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降り出した雨は戦いに凄惨さを彩った。
互いに火器を使用できなくなった〈王国〉軍と〈帝国〉軍の将兵たちは、自らの手を鮮血に染めて戦い続けたからだった。
ヴィルハルトもまた戦い続けていた。空色を模した軍服を赤く染めているのは、幸いなことにまだ自分のものではない。
新たに市街へと入り込んだ敵の集団へ襲い掛かり、今日、何人目になるのかも分からない敵兵の頭部をこん棒のように握った小銃の銃床で打ち砕く。銃剣は早くに折れてしまっていた。
血と脳漿をまき散らし、雨で濡れた石畳へと新たな色彩を加えながら倒れ伏した〈帝国〉兵の遺体を見下ろしたヴィルハルトは一息つくと辺りを見回しながら、この戦法は正解だったなと思った。
彼は率いている部下の中から、銃が濡れていない数名を屋内に潜ませ、敵が通りかかるたびに銃撃させていた。〈帝国〉軍がそちらへ気を取られている内に背後から強襲、殲滅。敵は市街地での戦闘をよほど警戒しているのか、面白いように引っかかってくれた。
しかし、未だ街中には軍靴の靴音が響き渡っている。〈帝国〉軍は何があっても攻撃を止めるつもりはないようだった。
さてさて。まさに進退窮まったということだ。敵は増え続け、こちらは減り続けている。
防御部隊の後退も遅れが出ている。敵を釘付けにするため、逆にこちらが身動きのとれぬ状況が出来上がりつつあった。
まぁ、おかげでこちらの仕事はやりやすいのだが。彼らが敵の大部分を引き付けてくれているおかげで、遊撃班が相手取るのは捜索に割かれている少数で済んでいる。
だが、ヴィルハルトが率いている部隊も少なからぬ損害を受けていた。このまま夜まで戦い続ければ、果たしてどれほどの死体の山を築くことになるのだろうか。
そして、たとえ今夜を生き延びたとしても。翌朝から行われるだろう再攻撃に耐えるだけの余力は残らない。
そこまで考えたところで、ヴィルハルトは自分に何もかもを押し付けた連中を心の中で嘲った。
さぁ。俺は当初受けた命令通り、可能な限り敵軍を足止めしてみせた。二十万の〈帝国〉軍相手に、たった九千人の寄せ集めで一月半を保たせてみせた。
王都の連中はさぞ、のんびりできたことだろう。今さらになって総動員を掛けだし、もう半月保たせろなどと現実離れした命令を送りつけてくるあたり、寝ぼけているのかもしれない。
そして、街に残った市民たち。
彼らもようやく思い知るだろう。戦場に自ら望んで留まるという愚かさを。
ざまあみろ。
復讐を果たしたように、ヴィルハルトの喉が暗い音を立てたその時だった。
「司令!」
近くにいた兵が警告の声を発した。酷く慌てた様子で腕を伸ばし、なにかを指し示している。
ヴィルハルトはその方向へ顔を向けた。
十名ほどの〈帝国〉猟兵が射列を組んで、射撃準備を完成させているのが見えた。どうやら、建物の下を進んできたらしく、銃は濡れていないようだった。
列の端に立った指揮官らしき人物が号令を叫んだ。十丁の小銃、その暗い単眼がぴたりとヴィルハルトを捉える。
「伏せてください、大隊長!!」
そう叫ぶ部下の声を聞きながら、ヴィルハルトは時間が奇妙に遅く進む世界の中で思った。
――ああ、これは間に合わないな。
悟ったように頷いた彼は、むしろ銃弾を迎え入れるように両手を広げた。その顔には、心の底から嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
ヴィルハルトへ銃を向けている〈帝国〉猟兵たちに一瞬、動揺が走った。敵指揮官が、それを叱りつけるように射撃号令を下した。
重なった銃声。「危ない!!」という誰かの叫び声。突然、力強い腕がヴィルハルトの胸倉を掴んだ。抵抗する間もなく、血と雨で濡れた石畳の上へ引き倒される。転がった彼の周囲を、鉄の弾が音を立てて過ぎ去ってゆく。応じるように、彼の部下たちが怒号とともに敵へ殺到した。悲鳴、絶叫、怒鳴り声。
