第九話 奇妙な病
「私どもの村で、奇妙な病が流行っております」
ある朝、出雲の西に位置する村の長がそう訴えてきた。
毎朝開かれる、王へ対して民達が、要望を陳情する場でのことである。
この場を取り仕切っていた宇志男を失ってからも、ここで上げられた陳情に対しては、いずれも神託をもって返答すると伝えてきた。
とはいえ、その多くの場合は、訴えをのちに大臣達と話し合い、王が最終的に判断した内容を神託として伝えるというものだった。
巫女は霊力を使うと著しく体力を消耗する。
祈りの内容によっては、数日寝込んでしまうこともあるほどなのだ。
そのため、滅多なことでは夕月に祈祷させることはなかった。
ただ、渡来人が多く住むこの国では、彼らの不満を抑え込むため、些細な案件に対しても、表面上、神の判断であると言い聞かせる必要があったのだ。
「奇妙な病?」
眉間を寄せて問い返す覇夜斗に、白髪混じりの髭をたくわえた長は、大きくうなずいて見せた。
「年頃の美しい娘ばかりがかかり、やがては命を落とすという病です」
長の言葉に、謁見の間に居並ぶ大臣や役人達は、一斉にうなり声を上げた。
若い美女ばかりがかかる病と聞いて、皆、不謹慎にもその病に興味を抱いたのだった。
「随分、面食いな病なのだな」
覇夜斗も口元に笑みを浮かべてそう言うと、長は真剣な表情で身を乗り出してきた。
「神の祟りではないかと、村人達は皆怯えています。どうすれば怒りを鎮めることができるのか、媛巫女様に占っていただけないでしょうか」
祟りと聞いて、にわかに室内の者達もそばにいる者同士、互いに青ざめた顔を見合わせた。
この男の言うように、その病が神の怒りの表れであるのなら、怒りを鎮めなければ今後も犠牲者は増えていくであろう。
そうなれば、自分達の妻や娘にも災いが降り掛かるかもしれない。
不安にかられた大臣達は、すがるような目で上座に座る王を見つめた。
祟りであれば、巫女の祈祷により神の怒りを鎮める意外に手立てはない。
覇夜斗も、さすがにこの件は自分達の手に余ると判断し、表情をかためてその場に座り直した。
「わかった。巫女に占ってもらう。しばし待て」
力強く言う王の言葉に、長は安堵の表情を浮かべた。
その日の午後、覇夜斗は神殿を訪れ、今回の病について神託を仰ぐよう、夕月に伝えた。
「わかりました。では明日、さっそく占ってみましょう」
夕月はそう言って、そばに控える審神者の男に、儀式の準備を命じた。
男は一瞬、何かを言いたげな表情で夕月を見上げたが、すぐに気を取り直し、祈祷の間から去って行った。
「それにしても、恐ろしい病ですね」
男の後姿を見送った夕月は、覇夜斗の方へ視線を戻して深いため息をついた。
「それも、若い娘だけがかかるなんて……」
長の話では、この病にかかる娘には共通の特徴があるらしい。
痩せ形で、肌が透けるように白く、黒目がちな大きな瞳をした美しい娘。
そこまで心の中で反復した瞬間、覇夜斗の背中に冷たいものが走った。
良く見れば、目の前にいる夕月は、その条件を全て満たしているのだ。
「お前も気をつけろ」
目を逸らし気味にそう言う覇夜斗を、意味のわからない夕月は、不思議そうに見つめていた。
翌日、覇夜斗も立ち会いの元、祈祷の間で儀式が行われた。
白装束に身を包み、額に白い帯を巻いた夕月は、両手の指を胸元で組み、呪文を唱えながら一心に神に祈りを捧げていた。
祈祷の間の深層部は昼間でも薄暗く、祭壇の左右に置かれた松明の紅い炎が、微かな風に煽られ、闇に揺らめいていた。
祭壇の周囲を取り囲む大臣や役人達の影が、壁にいびつに伸び、炎の動きに合わせてゆらゆらと揺れていた。
誰もが目を閉じて熱心に祈りを捧げている中、覇夜斗だけは目を見開いて夕月の姿を見つめていた。
彼は、彼女に対し、例えようのない違和感を抱いていたのだ。
やがて祭壇を背にして立ち上がった夕月は、手にした榊を大きく左右に振った。
そして再び、その場で手を合わせて神に祈りを捧げた。
しばしの沈黙のあと、少しずつ笛や太鼓の音が室内に響き始め、その音に合わせて夕月は舞い始めた。
彼女の舞う姿を、覇夜斗はこれまで何度も目にしたことがある。
