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ローゼンバインがアリシアを通したのは、〈王国〉軍総司令部兼参謀本部の施設として使用されている、正宮二階にある一室であった。この階は執政府の閣僚である軍務大臣の執務室(執政府閣僚の執務室はこの上階、正宮三階にある)を除いた、〈王国〉軍総司令官、軍参謀総長の執務室が併設された、〈王国〉軍の中枢であった。
平時、有事に関わらず、軍隊は如何なる時も決して眠らない。草葉を揺らす夜風すら寝静まった深夜であっても、誰かが必ず軍務に就いている。今も同階のそこかしこから、あれこれとやり取りをする者たちの声が響いていた。
ファルケンハイムはこの状況に深い疑念を抱きつつ、アリシアの半歩後ろを従っていた。
本来ならば総司令部や参謀本部の課員たち、つまり軍人のみが詰めているこの階へと女王を通すことなどあり得ない事であるからだった。確かに、先日の国防会議のように機密性が高い話し合いの場合ならば、最上階にある最高議場へと女王が自ら足を運ぶこともあり得る。だが、それ以外の場合に臣下が女王と直接言葉を交わすのであれば、正宮一階の玉座の間で謁見するのが通例であった。これは〈王国〉がと言うよりも、この時代の大陸世界における君主としての慣習である。
ファルケンハイムの疑念が確信へと変わったのは、ローゼンバインが通した部屋に揃っていた顔触れを見た時であった。
本来ならば、その場にいて然るべき人物が影も形もなかったのである。
ローゼンバインが女王を案内した部屋に居たのは、軍務大臣のエーリッヒ・フォン・グライフェン大将、参謀総長のヨアヒム・フォン・カイテル大将、そして西部方面軍司令官、ルドガー・フォン・バッハシュタイン大将のみだった。確かに、その三人はいずれも〈王国〉軍における最重要の役職に就く者たちである。だが。
「ローゼンバイン大将。エスターライヒ宰相閣下は何処に?」
その美貌を険しく歪めたファルケンハイムがローゼンバインへと尋ねた。彼の磨き上げられた刀身のような鋭さに満ちた声に、ローゼンバインは狂信者が隠し持っていた短刀のような鋭利さのある笑みで答えた。
「さて。今、呼びに行かせておるのだが……なにぶん、このような夜更けだ。宰相殿も支度に時間がかかっておるのかもしれん」
その言葉とともに扉がばたりと閉められる。
「事は重大かつ緊急の案件であったのでな。であるから、女王陛下はわし自身がお呼びに参ったのだが、さて」
とぼけたように言いつつ、扉を覆い隠すように立ったローゼンバインは片手を身体の後ろへと回した。かちゃりと、静かだが確かに、錠の落とされる音が室内に響く。
その瞬間、ファルケンハイムは全てを理解した。
「これは反乱だっ……!」
彼は弾かれたように叫んだ。これが本来の制度や手続きに則って行われた会議ではないことを察したからであった。
そもそも、〈王国〉では執政府の長である宰相を通さずして女王と謁見することや、何事かを直訴、若しくは嘆願することは禁じられている。
執政府とは本来、君主による国家の統治、運営を業務の面から輔弼するための組織であることを考えれば、それは当然のことであろう。
一国を維持するためには、膨大な事柄に対する判断や決定が必要とされる。人間である以上、その何もかもを一人でこなすことなどできない。よって、大陸世界にある諸国では君主より一時的に権限を委譲された者たちが(あくまで一時的に、である。だからこそ、各大臣を初めとした閣僚には任期が存在している)、日々積み上げられていく課題や問題を、定められた制度と委任された権限に則って処理することで君主の国家運営についての負担を軽減している。それが執政府と呼ばれるものであった。
執政府にはそうした、政務や国家の重要事項について君主を補佐する役割と同時に、君主が判断を下すべき事柄について選別する機能もあった。これにより、君主は国の行く末を左右するような重要な事項に集中することができる。その必要性は皇帝を現人神の如く奉じている〈帝国〉でさえ認めている。
特に近頃の〈王国〉では先代から続く平民優遇の政策について、強硬な反対を叫ぶ貴族たちからの嫌がらせに近い直訴や嘆願が乱発されていた。そうした一切を取りまとめ、本当に意味のある事柄のみを抜き取って女王へと伝えることが、宰相であるエスターライヒの職務でもあった。
そのエスターライヒをこの場から除外したということは、つまり一度は却下されたか、そうなることが分かり切っているような議題で女王を呼び立てたのだと言っているようなものであった。
「国家の危急をお救いしようと、日夜不眠で責務を全うしているわしに向かって反乱とは心外ですな」
しかし、ローゼンバインはあくまで白を切るつもりのようだった。反乱だと叫んだファルケンハイムに、驚くような顔一つ見せずに顔を顰めると、慇懃無礼な態度で彼へ言った。
「筆頭騎士殿、貴官は王室付き近衛筆頭騎士として陛下をお守りする名誉はあれど、残念だが国事に口を挟むような権限は無い。暫し、黙っていてはもらえないだろうか」
「ええ、ファルケンハイム。私ならば大丈夫ですから、しばらく控えていなさい」
ローゼンバインへの反論を口にしかけたファルケンハイムを黙らせたのは、アリシアであった。彼女はファルケンハイムに声を出す機会すら与えず、室内をゆっくりと見回すと言った。
「皆さま、夜分遅くまでご苦労様です。お話とは、どのようなものでしょうか?」
そのあまりにも毅然としたアリシアの態度に、ファルケンハイムは己が身の無様さを呪った。自分ばかりが慌てふためいているような気分だった。漠然とした、不安のようなものが胸中に湧きあがる。
何故、彼女はそこまで平然としていられるのだろうか。
幼いころからずっと知っている彼女の中に、自分の知らない何かが、何者かが息づいているという確信。
それが今夜、彼を眠りの楽園から追放したものの正体であった。
続きは月曜日!