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遅れました。申し訳ございません・・・
押しかけてきたリトガーの相手をしているうちに、仕事をする気がなくなったのか。或いは彼をクロイツ商会の本部施設から追い出したかったのか。ただ単に酒が足りなくなったからか。
テオドール・クロイツはリトガーを馴染みの店へと誘っていた。気楽に誘ったと言っても、テオドールがリトガーを案内したのは王都のそこらの通りに軒を連ねている大衆酒場などではなく、個室のあるやや値の張る料亭だった。
彼らのような複雑な立場にある人間は、常に誰かの視線に晒されている。その存在そのものが隠された交易局第三課員であるリトガーはともかくとして(いや、或いはだからこそ事態は余計複雑なのだが)、テオドールがクロイツ商会の跡取り息子であることは決して大衆に隠されたことではない。他人からの余計な憶測を呼ばないための配慮としては当然だった。
無論、他人がどうこう邪推したところで、彼らがお互いの職務上知りえた情報をやり取りする、などと言うことはあり得ない。彼らのような男たちにとり、友情と信用は明確に区別されている。
それは、日も沈みきらぬうちからすっかりできあがった二人の、どうでも良いような馬鹿話が次第に萎み始めた頃合いのことであった。
「いいなぁ」
酩酊し、宴卓に突っ伏していたテオドールが羨むように呟いた。リトガーがその声にふいと顔を上げると、先ほどまでは酔いに冒され、とろりとしていた彼の目に危険な炎が灯りだしていた。
テオドールは突如、身を起こすと握った拳を宙に振り上げ、熱にうかされたように語り始めた。
「20万の〈帝国〉軍。その圧倒的な攻囲の下、四方八方、そこら中どこを見回しても敵だらけ。最高だ。シュルツの奴はきっと今、楽しくてたまらないはずだ」
それを聞いたリトガーはこの店で一番気に入った〈帝国〉産の蒸留酒を一口舐め、にやりとした笑みを浮かべる。
「貴様も大概、奴に毒されたんじゃないのか」
生まれながらの殺人鬼だと揶揄していた人物を羨むとは、と笑った彼に、テオドールは殺意すら感じられる視線を向けた。
「では、貴様はどうなのだ。羨ましくないのか、奴が」
尋ねられたリトガーの笑みが固まった。まだ半分ほどしか空けていない水晶椀を卓の上に置き、思い悩むように頭を抱える。
やがて、ため息とともに声が漏れた。
「羨ましいね」
その一言がきっかけになり、胸の内でのたくっていた感情が洪水のように彼の口から流れ出した。
「羨ましいさ、最高に。今のシュルツが置かれているような立場にまで落ち込むことができれば、畜生。些細な日常のあれこれも、下らない将来について思い悩む必要もなくなる。貴族も、平民も。〈王国〉も〈帝国〉も知ったことじゃない。俺は奴ほど自分の命に無頓着なわけじゃないから、当然恐ろしくて堪らないだろうさ。だが、だがな」
リトガーは先ほど置いた水晶椀を掴むと、一息に残りを呷った。
鼻の先を抜けていく香りをたっぷりと楽しんだ後で、酒臭い息を本心と共に吐き出す。
「そうだ。そうなれれば、もう何もかもに気兼ねしなくて済む。素晴らしい。羨ましい。俺は奴が、畜生」
自分でも馬鹿なことを言っていることは分かっていた。だが、言わずにはいられなかった。息の詰まりそうな日々を生きてきたリトガーにとって、この戦争は一種の救いになることを期待していたのだった。
それは目の前にいるテオドールもまた同様であるのだろう。彼は生まれながらにクロイツ商会という実家の商売を拡大するためだけに育てられてきた。士官学校に入ったのも、その経歴がいずれ何かの役に立つと彼の父親が判断したからだ。
下らない。下らない。人間はみな、下らない柵によって括り付けられて生きている。生まれに、育ちに、友人に、家族に。ああ、何もかもがぶち壊れてしまえ。
「俺はな」
突如、神妙な声が聞こえて顔を上げたリトガーの目に、居住まいを正して座るテオドールの姿が映った。彼はリトガー以上に始末に負えないものを腹の内で煮え繰り返しながら、静かに言った。
「もし、奴が生きてレーヴェンザールから戻ったのならば、現役に復帰しても良いと考えている」
「……驚いたな。二度と、誰かに指図される立場にだけは落ちたくないと言っていただろう」
テオドールの様子に、わずかに冷静さを取り戻したリトガーが聞いた。
「当然だ。今でも嫌だ。二度と、偉そうなだけが取り柄のジジイどもからあれこれと命令を下されるのだけはご免だ」
彼は鼻を鳴らしながら答えた。そして、激情をそのまま変換したような声で続けた。
「だがな、もし、あの状況のレーヴェンザールからシュルツが生きて帰れば。我が国の軍は、いや、我が国そのものが大きく変わる。考えてもみろ。これまで奴のは、その生い立ちから誰しもに疎まれてきた哀れな戦災孤児だった。それが今、奴はこの国の命運を一身に負って、戦っている! あの〈帝国〉軍と! 生きて帰ればどうなる? 平民出身の英雄が誕生するのだ!」
怒りよりもなお激しい感情に取り憑かれたテオドールは大声をあげて立ち上がった。
