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東門正面陣地、中央第7砲台の指揮を任されているクリストフ・ラッツ少尉は生来より臆病な男であった。
〈王国〉南部にある農村の長の家に生まれ、三人の姉から甘やかされて育った彼は、大雨が屋根を叩けば飛びあがり、風が戸口を揺らせば泣き喚くような子供だった。情けない息子の根性を叩きなおそうと、父親が無理して入校させた士官学校での三年間はむしろ、その臆病さを助長する手助けをしただけだったかもしれない。
威圧的な教官、猛犬よりも恐ろしく吠える助教たち、高慢な貴族出身の同期生という存在は彼に、常に他人の目に怯えて過ごすよう強制させたからだった。何かにつけて要領の悪い性格も災いし、遂には同じ平民出身の同期にさえ見限られたのだから救いが無かった。
そんな彼が士官学校を無事卒業し、少尉に任官できたことは奇跡に近かっただろう。しかし、任官したからといって安泰を得られたわけではない。どのような人間であれ軍隊という凶器に組み込むための部品として作り変える士官学校でさえ、彼のふっくらとした幼子のような顔立ちと、弱々しい外見を変貌させることはできなかったからだった。
当然、そのような頼りない将校を上官として仰ぎたがる兵など存在しない。そして兵に侮られるような将校を欲しがる部隊もまた皆無であった。彼はどうでも良い配置を散々たらい回しになった挙句、人員不足にあえいでいた東部方面軍直轄の新設実験部隊、第41独立捜索大隊へと半ば塵箱に放り込まれるような扱いで着任した。
ある意味で、それが彼の人生、最大の転機であったかもしれない。そこでは求められる事柄と処理すべき事項が膨大過ぎて、怯えている暇すらないからだった。
しかし、だからといって彼という人間の本質が変化したわけではない。臆病とは病ではなく、先天的な気質であるからだ。故に、この戦争が始まって以来、クリストフ・ラッツは全ての戦場を恐怖とともに臨んできた。
それは今も変わらない。ユンカースから唐突に命じられ、指揮を執ることになった砲台の近くに砲弾が落下するたびに、叫び声をあげて床に蹲りたい衝動に駆られている。絶え間なく響く敵味方の砲声は、彼の精神を刻一刻とすり減らしていた。
それでなお、ラッツの肉体は背筋を伸ばし続けている。その理由が勇気などではないことを彼はよく知っていた。
「装填よぉし!!」
「撃てえ!!」
射撃準備完了を告げた砲員にラッツは間髪入れずに命じた。砲台に配されている4門の平射砲が一斉に轟音をがなり立てる。予想通りの着弾。〈帝国〉兵の紅い人壁に直撃した砲弾が爆発し、バラバラになった人体の欠片をまき散らす。ラッツはその光景に何らかの感慨を抱く暇もなく、すぐさま次弾の装填を命じた。焦ったように命じる彼の声は、押し寄せる〈帝国〉軍の隊列が恐ろしくて堪らないといった様子であった。
だが、恐怖に依然として支配されていながらも、彼の心は敵兵を殺戮することに対して、純粋な悦びを覚えてもいた。臆病な人間は追い詰められた時、異常なほど暴力的になり得る。
これまでの人生で何かといたぶられる側に回ることの多かった彼が生れて始めて獲得した、一方的に敵へ攻撃を加えることのできるこの優位が、彼の中に眠っていた嗜虐性を目覚めさせたのだった。野鼠を岩に叩きつけるような、幼稚な快感ではある。だが、その行為は触れたこともない女体よりもよほど甘美な快楽を彼に教えてくれた。
兵が再び、次弾装填を知らせる大声を上げた。ラッツはすぐに射撃を命じた。今日、何発目になるのかも分からない砲弾を平射砲が吐き出した。爆発。視界の先を埋め尽くす紅い人間の一団、その一部が吹き飛ぶ。兵に休む暇も与えずに、彼は再び装填を命じた。従う部下たちもまた、不平を漏らすことなく命令に従う。
彼らが籠る陣地中央の第7砲台は、レーヴェンザール東門前の堀に架かる石橋を火制下においていた。少しでも砲撃を絶やしてしまえば、敵に陣内への侵入を許してしまうことを彼らは理解していた。
再装填を待つ間、ラッツは見開いた目をぎょろぎょろと動かして敵陣を観察していた。自らがそうであるように、死の恐怖に駆られた人間がどのように行動するか、彼には手に取るように予想できた。
