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第四話 瞼の母

 王との謁見ののち、祈祷の間に戻った夕月ゆづきは、祭壇を見上げて深いため息をついた。

 祭壇に置かれた銅鏡が、松明たいまつの炎を反照し、彼女の顔を赤く染めていた。


 宇志男うしおは、北の国から連れて来たあの男を、腹違いの兄だという。

 確かに、姿形は亡き父に酷似している。

 そこだけ見れば、彼が父の血を引いていることを疑う余地はない。

 だが、父はあのような冷酷な眼差しを、決して人に向けることはなかった。

 いつでも、誰に対しても、慈悲深い優しい目をしていた。


夕月ゆづき夕月ゆづき


 幼い日、彼女をそう言って抱き上げてくれた手のひらは、大きく温かかった。

 夕月ゆづきは亡き父の姿を思い浮かべるべく、そっと目を閉じた。

 瞼を閉じると、赤く染まった世界が炎の動きに合わせて揺らいでいた。

 武術にも優れていた父は、逞しい腕と分厚い胸をしていた。

 聡明で、日々のまつりごとに関わる難しい判断も、鮮やかに下していた。


 そんな頼もしく美しい父の姿を思い浮かべていた彼女は、その背後に遠慮がちに立つ人影に気が付いた。


『母上……』


 父の面影の後ろにそっと控えていたのは、父の妃である彼女の母だった。

 純白の巫女の衣装を身に纏う女の顔に、目を向けてみる。

 だが、いくら目を凝らしても、その顔は朧げではっきりとは見えない。

 母は、夕月ゆづきが幼い頃に亡くなっていた。

 そのため、彼女は母がどのような人であったのか、鮮明な記憶が無いのだ。

 宇志男うしおは、彼の妹でもある母に彼女がよく似ていると言う。

 通常、結婚をすると巫女は霊能力を失い引退するが、母は父と結ばれ、自分を産み落とした後も巫女としてまつりごとを占いで導いていたという。


 夕月ゆづきが七つの時のことだった。

 巫女としての修行を始めていた彼女は、その日も祈祷の間に足を運んだが、戸口で侍女に押しとどめられた。

 慌ただしく動き回る侍女や巫女、役人達の様子に、幼かった彼女にも、ただ事ではない何かが起きたのだと感じられた。

 室内を見せまいと立ちふさがる侍女の体の隙からそっと中を見ると、母がうつ伏せで倒れているのが見えた。

 母が横たわる床の上には、真っ赤な血だまりができ、松明の炎に照らされ、ぬらぬらと光を放っていた。

 その光景だけは、彼女の脳裏に焼き付いて未だに離れない。

 母の死について、誰も真実を語ろうとはしなかったが、いつしか彼女は母が自ら命を絶ったのだと悟った。


『母上、泣いているの?』


 笑顔を浮かべて立つ父の向こうで、顔の見えない母は涙をこぼして泣いていた。

 彼女が思い浮かべる母は、いつも泣いていた。

 そして、母の前に立つ父はいつも優しい。


『こんなに優しくて素敵な父上に守られながら、母上はなぜ泣いているの?』


 母は何も答えない。


『なぜ、自ら命を絶たなくてはならなかったの?』


 やはり、母は答えない。

 ただ、しくしくと泣き続けるだけだ。


『……夕月ゆづき……』


 しばらくして、母らしき女性の声が、直接彼女の心の中に話しかけてきた。


『許されない人を、愛してはいけない……』





 夕月ゆづきは、はっとして目を見開いた。

 一瞬ここはどこなのかと周りを見回す。

 だがそこは、見慣れた祈祷の間の祭壇の前だった。


『……夢?』


 どうやら彼女は、祭壇の前に座ったまま眠っていたらしい。

 松明たいまつの燃え具合から判断しても、それはほんのわずかな時間だったようだ。


 こめかみに手を当てて、今見た夢の情景を思い返してみる。

 これまでも、父や母の夢を見ることはあった。

 だが、母の声を聞いたのは初めてだった。


『許されない人を、愛してはいけない……』


 夢の中で母はそう言っていた。


『私が誰を愛すると言うの?』


 その瞬間、自分にやいばを向けてきた冷酷な男の顔が浮かび、夕月ゆづきはそれを否定するように激しく首を振った。

 そして気持ちを落ち着かせた彼女の心に、ある疑問がよぎった。


『母上は、いったい誰を愛していたというの?』






 覇夜斗はやとは、頬杖をついて面白くなさそうな表情を浮かべていた。

 毎日、彼の朝の仕事は、民からの陳情を聞くことから始まる。

 それは、配下に置く国々からであったり、出雲国内の者からのものであったりするのだが、その場で彼は口を挟むことを、宇志男うしおから遠回しに禁じられていたのだ。

 今朝はまず、前年度不作であったという属国が、ちからの軽減を陳情してきた。

 覇夜斗はやととしては、作物で納められないのなら、兵役で賄えないのかとか、代わりに納められるものはないのかと問いてみたいのだが、そのような交渉事は一切するなと言われていて面白くない。