「いや、そもそも、今貴族などと呼ばれて偉そうにふんぞり返っている連中だって本を正せばただの人から生まれてきたのだ。先祖が成した偉業を己の者だと勘違いしているぼんくらども。そこに、先祖と同等の偉業を成した者が現れればどうなる。結果は目に見えている。能力もなく、家柄だけで重要な地位を任されていた連中など相手にならん。即座に駆逐される。そして権力は移り変わり、新たな支配層が誕生する」
「それでは、これまでの歴史と同じことをただ繰り返しているだけではないか」
大入りの観客を前に名演を見せる役者のような口ぶりで語ったテオドールの言葉にリトガーは疑問をぶつけた。だが、彼はそれに当然のように頷いてみせる。
「人の世の歴史など、そんなものだ。貴様も座学で散々学んだだろう。歴史は繰り返す。若干の修正変更はあれど、基本はさほど変わらない。当然だ。人間が人間である限り、その営みが変わることなどあるまいよ」
言い終えて満足したのか。テオドールはどっかりと椅子に腰を落とし、卓の上に置いてあった瓶を掴むと中に残っていた酒を直接、口をつけて飲み干した。盛大に一息ついた彼へ、リトガーはさらに続きを促すように声をかける。
「で? シュルツが生きて帰ってきたら、貴様は軍に復帰してどうするつもりなんだ」
「なんだ、分からないのか」
白けたような目をリトガーに向けた後で、テオドールは言い放った。
「俺たちが歴史の主役になるのだ。どうやら、今回の主演は嫌が応でも奴らしいが」
「言ってやるなよ。本人が一番嫌がっているだろうさ」
リトガーの合いの手に、テオドールがふんと面白そうに鼻を鳴らした。
「どうだ、俺を見てみろ。今や、貴族どもの既得権益を切り崩しにかかっている大商会の跡取り息子だぞ」
「そして俺は、木っ端役人とはいえこの国の後ろめたい過去をほとんど全てと言っていいほどに知っている」
酔いに任せ、にやりと彼の言葉に乗っかったリトガーへ、テオドールは急に冷えた視線を送った。
「役柄としては申し分ないな。演者が大根だが」
これはそう見せているのだという言葉が、リトガーの喉から出かけた。それよりも先にテオドールが話をまとめるように口を開く。
「どの道だ。総動員が掛かれば嫌でも軍に呼び戻されるのだ。将校は永久服役だからな。ならばせめて、自分から現役復帰を望んだということにでもしておかねば納得ができない。そしてできることならば、俺は誰よりも舞台で目立ちたい」
「なるほどな」
確かに。こいつの性格から考えればそうなるだろうなとリトガーは頷いた。午睡から覚めるような、憂鬱な気分になる。これから始まる、戦争という楽しい日々の中で自分が求められるだろう役割について現実的な思考が追いついてきたからであった。
「だが、残念ながら俺は駄目だ。我が家の家業に染まりすぎている。今さら、表舞台には立てない」
それから、彼は少しだけ考え込んだ。やがて面を上げる。何か決意を固めた様子で、彼は王都から遥か離れた先にいる士官学校同期生へ向けて宣誓した。
「それでも。もしもシュルツが将軍にでもなりおおせ、もしもその先を望んだとしたら、馳せ参じてやっても良い。その時には、俺の薄暗い才能が必要になるはずだからな」
「酔っているのか、貴様」
あまりにも突飛な彼の発言内容に、テオドールが馬鹿にしたように笑った。つられて彼も笑った。
ああ、そうさ。酔っているんだ。俺は。貴様だってそうだろう。
笑いながら、リトガーは目の前の友人に語り掛けた。
そもそも。シュルツが生きて帰ってくる確率など、大海に流した砂粒を再び救い上げるようなものだというのに。なんで俺たちは生きて帰ってきたときの奴のことを心配しているんだ。
彼の人生でも数えるほどしかない愉快な記憶を思い返していたリトガーは、唐突に現実へと戻ってきた。
薄暗い、交易局第三課の課長執務室。目の前には、自らの友人を国家存続のための生贄として使おうとしている父親。
そして自分は、酔いの席で語った戯言を現実のものにしようとしている。
何てことだ。
リトガーは嘆いた。空想とは、そうであるからこそ楽しめるものなのに。
畜生。なぁ、おい、シュルツ。貴様は俺を恨むだろうな。だが、もしかしたら、貴様ならば……。
いや、それは他人に求めるのはあまりにも体のいい期待であった。どの道、どう転んだところでこの国の歴史は大きく変わってしまうのだ。テオドールが言っていたように、いつかの歴史をなぞるように繰り返すことになるのかもしれない。
昨日のような今日。今日のような明日。不満はあれど、疑問を抱くことなどない日々の連なり。なんと素晴らしい毎日だっただろう!
しかし、そのような日々は終わってしまった。そして恐らく、二度と戻ってはこない。
平穏無為に耐えきった者だけが、真実の平和を手にすると知っていたくせに。
いまや、この〈王国〉は最悪の悪夢に落ちたのだ。目覚めるためには、夢を見届けねばならない。ならば、できる限りマシな結末を望んで何が悪いというのか。
恨むなら、幾らでも恨め。英雄になってもらうぞ。
その代わり、絶対に生きて返してやる。
「任務、了解いたしました」
リトガーは自分でも気づかぬうちに右手を額の横へと持ち上げていた。それは現役時代でも見せたことが無いほど、完璧な敬礼であった。ただし、彼の敬意が向いている先は決して目の前の父親にではなかった。
続きは土曜日!!(絶対)