彼はそれを見るたび、異様なほどの霊力に圧倒されてきたのだ。
だがこの日の彼女には、決定的な何かが欠けていた。
『何かが違う』
そう思いながら、覇夜斗は夕月を凝視し続けた。
奏者の奏でる旋律が激しさを増してゆき、それに合わせて舞いも激しくなっていった。
大粒の汗が宙に舞い、松明の炎を受けて光を放った。
白いつま先が床を滑り、彼女が体を回転させるたび、細い腰に長い髪が纏わり付く。
その姿は、いつもと変わらず、神がかり的な美しさをたたえていた。
『まさか……』
胸の中に渦巻く違和感に対し、ある結論を導き出した彼は、思わず室内にいる者達の顔を見回した。
だが、他の者達は何も感じていないようで、神妙な面持ちで目を閉じ、神に祈りを捧げていた。
思い違いかと首を傾げていると、夕月の傍らに座った審神者の顔に目が止まった。
彼は不安気に眉間を寄せて、夕月の舞いをじっと見つめていた。
この男が、昨日もこのような目で彼女を見ていたことを思い出し、覇夜斗は己が導き出した結論に確信を持った。
次の瞬間、舞いと太鼓の音が絶頂を迎え、その直後、夕月の体が祭壇の前に崩れ落ちた。
すかさずそばへ駆け寄った審神者は、彼女の口元に耳を近付けた。
他の者達も皆、神託が下ったものと思い、緊張した面持ちで息を呑んだ。
しばらくして、ゆっくりと立ち上がった審神者は、唇を噛み締めて目をきつく閉じた。
「……今日は、神は何も語って下さらなかったようです」
苦し気にそう口にした審神者の言葉に、一同が一気にざわめいた。
「神が何も語って下さらなかったということは、それほどまでに怒りが大きいということか?」
「これから、さらに恐ろしいことが起こるのではないのか?」
巫女の祈りが聞き入れられなかったのは、神の怒りがあまりに大きいためであると合点した者達は、身を震わせ、不安気に互いの顔を見合わせた。
その夜、再び神殿を訪れた覇夜斗は、祈祷の間で夕月と向かい合っていた。
力のこもった視線で見据える彼に対して、夕月は床に目を逸らし、二人の間にはもう長く沈黙の時間が続いていた。
覇夜斗の命によって人払いされた室内はがらんとし、松明が炎を上げるぱちぱちという音だけが響いていた。
「いつからだ」
しばらくの沈黙を破って、覇夜斗は夕月に問いかけた。
その瞬間、夕月の全身がびくりと震えた。
「いつから、神の声が聞こえない」
続けて発せられた覇夜斗の言葉に、夕月の全身は大きく震え、呼吸も激しくなり始めた。
「今日のことは、神が語らなかったのではない。お前に神の声が聞こえなかったのだ」
昼間、祈りを捧げる彼女から霊力を感じなかった彼は、真相を確かめようとここへ来たのだ。
彼女が力を失ったと他の者が知れば、大きな騒ぎになる。
そのため、人払いして二人きりで話す場を設けたのだ。
夕月は震えを止めようと、自分自身を抱きしめるように両肩を握りしめたが、震えは収まるどころか、一層激しく彼女の体を揺さぶった。
「……宇志男が……亡くなった日から……」
震える声でそう言い、夕月は両手で顔を覆った。
覇夜斗は天井を向いて、目を堅く閉じた。
確信を持っていたとはいえ、どこかで思い過ごしであって欲しいと思っていた疑念は、彼女の口から語られたことで揺るがない事実となってしまったのだ。
実の父である宇志男の死へ対する深い悲しみは、彼女から霊力を奪い去ったらしい。
「なぜ、すぐに言わなかった」
覇夜斗は頭をくしゃくしゃと掻きむしり、少し責めるような口調で言った。
彼女が今日、このような秘密を抱えながら舞っていたのかと思うと、胸が締め付けられるようだった。
「私は……王家の血を引く、唯一の巫女ですから……」
肩を震わせながらそう言う夕月を、覇夜斗はせつな気に見下ろした。
倭国内の他国に比べ、大陸の文化が流入しているこの国においても、いまだ神への信仰は絶対だ。
民は神託であると言えば無条件に納得し、心をひとつにまとめることができる。
そして、神のためであれば結束して、命も惜しまず敵と戦う。
渡来人もそんな倭人の習性を知っているからこそ、神が下した判断には渋々従っているのだ。