やがて、雨が地面に弾ける音だけが世界に残った。
ヴィルハルトは伏していた顔を上げた。その顔には長年、想いを寄せていた女性から冷淡な言葉を受け取ったような表情が浮かんでいる。顔に跳ねた血とも水とも分からない液体を軍服の袖で拭い、目を上げた。
彼の前には、禿頭の老人が仁王立ちで立っていた。その足元には、真新しい赤が広がりつつあった。
「ご無事なようで」
身体を起こしたヴィルハルトへ、血塗れの老人は言った。
「貴方は……」
ヴィルハルトは放心したような声で応じた。その老人は、数日前に予備隊へと志願してきた人物だった。
かつて〈王国〉軍で曹長を務めていたという、名前は確か。
「オラフ・クレーマン曹長」
何故ここにいるのかという疑問が浮かび、すぐに飲み込んだ。アレクシア・カロリングが予備隊の一部を防御部隊へ合流させると言っていたことを思い出したからだった。恐らくはその一人なのだろう。
ヴィルハルトに名を呼ばれた老人は、酷く嬉しそうに微笑むと崩れ落ちた。
「何故、自分を」
倒れたクレーマンの身体を引き起こしながら、ヴィルハルトは尋ねた。同時に傷の具合を確認する。ヴィルハルトの眉が、全てを諦めたように歪んだ。
「申し訳ない」
クレーマンが擦れた声を出した。
「もう少し、役に立てると思ったんだが。ここまでのようだ」
「十二分に助かった」
クレーマンの言葉に、ヴィルハルトは素早く応じた。胸の中で喚きたてている声をどうにか仕舞い込む。
それを聞いたクレーマンは乾いた笑いを零すと言った。
「今度は、間に合ったようだ」
「なんのことだろうか」
ヴィルハルトは再び問いかけた。記憶にある限り、この老人とは司令部で短い会話を交わしただけだった。身を挺してまで自分をかばった理由が思いつかない。
そんなヴィルハルトの質問に答えるように、クレーマンは口を開いた。
「自分は十七年前、〈帝国〉軍に襲われた南部へ救援に向かった兵の一人でした」
苦痛に呻いた後、クレーマンは振り絞るように言葉を続けた。
「だが、自分たちが到着したときは、もう、何もかもが終わった後だった」
老人は痛みと後悔で顔を皺だらけにしながら、申し訳ないと言った。ヴィルハルトは黙ってそれに頷いた。
「あの時、俺達は何もできなかった。何もしてやれなかった。なのに、司令は俺達の故郷のためにここまで戦ってくれた。アンタの故郷も、アンタの家族も守れなかった俺達のために」
うわ言のような口調でそこまで言ったクレーマンは、突然、目を見開くと屈みこんでいるヴィルハルトの肩を掴んだ。
そして、はっきりとした声で問う。
「この街はもうだめだな、司令」
確信に満ちたその口調に、ヴィルハルトは頷きを返すことしかできない。クレーマンは頷いた彼を見て、笑みを零した。
「いいんだ。もう、十分だ。アンタはここで死んでいい人間じゃない。どうにかして、生き残ってくれ。頼む」
そう言って、全身から力を抜いた彼はふと、ヴィルハルトへ問いかけた。
「なぁ、司令……タバコ、持ってるか……?」
「ああ」
ヴィルハルトは静かに応じた。
「ちょっと前に、肺を壊してな。医者に止められてたんだが、これじゃあ、今更だろ……?」
クレーマンの言わんとすることを察したヴィルハルトは薄く微笑むと、懐から煙草入れを取り出した。一本を口に咥え、燐寸を擦る。雨のせいで燐寸はしけっていた。何本か無駄にした後で、ようやく火が点いた。
軽く吹かしてから、クレーマンの口に咥えさせてやる。
「すまん……許してくれ……不甲斐ない、俺達を……」
そう言った彼の口から吐き出された、安物の、苦いだけの煙がヴィルハルトの眼球をささくれ立たせた。
降りしきる雨と流された血によって濡れた石畳の上へ、クレーマンの口元から煙草がぽとりと零れ落ちた。
続きは金曜日!