138
厳めしい顔を怒りで歪ませて、〈帝国〉西方領軍大佐ワシリー・スヴォーロフはヴィルハルト・シュルツへと切りかかった。
突然の乱入者からの攻撃を、ヴィルハルトは軍剣で受け止める。
そして、すぐにそのことを後悔した。
敵の一撃を受け止めきれないと悟ったからだった。
硬い金属同士がぶつかり合う音とともに、ヴィルハルトは身体ごと弾き飛ばされた。たたらを踏み、転倒する。
剣を握る手は衝撃に痺れていた。
「司令!!」
カレンの叫びが聞こえた。ヴィルハルトは顔を上げる。
地面に崩れ落ちた彼へ、スヴォーロフは手にした軍剣の切っ先を突きつけていた。
「貴様がヴィルハルト・シュルツか」
静かだが、怒りと憎しみに満ちた声だった。
「部下の仇だ」
スヴォーロフは軍剣を振り上げた。
ヴィルハルトの顔が嘲笑するように歪んだ。
この男が誰かは知らないが、随分と恨みを買ってしまったらしいと自嘲したのだった。
少し、殺し過ぎたかななどと冗談交じりに思いながら、ヴィルハルトは自らの頭部に迫る敵の刃を見つめていた。
しかし、スヴォーロフの振り下ろした分厚い、両刃造りの刀身が彼の頭を叩き割る瞬間は永遠に来なかった。
白銀に輝く刀身が、その一撃を受け止めたからだった。
目の前で打ち合わされた二本の剣を目にしたヴィルハルトが、半ば茫然とした面持ちで首を動かす。
そこにはアレクシア・カロリング大尉が、手にした長剣と同じ色の銀髪を朝日に煌かせながら立っていた。
「カロリング大尉……?」
ヴィルハルトは疑うような声を出した。
「行ってください、司令」
彼女はそれに答えることなく、そう言った。組み合ったままの剣を素早く引いて、刃先を滑らせるようにスヴォーロフの軍剣を逸らせると、盾になるようにヴィルハルトの前に立った。
その顔には苦渋が浮かんでいる。
しかし、彼女はヴィルハルトを助けるより他になかった。
もしも、いま彼を失えば。自分たちはともかく、導き手を失った兵たちは烏合の衆になってしまう。
それだけは避けなければならない。
それにこの男の〈帝国〉流撃剣術はよほどのものだ。銃が使えるならいざ知らず、白兵せざるを得ないこの状況でまともに打ち合えるのは自分だけのように思えたのだった。
ヴィルハルトはわずかに逡巡した。そこへ、いつの間にか追いついてきたケスラーが声を掛けた。
「司令!」
彼の差し出した手を半ば無意識のうちに握ったヴィルハルトを、ケスラーは強引に立ち上がらせる。
「急いでください!」
ケスラーが後ろから追ってくる〈帝国〉兵の一団を指さしながら言った。ヴィルハルトは唇を噛み締めると、アレクシアへ言った
「すまない。助かった」
アレクシアは答えなかった。その背中は、早く行けと告げている。
彼は再び駆けだした。
ヴィルハルトが倒れ込んでいる間、戸惑ったように足を止めていた兵たちが一斉にそれに続く。
「待て!!」
スヴォーロフが怒声をあげた。ヴィルハルトを追おうとする彼の前に、アレクシアは静かに立ちはだかった。
「貴様ぁ……」
スヴォーロフは憎々しげな目で彼女を睨みつけた。
だが。アレクシアの立ち振る舞いから、無視できるほどの使い手ではないと悟ったのか、軍剣を彼女へ向けて構えなおす。
応じるように、アレクシアは長剣の切っ先を地面に向けて構えた。
再び、スヴォーロフが撃剣を振るう。
振り下ろされた一撃を、アレクシアはどこまでも軽やかな剣閃で迎え撃った。
発煙弾の打ち上げと同時に始まった、敵の反撃。それが総司令部を目指したものだと気付いた、〈帝国〉軍の各隊は大混乱に陥っていた。
よもや、総司令部が襲われ、“辺境征伐姫”リゼアベート・ルヴィンスカヤが討ち取られはしまいかという恐れが、その混乱に拍車を掛けていた。
それほどまでに、〈帝国〉軍将兵にとってリゼアベート・ルヴィンスカヤという存在は神格化されたものだったと言える。
あらゆる部隊が我先にと司令部の救援に向かおうとしている中で、レーヴェンザール北門周辺の包囲と、北に布陣する〈王国〉東部方面軍主力への警戒に当たっていた親征第一軍司令官、マゴメダリ・ダーシュコワ中将だけは冷静さを失っていなかった。
彼は司令部が強襲されているという報せに対して、すぐさま直轄の騎兵連隊を司令部へ向かわせた以外、残りの部隊にはこれまでどおり、任務を遂行するように命じた。
あれほどまでに粘り強い帝呼応を見せた敵が、今さら司令部を強襲して玉砕する、などという選択をするとは思えないからだった。
何かある。何か、必ず彼らの行動の裏には。
「なんだあれは!!」
そう考えていたダーシュコワの耳に、兵の叫ぶような声が届いた。
「閣下! 大河の方をご覧ください!」
彼に付いていた従兵も声をあげる。言われるがまま、ダーシュコワは敵城塞都市の西側を流れる大河へと目を向けた。
そして、自分の考えが正しかったことを知った。
城塞都市の西側、恐らくは河川港が整備されているのだろうそこから、数十隻の小舟が大河の中央へ向かって漕ぎ出していた。
従兵が差し出した望遠筒をさっと覗き込んだダーシュコワは、その小舟に乗っている者たちが民間人か、或いは負傷した兵ばかりだと気付いた。
「そうか。そのためか」
ダーシュコワは我知らず、呟きを漏らしていた。
敵の狙いはこれだったのだ。恐らく、街に取り残されていたのであろう民間人を脱出させるために、彼らは自らを囮にしたのだ。
「大したものだ」
なんと見事な男たちだろうと、ダーシュコワは胸の中で敵を称賛した。
しかし、あの小さな船では大河の対岸に付くまで保つのだろうかという疑問が浮かんだ。そこへ拡大された市民の一人が大きく前方へ手を振っているのが見えた。
ダーシュコワは市民が手を振っている先へ視線をずらした。
そこには敵軍の船舶部隊らしき小型の高速船と、数隻の帆船が大河の中ほどに浮かんでいるのが見えた。
なるほど。そのための備えも万端だったということか。
もはや、大したものだと感心するより他にない。
「撃ちますか?」
望遠筒から目を離したダーシュコワの横で、同じものを見ていた砲兵隊指揮官が尋ねた。
確かに、いまならばまだ砲の射程内だ。もっとも、敵の船舶部隊は射程ぎりぎりの距離を取っているから、撃ったとしても当たるのはあの民間人が乗った船だけだろう。
「諸君、我らがはるばる遠征してきたのは、戦えぬ民間人や負傷した敵を虐殺するためか?」
微笑みを浮かべたダーシュコワは砲兵隊指揮官に尋ねた。彼は狼狽したように、いや、それはと言葉を濁した。
「そうだ。我々は、名誉ある敵と戦い、それに打ち勝つためにこそ、ここへ来たのだ」
彼は言った。
まさしく、叩き上げで中将にまで上り詰めた騎兵将校としての言葉であった。
「後は、言わずとも分かるな?」
「はっ」
砲兵隊指揮官は背筋を伸ばすと、畏敬の念も新たにダーシュコワへ敬礼を送った。
昨日更新できなかったため、明日もやります。