時には先日のように命を狙われ、自身の中に流れる血を忌みながらも、巫女であり続ける覚悟を決めていた彼女が、霊力を失った時の絶望はいかほどであったであろう。
「今回の件は、俺が何とかする」
思いがけない言葉を耳にして、夕月は思わず顔を上げた。
「だからお前は、この件が一日も早く収まるよう祈っていてくれ。神の声は聞こえなくても、祈りを捧げる事ならできるだろう」
背後から松明に照らされ、影になった覇夜斗の顔に、目だけが強く光を放っていた。
その顔を見上げ、夕月も袖で涙を拭い、心を決めたように大きくうなずいた。
その後、宮殿に戻った覇夜斗は、内密に夕月の審神者を呼び出した。
これまで何度も祈祷の間で顔を合わせたことはあったが、間近で向かい合ったのはこの時が初めてだった。
「お前は、知っていたな」
王を前にしてひれ伏する男は、びくりとして、一層身を屈めた。
「とりあえず、顔を上げろ」
顔を伏せ続ける男に、覇夜斗は少し苛立ち混じりにそう言った。
命じられ、ようやく上げられた顔を良く見ると、男はまだ十代半ばかと思われる少年だった。
「お前、名は?」
「亜玖利と申します」
白い肌をした華奢な印象の美しい少年は、口元を微かに震わせながら小さな声で答えた。
「改めて聞く。亜玖利、お前は夕月が霊力を失ったことを知っていたな」
覇夜斗は、昨日からの彼の様子を見て、夕月が霊力を失ったことを知っていると踏んでいたのだ。
「……はい」
少年は膝の上で拳を固め、首をうなだれた。
「このような重大な事を、いつまでも隠し仰せると思っていたのか」
少し語気を荒げた覇夜斗に、亜玖利は増々身を小さくした。
「申し訳ありませぬ。夕月様のご希望でしたので……」
今回の件で罰を与えられると思ったのか、少年の全身はがたがたと震え始めた。
そんな様子に、覇夜斗は大きなため息をついた。
「そのことはもうよい。それより、お前に頼みがある」
覇夜斗の意外な言葉に、亜玖利は思わず顔を上げて、目をしばたかせた。
「お前に西の村へゆき、件の病について詳しく調べて来て欲しい」
「……」
「発症している人間の特徴や、村の様子を詳しく。それにより、何か見えてくるかもしれん」
王が語る話の内容に、亜玖利はさらに目を大きく見開いた。
「……しかし、今回の病は神の祟りなのでは……?」
審神者として、多少の医学の心得がある亜玖利から見ても、今回の病の原因は、神の祟り以外に考えられなかった。
口から入った毒物や、人の息を介して染る病であれば、年齢や容姿に関係なく症状が出るはずだ。
それが若い美女ばかりが患うとなると、祟り以外の要因があるとは彼にも思えなかった。
「最終的に祟りであるのなら仕方がない。だが、その前にあらゆる可能性を導き出し、これ以上被害を広げぬための手立てがないかを探りたいのだ」
神の祟りに対し、巫女の占い以外の解決法を探るなど、亜玖利の常識の範疇にはなかった。
だが、神託に頼る事ができなくなった今、夕月の立場とこの国を守るためには、王の成そうとしている事に賭けてみるしかないとも思えた。
亜玖利が戸惑いながらも、自分自身を納得させようとしていることを感じとり、覇夜斗は少し表情を緩めた。
「ここより東の入海(宍道湖)の対岸に、医学に長けた渡来人の集団が住む村があるらしい。私はそこへ行って、大陸に似たような病がないかを確認し、治療法があれば聞き出してこようと思う」
続けて王が語った内容に、再び亜玖利は驚きの表情を見せた。
「王、自らがそのようなところまで赴かれるのですか?」
その時突然、覇夜斗が亜玖利の襟首を掴み、顔を近付けてきた。
垂れた髪の間から覗く鋭い視線に捕えられ、少年は震えながら生唾を呑み込んだ。
「夕月の秘密を知るのは我々だけだ。だからこの件は、我々でなんとかするしかないのだ」
亜玖利に向けられた覇夜斗の視線には、有無を言わさぬ圧力が込められていた。
また王が、この件に関して、他言を許さないと暗に伝えている事も彼は感じとっていた。
蒼い顔をして怯える少年を、王はさらに追いつめるように言った。
「協力してくれるな」
獣のような王の双眸に見据えられ、少年は小さく頷いた。