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空を覆っていた灰色の雲はすっかり東の彼方へと去り、〈帝国〉領と〈王国〉領を隔てるドライゼ山脈の切り立った岩山の隙間から、払暁の明りが世界に滲みだしている。
山吹色に縁どられた山々が影のように屹立している光景を見上げながら、ヴィルハルトはレーヴェンザール東門正面陣地跡に立っていた。
〈帝国〉軍の砲撃によって散々に荒らされた大地には、叩き潰された野砲や千切れた制服の切れ端などに混じり、人体の一部が散乱している。恐らく、多くの遺体が未だ埋まったままだろう。
打ち崩された城壁の向こうへ目を向ければ、その先の草原には回収されていない〈帝国〉兵たちの遺体がごろごろと転がっている。
それを見たヴィルハルトの胸の内に、どす黒い感情が湧きあがった。暴風となって吹き荒れるその感情をどうにか抑え込んだ彼は、やがてゆっくりと振り返った。
そこには三千名にまで目減りした、レーヴェンザール臨時守備隊の将兵たちが整列している。
追い込まれ、追い詰められ、極限まで戦い抜いた男たち。誰も彼もが疲れ果てているにも関わらず、彼らの目には今もなお戦意の光が宿っている。
それは扱いを間違えれば、瞬く間に狂気へと転じてしまうような危険な感情だった。
彼らの間を、晩夏の爽やかな朝の風が吹き抜けた。風と共に、彼らの想い一切を受け止めて、ヴィルハルトは頬を緩めた。
間もなく、作戦開始の狼煙が上がる。
彼は腰に吊った軍剣の柄に手を置き、大きく深呼吸をした。
表情を引き締め、彼らに背を向ける。
自殺行為のような作戦、死以外の何物も待っていないような戦場へと兵を突き進ませるためにも、彼は先頭を征かねばならなかった。
旧王城、レーヴェンザール市庁舎から伸びる尖塔の一つ。その最上階にレーヴェンザール侯爵、ユリウス・アイゼナハ・フォン・ブラウシュタインは居た。
軍を退役して以来、一度も袖を通してこなかった軍服に身を包んだ彼の左胸には、大将の階級を示す階級章が朝日を浴びて燦然と輝いている。
傍らには常に彼へ付き従う年老いた従者が控えていた。
彼らは古ぼけた臼砲の前に立っていた。仰角を真上にとったそれを見つめながら、ブラウシュタインはやれやれと言った調子で口を開いた。
「まさか、今生最後の仕事がこんなみすぼらしい臼砲を使って発煙弾を打ち上げることだとは」
そう言った彼の横で、従者がそっと告げる。
「閣下。間もなく夜明けでございます」
「分かっておる」
言いつつ、彼は砲の脇に置かれていた発煙弾へ目をやった。すでに発射の準備は整っており、あとは砲弾から伸びている導火線に火を点けて、砲口から滑り落とせば良いだけだった。
ブラウシュタインは懐から葉巻を取り出して咥えると、燐寸を擦った。香り高い紫煙を吹かしながら、彼はふと思い出したように従者へ声を掛けた。
「おい、ところで」
「はい」
従者はそれに恭しく応じた。背後に置いてあった盆を持ち上げる。そこには水晶碗と、葡萄酒の瓶が乗っていた。
「最後の一本でございます」
老従者の言葉に、ブラウシュタインは満足そうに頷いた。
「よぅし。ようやく飲み切ったな。これを残して冥土へは行けんからな」
それは彼が生涯をかけて集めた葡萄酒の、最後の一瓶であった。
大陸の東西を問わず、彼が搔き集めた葡萄酒の数は計り知れない。毎日飲んだとしても、そう、ちょうど一月半は掛かってしまうほどの量だった。
ブラウシュタインが水晶碗を取り上げると、従者は瓶を持って盆を置いた。主人の持った碗に葡萄酒をなみなみと注いでゆく。
芳醇な香りが朝の風に吹かれて広がった。
ブラウシュタインはその香りを楽しみながら、老従者に告げた。
「世話になったな、アルブレヒト。もう行って良いぞ」
お前も逃げろと言ったつもりだったのだが、彼の従者は穏やかな笑みを浮かべると首を振った。
「それだけはご容赦を。我が家は代々、閣下の家に仕えて参りました。ここで主を捨てて生き延びたとなれば、あの世で先祖たちに顔向けができません」
「王都にいる、わしの息子のところへでも行けばよかろうに」
ブラウシュタインは試すような声でそう言った。老従者はますます笑みを深めると、貴人に長年仕えた者にしかできない、洗練された動作で腰を折った。
「私の主は貴方だけですよ、ユリウス様」
その返答にブラウシュタインは頷くと、水晶碗を彼へ差し出した。
「そうか。ならば、最期に一杯付き合わんか。長年の友としてな」
老従者は驚いた顔になった。ブラウシュタインに仕えて早四十年と少し。彼から臣下として扱われても、友人として接せられたことなど一度もなかったからだった。
だが、それも一瞬のこと。彼は満面に笑みを湛えると、ブラウシュタインの差し出した碗を受け取った。豊かな芳香の紅い液体に一口、口を付ける。
「ああ、旨いですな。これは」
そして満足そうな吐息とともに、そう言った。ブラウシュタインは彼の言葉に当然だと頷いた。
「俺が集めた中でも、最上級の一本だからな」
そう言ったところで、東の方から山吹色の陽光がさっと世界に満ちた。
「おっと、時間だな」
ブラウシュタインは咥えていた葉巻の先で発煙弾の導火線に火を点けた。じりじりと火の点いたそれを、臼砲の方向に滑り落とす。
点火するまでの数寸。彼は朝焼けの空を仰いだ。
「夜明けとは美しいものだ」
呟いてから、ブラウシュタインは目を閉じた。
さて。これからこの国はどうなるのだろうかという思いが一瞬、頭をよぎる。
〈帝国〉軍に攻め入られておきながら、どうなるも何もないような気がするが。
前国王の掲げた、平民の権利を拡大する政策は今や止めようもなく広がっている。遠からず、この国における貴族制は崩壊するだろう。
それが分かっていながらも、ブラウシュタインは領主がいて、領民がいるという古い考えを捨てきれない男だった。
そんな自分の下から、前王の理想に賛同した息子は飛び出していった。
彼には分からない。
自分たちが正しいのか。或いは息子たちが正しいのか。
いや、歴史の正誤など、その時の時代で見極めることなど出来はしないと分かってはいるが。
だが、まぁ、免れようのない貴族の没落をこの目にすることなく、古き良き貴族の伝統の体現者として、この世を退場できるのはある意味で幸せなのかもしれないと思った。
後は、次代に任せるとするか。
重荷を下ろすように彼がそう思ったところで、軽臼砲が乾いた破裂音をあげた。
ブラウシュタインが瞼を開けると、緑色の尾を引く発煙弾が朝焼けの空に昇っていった。
最後まで、二日に1度更新とする。
続きは二日後!