ラッツは時に、射撃の間隔をわざとずらして射撃させた。その間に逃げ出そうとする者や、戦友の亡骸に紛れて難を逃れようとする者を目敏く見つけだし、その敵兵たちを一人残らず殺戮するためだった。
敵からの応射が響いた。至近に着弾。生と死が混濁した瞬間。春暁の夢の中にあるように、この世の何もかもが曖昧になる。掩体の隙間から吹き込んだ爆風で、平射砲の一つが横転した。ラッツは兵に、砲を引き起こすように怒鳴りつけた。身体は恐怖で引きつっているが、心はどうしようもなく暴れ狂っている。
今、彼の中ではヴィルハルト・シュルツが心の中で飼い慣らしている怪物と同じものが胎動を始めていた。
それが彼の背筋を伸ばしているものの正体であった。
この大隊にいる将校はおかしい。
着任当初から感じていた彼らとの違い、その違和感の正体をラッツはようやく理解していた。
開戦直後からまるで動揺を見せず、命のやり取りに慣れている無頼漢よりも当然のような顔をして兵を指揮し、戦わせている彼らの精神が如何なる境地にあるのか、以前のラッツには到底理解が及ばなかった。
アレクシア・カロリング大尉のような騎士の家に生れているのならば、まだ想像の余地はある。彼の凡庸な想像力の限界でもあるが、〈王国〉平民の多くは未だに騎士という存在を神聖視している節があるからだった。
しかし、軍事に関わる者ならば誰もが知っていて当然の、〈帝国〉軍と戦うという絶望以下の状況に陥ってなお、冗談を飛ばし合い、同じような調子で部下に一斉射撃を命じているエルヴィン・ライカ中尉や、後から来たはずなのに自分以上に大隊に馴染んでしまったエルンスト・ユンカース中尉は自分とそう違わない境遇で育ってきたはずだった。無論、人にはそれぞれの人生があると分からないほど無知ではないが、それでも平民の生活というのは未だに大同小異の世である。だというのに、彼らの抱く哲学はラッツの想像の埒外にあった。
今ならば分かった。彼らは全員、戦争といういずれ来るだろう、不定形な未来について本気で考えていたのだ。
彼らがそうなった理由は一つしか考えられない。
あの大隊監督官。いや、大隊長。いまや、この旧王都レーヴェンザールの防衛司令として指揮を執っているヴィルハルト・シュルツ少佐。
――あの人は鬼だ。
臆病であるがゆえに、幼い頃から人の表情の裏にある感情を読み取る術を磨き続けた彼は、ヴィルハルト・シュルツをそのように結論していた。
人を殺すことについて、何も感じていない。いや、むしろ更なる殺戮を望んでいるような、そんな気すらする。死者に祈りを捧げながらも、その行為にはどこまでも打算が見え隠れしていた。人の心を手玉に取り、己の思うがままに操ろうとする神経は怖気がするほどだった。
そしてあの時。地獄こそが己の故郷であると語った時に浮かべていた、穏やかな表情。それに、彼は戦慄していた。まさに地獄の底から地上へと顕現した悪鬼そのものであるように見えたからだった。
それ以来、あの人に睨まれるくらいならば敵の弾に当たって死んだほうが幾億倍もマシだという想いをラッツは抱き続けていた。それは今も変わらない。だが、決して理解できないものとして認識していたヴィルハルト・シュルツという存在と、今、自らの胸の内で暴れ狂う怪物は同じものだった。
クリストフ・ラッツは知らぬうちに、ヴィルハルト・シュルツの狂気に感染していたのだった。そして彼は未だ、そのことに気が付いていない。
さすがに突撃を行っている友軍が近すぎるためか、〈帝国〉軍の砲撃がわずかに緩みだした。それにラッツは嬉々とした悲鳴を上げた。
死の危険がわずかに遠のいたからだけではなかった。
無論、恐怖はある。逃げ出して良いのであれば、今すぐにでも砲台から飛び出して行きたいという気持ちは些かも薄れていない。だが、彼が喜んだのは、敵兵を殺すことがより容易になったことであった。
死への恐怖と殺人の快楽という、相反する感情に危険なほど揺れ動く彼の精神。だが、思考はただ一つのことを呪文のように繰り返している。
もっと。もっと。一人でも多く。
それだけが彼をこの地獄から生還させるかもしれない、ただ一つの残酷な方法だった。
いや、今やその狂気は彼だけのものではない。砲を操る兵も、彼らを叱咤する下士官も、敵でさえも。
砲声轟くレーヴェンザールは今や、狂気の園であった。
続きは土曜日。