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そう。すべては演技であった。
市民たちからの協力の申し出を頑なに断り続けたのも。それについてカレンが口に上らせる度に不機嫌そうな顔を浮かべて見せたのも。すべては、彼らをこのレーヴェンザール防衛において効果的に利用するための方便に過ぎなかった。
そもそも守備隊にいる人員だけでは、戦闘が始まった瞬間に各部署の対応能力が飽和してしまうことは目に見えていた。ヴィルハルトに指揮権が委ねられているレーヴェンザール臨時守備隊は、規模だけを見るならば〈王国〉軍における増強旅団ほど、九千名という兵力を擁している。しかし、レーヴェザールと言う巨大な城塞都市を守るためには些か以上に心もとない数だった。
レーヴェンザールを要塞として運用する場合、本来ならば最低でも一万二千ないし一万四千、つまりは一個師団に相当する兵力があって初めて、この旧王都の防衛体制は万全を期すのだ。
ヴィルハルトに与えられた兵力では、都市に最低限の防衛線を構築することしかできなかった。だからこそ彼は、城塞都市の生命線ともいえる城壁の破壊阻止を放棄したのだ。そもそも、城壁が建設された当時に想定されていた火力と、現在の戦闘で使用される火力の差は隔絶している。躍起になって城壁の補修を行ったところで、無駄な損害を払うことになる。
守るべきものはあまりにも広大であり、そして敵は輪をかけて強大だった。
では、どうするか。一日でも長くレーヴェンザールを防衛するためには。補給は無い。新たな戦力の補充は望むべくもない。ならば、街にあるものを使うより他にない。何もかも。誰も彼も。たとえ、全てが塵に帰しても。
結局のところ、街に残留した市民たちを如何に活用するかと言うのは、都市防衛を任された当初からヴィルハルトの頭を密かに悩ませていたことの一つだった。
普通に協力を求めればよいのではと言う言葉が出てきそうだが、ヴィルハルトはそれを自身に許せなかった。幼い頃の記憶故ではなく、軍人として守るべき市民を戦争に投入するという事実に、耐えがたい忌避感を覚えたのである。
そして、市民たちを強制的に徴用して指揮下に置くことは〈王国〉軍の軍法で禁じられている。何よりも、強制された労役に対して人間は手を抜くものだ。たとえ高い意欲や高尚な志(例えば、故郷を守るためなどという)があろうとも、そうしたものはやがて摩耗してゆくことをヴィルハルトはよく知っていた。
であるから、彼は幾つかの案から残された最後の一つを採用した。それは恐らく、思いついた中で最も悪辣で、最も卑劣な方法であるだろう。
ヴィルハルト・シュルツは過去の経験から、人間の心理というものについてある意味で非常に精通している。
彼は市民たちに、あくまで自発的に(これが彼のもっとも重要視した部分である)守備隊を支援する行動を起こすように誘導したのだ。そのために街に残った市民たちを邪険に扱い、彼らからの協力の申し出を足蹴にし、街での行動を制限した。市民たちから、わざと恨まれるように振舞ってみせた。
人間を集団として団結させるのにもっとも簡単な方法とは、共通の対象に憎悪を抱かせることである。そして憎悪とは人を突き動かすものの中でも特に深く、強い感情の一つだった。
今、市民たちはヴィルハルトに対し、気に入らぬ隣人宅に向けて箒の穂先を滑らせるような気分で守備隊のあれこれとした雑事に嬉々として取り組んでいるのだろう。
いやはや、なんとも単純な。彼らほど気楽に決断できたなら、生きるというのはどんなに幸福だろうか。
ヴィルハルトは小さく、憐れむような、羨むような吐息を漏らした。
何よりも素晴らしいのは彼らが自らの意思のみで行動を起こしたという点だ。
たとえ俺が何を画策していたとしても、最後に決断したのは彼らだからだ。ならば、その責任は彼ら自身に帰依する。
レーヴェンザール侯爵、ユリウス・アイゼナハ・フォン・ブラウシュタイン卿から直々にお許しの言葉までいただけたのは運がよかった。今更、あの老人に何の権限があるわけでもないが。権威というものは行いを正当化する際に、これ以上なく甘く薫る。
つまり、彼らの行動は決して、断じて、俺の意思とは無関係に行われているのだ。
素晴らしい。いつか、彼らが己の浅はかさを呪う時が来ようとも。この戦場で彼らの悉くが斃れようとも。それは断じて、俺の責任ではない。
そもそも彼らを活用することには驚くほど利点しかないのだ。これで極力、兵を戦闘以外の任務から解放することができる。そして目の前で自らが守るべきもの、戦う理由が呼吸していれば兵たちの士気は自然と上がる。
レーヴェンザールの防衛体制はかくして完成したというわけだ。後は、一日でも長く〈帝国〉軍を相手取って戦うだけ。文字通り、なりふり構わずに。
先ほど、ブラウシュタインが言っていたことを思いだした。
体面のためならば何もかもを犠牲にするのが貴族と言うものだ。
なるほどね。
ヴィルハルトは頬をわずかに痙攣させた。皮肉のように、内心でブラウシュタインの言葉に返答する。
ならば、任務達成のために何もかもを利用するのが軍人と言うものですよ、閣下。
――畜生。
無意識にヴィルハルトは奥歯を噛み締めていた。その顔面は、地底の底で氷漬けになっている魔王ですら浮かべてはいないだろう後悔に染まっている。胸の中では、何かに対する弁明のような言葉が繰り返されている。
畜生。彼らは、自ら望んで戦争に参加したのだ。そのはずだ。そうであるはずだ。確かに望んでいた展開ではあるが、俺が仕向けたわけではない。彼らは自らの意思で街に残り、自らの意思で軍に協力している。たとえその結果、皆殺しになったとしても自業自得であるはずだ。
違うのか。畜生。
子供じみた言い訳であることは、ヴィルハルトにも分かっている。庇護すべき市民を守り切れぬのは、軍の力不足以外の何物でもない。そして、現在レーヴェンザールにおける〈王国〉軍の全権を担っているのは他ならぬ彼であった。責任の所在はこれ以上無いほど明白である。
だが、今の彼にはその欺瞞が必要だった。
〈帝国〉軍による、レーヴェンザール攻城戦が本格化してから二日目。
守備隊の損害は戦死426名、負傷者1012名、行方不明79名を数えていた。すでに彼は、その数字を理解する努力を放棄している。
続きは土曜日。