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「シュルツ少佐!!」
混乱に満ちた戦場の喧噪を裂き、自分を呼ぶ声がヴィルハルトの耳に届いた。
その声の持ち主とは、たった半刻にも満たない時間、わずかな言葉のやり取りを交わしただけであるが、鋼の剣先のように鋭く、透き通るような、それでいてどこまでも甘美なその響きを聞き間違えるはずがない。
高鳴る鼓動が命じるままに、ヴィルハルトは顔を上げた。
彼の進む先、その右手側には白い天幕群があった。
そして、リゼアベート・ルヴィンスカヤは、そこに立っていた。
朝日の下で見る彼女は、薄暗い夜の天幕の中で見るよりも、遥かに鮮烈だった。
豊かにうねる金髪を風に揺らしながら、彼女のその美貌がはっきりと自分を見据えている。
ヴィルハルトの視線が彼女を捉えると同時に、その周囲に居た将校たちが慌てたようにリゼアの周りを取り囲んだ。いづれも、それなりに階級の高い者たちばかりだ。
中には銃を構えている者もいたが、手にしているのは小銃ではなく、短銃であった。
なるほど。
ヴィルハルトは胸の内でほくそ笑んだ。
道理で。天幕がやけに多いと思ったら。
彼女は、司令部を前進させていたらしい。それも、前線からこれほど近くの場所へ。
俺達が降伏すると疑いもしなかったのか、仮に反撃されたとしても危険はないというよほどの自信があったのか。
なにはともあれ。あの姫君は自分と同じか、それ以上に大胆不敵な気性であるらしい。
そう思うと、なんとなく嬉しくなった。
口元をにやけさせながら、ヴィルハルトは次第に近づくリゼアへ向け大声を出した。
「申し訳ありません、姫君! 先日のお話に対する、これが返答ということで!」
そして、すれ違いざまに彼はリゼアへ流すような仕草の敬礼を行ってみせた。
「なんてこと……」
ほんの数十歩横を通り過ぎていった敵指揮官の背中を目で追いながら、リゼアは呆れたようにぽつりと呟いた。
いや、実際に呆れていた。
一体、何をするつもりかと思っていれば、まさかこんな手を使って逃げ出そうとするとは考えもしていなかったからだった。
でもまぁ、有効ではあるかも。
リゼアは内心で反省しつつ思った。
今、〈帝国〉軍は混乱の極致にあると言っても良い。
反撃する余力も残っていないはずの敵が突然、突撃を敢行したのだから当然と言えば当然だ。
しかも、その先には前進したばかりの総司令部がある。
これは私の失敗だなと素直に思った。
勝利が確定したことを全軍へ知らしめ、士気をあげるための行動だったがかえって裏目に出てしまった。
加えて、要塞戦では活躍の場がない騎兵たちを街の南北へ、警戒のために振り分けてしまったことも大きい。彼らが居れば、あの程度の突撃、わけもなく粉砕できたはずなのに。
それにしても。
リゼアは次々と目の前を走り抜けてゆく〈王国〉軍将兵たちを憤然とした面持ちで眺めた。
彼らはみな、リゼアたちに見向きもせず、ただ一心不乱に自分たちの指揮官の背を追ってゆく。
確かに握りしめたと思った勝利が、指の隙間から零れ落ちてゆく。リゼアベート・ルヴィンスカヤは、生れて始めて経験するその感覚に怒るべきか悲しむべきか、判断が付かなかった。
そこへ彼女を庇うように腕を広げて立っていた次席参謀が声を掛けた。
「閣下、これ以上、危険な真似は辞めていただきたい」
無論、彼が言ったのはヴィルハルト・シュルツへ呼びかけたことだった。次席参謀の声には、戦場で司令官が自らの居場所を敵へ教えるとは何事かという、叱るような響きがあった。
リゼアが司令部を前進させると言った時も、彼は最後まで反対していたのだから、他にも言いたいことはあるのだろう。
しかし、リゼアはその言葉に、逆に噛みつくように言い返した。
「危険?」
腕を伸ばし、目の前を駆け抜けてゆく敵兵を指し示しながら彼女は言った。
「あの敵の、どこに危険があるというの? 彼らはただ逃げ去るだけで、戦おうともしていない。何故か分かる? もはや、抵抗は無駄だと悟ったからよ。これ以上、戦っても何も望めない。だからこそ、逃げる。なんという潔さ。またしても」
リゼアはそこで下唇を噛み締めた。隠しようのない悔しさが滲む彼女の声に、次席参謀はいくらか語調を和らげると言った。
「しかし、それも無駄です。すぐに騎兵たちが追いつくでしょう。大半は逃げ延びることもできないはずです」
慰めるような次席参謀の言葉に、リゼアは納得しがたいといった顔で頷いた。
言葉遣いを男性のものに切り替える。
「森へ入られたら、深追いは無用だ。あの男はつい先日、たったの一個大隊で我が軍を掻きまわしてみせた。下手に手出しすれば、むしろ手痛い反撃に遭うだろう」
命じた後、リゼアはほっと両肩から力を抜いた。
ちょうどその時、総司令部のすぐ脇を騎兵たちが風のように駆け抜けていった。
次席参謀の言葉通り、大半の敵は逃げきれないだろう。それほどに無茶で、無謀な脱出行だ。
しかし、あの男だけは捕えきれぬだろうなという確信がリゼアにはあった。
「これでは勝ったとは言えぬな」
「何をおっしゃいますか」
溜息を吐くように呟かれた言葉に応じたのは次席参謀だった。
「紛れもなく、閣下の勝利でございます」
「勝ったのは戦いに、だけだ」
リゼアは突っぱねるようにそう答えると、参謀たちの輪から抜けだした。敵の去っていった方向へ顔を巡らせる。
「さようなら、シュルツ少佐。またいずれ、対陣の機会にまみえたのなら、その時こそ」
彼女がそう呟いたのと同時に、まるで誰かの背を押すように西から一陣の風が吹き抜けた。
その日の午後。〈帝国〉軍は〈王国〉旧王都、城塞都市レーヴェンザールを占領した。
旧王城から突き出した最も高い尖塔の先に紅い〈帝国〉旗がひるがえった時、熾烈な戦闘を制した〈帝国〉軍将兵たちは万雷の如き歓呼をあげ、街を揺らした。
彼らは気付かなかっただろう。
その旗には、小さな弾痕が穿たれている。
最期まで街に残った、たった二人の老人の手によるものだった。
皇帝の威光を満天下に知らしめるべく掲げられたそれはむしろ、いまだこの国は〈帝国〉に屈していないことを主張するかのように強く、風にはためいた。
第三幕、閉幕です。
みなさまには長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
身勝手なことではありますが、平行して連載中のお話にも手を付けたいので、次回「第四幕 王都」まで、今しばらくお待ちください。