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レーヴェンザール侯爵の下から戻ったヴィルハルトは酷く消耗した様子であった。
「それで、司令?」
その様子に誰もが声を掛けあぐねている中で、ユンカース中尉が口を開いた。
「投降ですか?」
唐突に発せられた彼の質問に、一同がぎょっとした顔になる。だが、自らの席に着いて机の上で手を組んでいたヴィルハルトは薄い笑みを浮かべると、首を横に振った。
「違う」
「では、どうなさるのですか」
ヴィルハルトに珈琲の入った碗を差し出しながら、カレンが縋るような声で尋ねた。それに、彼はこの世におけるすべての未練を断ち切ったような表情で答えた。
「街を放棄する」
それを聞いた者たちの顔に一瞬、絶望が過ぎった。
掃討戦の指揮を一段落付けて司令部へと戻っていたエミール・ギュンター大尉が、忘れ物を探すような目を窓の外へ向けていた。
ヴィルハルトは言葉を続けた。
「ブラウシュタイン閣下のお言葉によると、緑色発煙弾を打ち上げると対岸にいる船舶部隊が我々の支援を開始するらしい」
「どういうことですか?」
要領を得ぬという声でケスラーが訊いた。ヴィルハルトは女王からの命令書を彼に差し出すと、ブラウシュタインと交わした会話の内容をかいつまんで話した。
話し終えた頃には、誰もが呆れるべきか、感動するべきかを悩む顔つきに変わっていた。
「お話は分かりましたが……しかし、どうやって市民を逃がすのです」
一同を代表するように再び質問を口にしたケスラーには答えず、ヴィルハルトはエルヴィンに顔を向けた。
「兵站担当士官、船の用意は?」
そう訊かれたエルヴィンは、手元にあった帳簿をさっと捲ると応じた。
「はい、えー、元々レーヴェンザールに残っていたものと、木造家屋を解体して出た木材を利用して作った船が全部で五十二隻あります。小さいうえ、突貫で作成したものばかりですが、無理やり押し込めば三百名ほどは乗せられるかと」
それにヴィルハルトは頷くと、ケスラーに振り向いた。
「その船に市民と負傷者を乗せ、大河へと逃がす。夜明けと同時に緑色発煙弾を打ち上げれば、あとは船舶部隊がやってくれる。対岸まで逃げきれれば敵は手が出せない」
「〈帝国〉軍が見逃すでしょうか」
尋ねたのはアレクシアだった。カレンを襲った〈帝国〉兵の一件以来、彼女の態度は以前よりもより冷たいものになっている。
「その為に我々がいる」
そんな彼女の態度も気にする風もなく、ヴィルハルトはあっさりと言った。
「つまり……どういうことでしょう?」
怪訝そうに眉を寄せたカレンが訊いた。アレクシアとは反対に、彼女は妙な信頼を自分に寄せているのがヴィルハルトには不思議だった。
彼はカレンの言葉に、顔を上げて司令部の面々を見た。何人かはヴィルハルトの言わんとすることに感づいたようだった。
ユンカースは舌なめずりするような笑みを口元に浮かべ、エルヴィンはあーあという顔をしていた。
それにヴィルハルトは、場違いなほど朗らかな笑みを浮かべて言った。
「我々は、市民と負傷者を無事脱出させるために囮となって敵の目を引きつける。夜明けとともに打ち上げた緑色発煙弾を合図に、東門から出戦。敵司令部へ向けて突撃をしかける」
その一言に、司令部から音が消えた。
誰もが唖然というよりも、愕然という表現が正しい顔をヴィルハルトへ向けている。
「……正気ですか」
付き合いの長いエルヴィンですら、予想外であったらしい。彼は乾いた声でヴィルハルトへと尋ねた。
「何をもって正気と呼ぶのかによるな」
それに、むしろ慈悲深い笑みを浮かべながら彼は頷いた。
「だが、まぁより正しく言えば、敵司令部に突撃をしかける“ふり”をする。要は敵に司令部が危ないと思い込ませて、混乱させればよい。我々はこの隙を突いて攻囲を突破、レーヴェンザールの東に広がる森へと逃げ込む」
「……東門からドライゼ山脈の麓に広がる森までは、たっぷり二リーグはありますが」
冗談を咎めるような声でギュンターが言った。それに、ヴィルハルトは枯れ木のような態度で応じた。
「まさに死ぬ気で走るしかないな」
言った後、改めてギュンターに顔を向ける。そこには、奇妙なほどに誠実な表情が浮かんでいた。
「いや、分かっている。分かっているのだ。これが高邁な理想にかこつけた、自殺行為だということは」
彼は背中の後ろで手を組むと、司令室の中を歩き回り始めた。
「だが、それが分かっていながら、我々はやらねばならない。何故か。我々は軍人だからだ。この戒衣に初めて袖を通した時、我々は誓ったはずだ。国主陛下への忠誠とともに、祖国の平和と安寧、そして国民を守るため一身を捧げると」
ヴィルハルトは、司令室に取り付けられた大きな窓を背に立ち止まった。背後には、雨の降り注ぐ夜のレーヴェンザールが広がっている。
「であるならば、もはやここまでとなった今。我々には自己の全てを引き換えにしても、市民たちの生命と安全を優先せねばならない義務と責任がある」
それは恐ろしいほどの確信に満ちた声だった。
実際、ヴィルハルトは心の底からそうであると思っていた。
いや、そうでなければならないと思い込んでいるのかもしれない。
でなければ、自分は果たしていったい、何のために助けられたのか。
この世の全てを呪うような目で、ヴィルハルトは司令部にいる者たちを見渡していた。
その視線に、誰もが言葉を飲んでいる。
人殺しの才能に溢れた大量殺人者でありながら、同時に最も敬虔な聖職者でも口にしないような、崇高な理想を口にした上官へ、どう応じたものかと彼らは顔を見合わせた。
それに区切りをつけたのはユンカースだった。
「やれやれ。弓折れ矢尽きるまで戦ったというのに、まだ一矢報いるつもりですか」
彼は古い歌の一節を紡ぐようにそう言った後で、肩を竦めた。
「で、具体的な指示は?」
ユンカースの一言に、エルヴィンが降参したように虚空へ目を泳がせた。ケスラーやギュンターはあからさまな諦観を浮かべながらも、命令に備えて姿勢を正した。
ヴィルハルトは薄い微笑みを口の端に浮かべると、彼らへ指示を与えていった。
「失礼します」
それぞれに役割を命じたところで司令室の扉が開き、ヴェルナーが顔を出した。
「どうした」
ヴィルハルトは尋ねた。彼は何やら、酷く戸惑った表情を浮かべていた。
「ええ、その……」
ヴェルナーは何と言ったらいいものかと逡巡した後、答えた。
「〈帝国〉軍から、軍使が参られています」
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