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セーフ?
日暮れとともに〈帝国〉軍は、市街から兵を退かせ始めた。
しかし、市街地へと入り込んだ〈帝国〉軍の撤退、或いは守備隊によるその掃討戦は雨と暗闇に阻まれて難航し、戦いが完全に収束したのは、月が分厚い雲に覆われた空の頂点へ差し掛かろうとする頃であった。
その日、守備隊は辛うじて市街へと侵攻した〈帝国〉軍を撃退した。
だが、そのことに喜ぶ者は一人もいない。
今夜、守備隊が〈帝国〉軍を撃退することができたのは雨の夜に、不案内な街中で戦闘を継続することを敵指揮官が嫌ったからに他ならず、つまりは幸運以外の何物でもないのだと理解しているからだった。
夜も深まりつつある中、掃討戦の陣頭指揮をエミール・ギュンター大尉に任せ、ヴィルハルトは司令部へと戻った。
司令部は静まり返っていた。雨が窓を打つ音ばかりが、やけに大きく響いている。
司令席に着いた彼は暫し、全てを放り投げたような顔をしたまま、無言で雨の降りしきる窓の外へ目を向けた。
正直、疲労が大きすぎて脳が現実の問題について考えることを放棄している。
部屋にいる他の者たちも似たり寄ったりの状態だった。
壁側に用意された副官席には、カレン・スピラ中尉がぐったりと座り込んでいる。動かないところを見るとどうやら眠っているらしい。
一日中、司令室に詰めていた副司令のケスラーは憔悴しきった面持ちで、街の戦況図に目をやっていた。図に書き込まれている戦況はもはや絶望を通り越している。
その横ではエルヴィン・ライカ中尉が大急ぎで今日の被害を取りまとめていた。別動隊を指揮している最中に負傷したのか、時折顔を顰めながら右肩をさすっている。
東門正面陣地から撤退してきたエルンスト・ユンカース中尉は、全身を投げ出すように椅子にもたれ掛かり、明日の天気を占うような表情で窓の外を眺めている。
彼らの様子にヴィルハルトは、まさに満身創痍だな、などと下らないことを思い浮かべた。
「手荒く不味いです、司令」
あれこれと書きなぐっていた帳簿を睨みつけながら、エルヴィンがそう口を開いた。
「やはりと言うか、なんと言うか。予備隊の損害が大きいです。白兵せざるを得ない状況では仕方なかったのかもしれませんが、半数も残っていません」
彼はちらりと予備隊の指揮を執っていたアレクシア・カロリング大尉に目をやった。流石の彼女も、今はその中性的な美貌に疲労を色濃く浮かべて座っている。
ヴィルハルトは無言で頷いた。
脳裏に、あの老人の顔が過ぎる。
オラフ・クレーマンの遺体はあの場に遺してきた。申し訳ないとは思わない。
ヴィルハルトには、戦場に転がる遺体の全てを弔うことなどできないから。
代わりに、とある決意が彼の胸の内で固まっている。
「守備隊に残っている兵力は五千名ほど。負傷者含めてです」
エルヴィンの報告は続いていた。
「砲もほとんどが雨に濡れてしまったので、雨が上がったとしてもすぐに使えるのは十門もありません。ま、それは敵も同じでしょうが。気象士官の話では、この雨は明日いっぱい降り続く見通しだそうです」
それを聞いても慰めにはならない。審判の日が一日延びただけという話だった。
「有体に申し上げて、我が守備隊は継戦能力をほぼ喪失しました」
エルヴィンは、報告をそう締めくくった。隣にいたケスラーが、彼のあまりにも明け透けな言い様に顔を顰めた。しかし、反論は口にしない。彼の言葉は事実であるからだった。
「それから」
付け加えるように、エルヴィンが口を開いた。なにやら、酷く言い辛そうに顔を顰めている。
「戦闘中に起きたことで一つ、お耳に入れておきたいことが」
「どうした」
ヴィルハルトは先を促した。どんなことであれ、これ以上状況が悪くなることはないのだと開き直っている。
「王都との連絡用に残しておいた伝書バトが一羽……」
その報告にヴィルハルトは顔中を渋くした。
暫し考え込み、やがて小さな溜息を漏らすとレーヴェンザール侯爵に会いに行くと言って立ち上がった。
どうにも気は進まなかったが、仕方がない。
どの道、レーヴェンザール侯爵には話さねばならないこともある。
続きは月曜日!