 それでも、事情が掴めるまで、しばらくは様子を伺うことにしたのだ。


「あいわかった。神託を仰ぐゆえ、しばし待て」


 この場を仕切る宇志男うしおは、どの陳情に対してもそう答える。

 次に西にある筑紫島つくしのしまを治める狗奴国くなこくからの使者が、はがねを譲って欲しいと言ってきた。

 それに対しての宇志男うしおの答えは、また同じものだった。


『高く売りつけてやればよいものを』


 大陸にある大国、呉の援助を受けているらしく、潤沢な資金を持つ狗奴国を目の前にしてさえ、交渉しようとしない宇志男うしおに、覇夜斗はやとは激しい苛立ちを感じていた。


 次に現れたのは、新羅しらぎからの渡来人だった。

 大規模な製鉄所と、そこで働く者たちの住まう村が作りたいというその男にも、宇志男うしおは版を押したように同じ返答をした。


『これでは王の役割はないではないか』


 何でも神に判断を任せるという宇志男うしおに、覇夜斗はやとは怒りを抑えることに苦心していた。

 神に聞くということは、つまりは夕月ゆづきに聞くということに等しい。

 それは王である自分よりも、夕月ゆづきが尊重されていると感じ、尚更面白くなかった。




 民からの陳情が終わり、宮殿の回廊を覇夜斗はやとは、わざと大きな足音を鳴らせて、大股気味に歩いていた。


「今日上げられた陳情の返答を、すべて神に聞くのか?」


 後に続く宇志男うしおに、背を向けたまま、覇夜斗はやとは吐き捨てるように問いかけた。


「いえ。まさか」


 苦笑しながら言う宇志男うしおの意外な答えに、覇夜斗はやとは思わず立ち止まり、振り返った。


夕月ゆづき様に、この程度のことでご負担をお掛けする訳にはいきませぬ」


「は?」


 口と目を丸くする覇夜斗はやとの顔を見て、宇志男うしおは再び苦笑した。


「この国では、神の判断が絶対であると、渡来人達に知らしめるためです」


 宇志男うしおはそう言って、覇夜斗はやとに背を向け、回廊の柵に手を掛けると、森の向こうに広がる出雲の町並みに目を向けた。


「渡来人達の技術や文化は、この国に繁栄をもたらしました。しかしそれは、我が身に毒を取り込み、それによって周囲を威嚇しているようなものです。気を許せば、自らがその毒に侵されかねませぬ」


「……」


「理屈で彼らと交渉することは困難です。遥かに優れた技術や学問を有する彼らには、簡単に論破されてしまうでしょう。ですから、何事も最終判断は神に委ねるとしているのです。この国が、倭人のものであり続けるために」


 そう語る宇志男うしおに、覇夜斗はやとはここへ来た当初、出雲の町を目にして、違和感を持ったことを思いだしていた。

 異国の建物が建ち並び、渡来人が横行する町を見て、彼もここが倭国であって倭国でないような危うさを感じたのだ。


『巫女がいる限り、ここは倭国です』


 あの時言った宇志男うしおの言葉が、覇夜斗はやとの中でにわかに重みを持ち始めていた。

 神の言葉を聞くことができる唯一の存在は巫女だ。

 巫女がいることにより、この国は渡来人の手に渡らぬよう、これまで守られてきたのだろう。


『父と私が、どのような想いでこの国を守ってきたか……。あなたは何も知らないくせに』


 ふと先日、怒りに震えながら唇を噛み締め、そう言った夕月ゆづきの顔が脳裏に浮かんできた。

 彼女はこれまで、己が巫女として存在することで、この国を護ってきたのだろう。

 一身に国を背負う重圧は、いかほどのものであっただろう。

 その唯一の存在であるがゆえに、身の危険を感じたこともあったかもしれない。

 この国の運命を、あの細い体で支えてきたのかと思うと、覇夜斗はやとの中で、同情のような不思議な感情が生まれていた。


「さあ、本日出された陳情について、あなた様の知恵を貸していただきましょう」


 ふいに、覇夜斗はやとの方へ振り返ると、宇志男うしおはそう言って笑顔を見せた。


「表向きは神の言葉であっても、その内容はあなた様の采配で決まります。どうぞ、審議の間へ」


 宇志男うしおの広げられた手に導かれるように、覇夜斗はやとは審議の間に向かって歩き出した。


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