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「閣下、どうなされたのでしょう」
ブラウシュタインの入室とともに、直立不動の体勢を取った司令部一同を代表してヴィルハルトが口を開いた。
ブラウシュタインは司令部の面々を見渡した後で、値踏みをするような顔をヴィルハルトへと向けた。
「敵の司令官と会ってきたそうではないか、少佐」
どうやら、酒は抜けているらしいその声には探るような響きがあった。
「はい。降伏を勧められました」
何をしに来たのだろうかと思いつつも、ヴィルハルトはそれに答えた。
ブラウシュタインは服装も変わっていた。先ほど会った時に着ていた、ゆったりとした部屋着から、正式な場へ出向くための漆黒の礼服に着替えている。
ヴィルハルトの返答に、ブラウシュタインは眉間に刻んでいる疑いの皺をますます深くした。
「本当にそれだけか?」
まるで何かを見通すように、彼は尋ねた。
「明後日の朝までに武装解除していれば、命は取らぬそうです」
ヴィルハルトは努めて冷静な口調で質問に答えた。
「で、どうする?」
「計画の一部を変更します」
ふんと鼻を鳴らしたブラウシュタインへ、ヴィルハルトはしれっとした表情で言った。
「作戦開始を明日の夜明けではなく、明後日に」
淡々とした声で応じるヴィルハルトを、ブラウシュタインはじっと睨みつけていたが、やがてよろしいと頷いた。
「市庁舎前に市民どもを集めろ」
彼はヴィルハルトへ背中を見せながら言った。
「どうなさるのです?」
ヴィルハルトの問いかけに、ブラウシュタインはにやりと笑って答えた。
「何。少しばかり、貴様らの面倒を減らしてやろうと思っただけだ」
星々はおろか、月明かりさえ届かない雨雲からしとしとと水滴が降り注ぐ中、松明の灯されたレーヴェンザール市庁舎の前庭に集められた市民たちの顔には、不安が浮かんでいた。
すでに真夜中も超えた時刻ではあるが、眠気に襲われている者はいない。
昼間、遂に街の中で銃声が響きだしたのだからそれも当然ではあるだろうが。
市民たちは市庁舎前に集合せよと、説明も受けずにここへ集められた彼らが口々に不安を囁き合っている前で、レーヴェンザール市庁舎の大きな両開きの扉が厳かな音を立てて開かれた。
揺らぐ松明の灯りの中に姿を見せたのはレーヴェンザール侯爵、ユリウス・アイゼナハ・フォン・ブラウシュタインである。
「夜更けにご苦労、我が臣民たちよ」
彼の尊大な挨拶に、市民たちの視線が集中する。全員の目が自分に向いていることを確認したブラウシュタインは、やがてゆったりとした深みのある声を出した。
「みなも知っての通り、今日、遂にこのレーヴェンザールの城壁が破られた。〈帝国〉軍は東門と南門を突破し、市街へと侵入したが、守備隊の奮闘によって撃退することには成功した。だが、二つの門を破られた以上、さらなる戦闘継続は困難である」
彼はそこで言葉を切ると、しばし市民たちの反応を窺った。
当然のような不安と動揺。これからどうするのかと、誰もが目で問いかけてくる。
無言の疑問に答えるように、彼は再び口を開いた。
「よって、俺は一つの決断を下した。街を放棄するというな」
その一言に、一層ざわめきが大きくなった。
しかし、街の放棄を決定したのが守備隊ならばまだしも、レーヴェンザール侯爵であるブラウシュタインが決断したと言われては、誰も表立って異論を口に出すことはできない。
「放棄って……閣下、でも、今さらどこに逃げる場所があるのでしょうか」
誰かがそう、ブラウシュタインへ問いかけた。彼はそれに大きく頷くと答えた。
「守備隊司令であるヴィルハルト・シュルツ少佐は、かねてから脱出の手段を整えていた。明後日の日の出とともに、守備隊が用意した船に諸君らを乗せ、大河へと逃がす。その後はひたすら対岸を目指せ。シュルツ少佐からの要望を受けて待機している船舶部隊が、君らを安全な場所へ連れて行ってくれるだろう」
ざわめきが止んだ。
夜の闇の中には、静かな人の息遣いと雨粒の弾ける音だけが響いている。
「それって」
そこへ、市民の一人が声を出した。少女のような声だった。
松明の灯りへ亜麻色の髪を帯布で纏めた、勝気そうな目つきをした少女が進み出た。
「守備隊はどうするのですか?」
少女、ラウラ・テニエスはブラウシュタインへ対しても臆する様子もなく尋ねた。
その質問にブラウシュタインは皮肉そうな笑みを口元に浮かべると応じた。
「守備隊は、諸君らの脱出を手助けするために囮となる」
「囮って……」
そんな、とラウラが悲痛な声をあげた。
「彼らは、敵の目を諸君から逸らすために敵司令部へ向けて突撃を敢行する。生きて戻れるものは少ないだろうな」
ブラウシュタインの残酷な一言に、ラウラは助けを求めるような視線を辺りへ向けた。
「ぞ、増援は間に合わないのですか……?」
彼女のすぐ近くにいた女性が声を出した。
ブラウシュタインはそれに、蹴飛ばすような口調で応じた。
「増援などない」
それに、市民たちが一斉に抗議の声をあげる。
「そんな! ここは旧王都ですよ!?」
「軍は街を見捨てたんですか……?」
溜め込まれてきた疑問が一斉に噴き出したのを、ブラウシュタインは尊大な態度で聞き返した。
「ではどうする。ここで〈帝国〉軍相手に、女子供も仲良く討ち死にするか」
誰も答えない。
そうだろうなとブラウシュタインは思った。
彼らはここに至って、ようやく現実を理解したのだろう。
一月半も前にこうなることが決まっていた、この現実を。
いや。そもそも、二十万もの〈帝国〉軍相手に一月も持ちこたえたのが奇跡なのだ。
これ以上、何を望むことがあろうか。
現実と理想は常に乖離している。
両者の間には、大海の底よりも深い隔たりがあるのだ。
だが、だからと言って常に現実のみを優先すれば良いわけでもない。
理想も抱くことのできぬ人生に、何の価値があるだろうか。
沈黙し、俯いた市民たちへブラウシュタインはゆっくりとした口調で語りかけた。
「俺は、諸君にただ逃げろと言っているのではない。逃げ延びるのではなく、生き延びろと言っておるのだ。まずは生き延び、そして耐えろ」
静かに始まった彼の言葉は、やがて燃え挙げるような激情を帯びてゆく。
「我らの先祖はかつて、国を追われ、山へと追い込まれた哀れな敗残兵たちであった。国祖ホーエンツェルンが戦いを始め、遂に独立を勝ち取るまでの間、我が先祖たちは長く苦しい忍耐の時を生きてきた。であるならば、今、この時もまた同様である! 先祖たちが味わったものと同じ苦難に立ち向かい、耐え忍ぶのだ! そのために、今は生きよ! 生きて、いつの日か必ずや、この街を、旧王都、我らの故郷を奪還するのだ! 〈王国〉臣民たちよ!!」
叫ぶように、叩きつけるように、彼の口から発せられた言葉は、その場にいた者たち全員の胸を打った。
後に“レーヴェンザール侯爵、最後の演説”として知られるようになるこの演説は、街の生き残りたちによって語り広められた。
それは、或いは〈王国〉の国民全員に、この戦争を戦い抜くための決意を植え付けたのだった。
彼からの激励といっても良い言葉を胸にした市民たちが、燃え上がるような瞳でブラウシュタインを見た。彼もまた、それに同じ炎の灯る瞳で応じると頷いた。