うこと。ああ、それと、宿泊中は好きに飲み食いしてよろしい」
一呼吸も置かずに、ヴィルハルトはそう言い切った。
「司令」
兵は楽園への道を見つけ出した求道者のような表情で彼を見た。
ヴィルハルトはその視線から逃れるように顔を背けると、早く行けと手振りで示した。兵は駆け足で去っていった。言われた通り、同じような境遇に置かれている者、帰るべき家や場所を失った者を探しに行ったようだった。
営庭は静かになりつつあった。兵が去った後、ヴィルハルトは一人、紙巻を吹かしていた。
紫煙の向こう側から覗く瞳には、何かを探しているような光がある。
そこへ、軍務省からやってきたという役人が近づいてきた。
女王が軍状報告を、彼の口から直接聞くことを望んでいるとのことだった。
ヴィルハルトは面倒そうに顔を顰めたが、女王からの勅命ともなれば拒否する術はない。仕方なく、彼は役人が乗り付けてきた馬車に同乗して王宮へと向かった。
途中、三番街で碧い水晶亭に寄ることは忘れなかった。
出迎えたのは恰幅の良い女将だった。ヴィルハルトが今夜、自分の兵を泊めてやって欲しい、ただし、何名来るのかは分からないと告げると、彼女は四の五も言わずに快諾してくれた。ヴィルハルトは去り際に、兵からは絶対に金をとらないようにと釘を刺した。
馬車へと戻ったヴィルハルトの顔は、下水の底に溜まった澱を飲み干してきたかのように歪んでいた。
いいかげん、自分の偽善者気取りが我慢ならなくなってきていた。
続きは来週、月曜!