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第二十三話 尊きもの

 気がつくと、夕月ゆづきは月読の体を強く押し返していた。

 皇子の胸に押し付けられた両手は小さく震え、床に向けられた瞳からは涙がはたはたとこぼれ落ちていた。

 

「それが、あなたの正直なお気持ちですね」


 頭上でため息混じりに言う、月読の声が聞こえた。


「あなた方兄妹は、なかなか本心を見せてくださらないところがそっくりです」


 意外な言葉を耳にして顔を上げると、そこにはいつものように優しく微笑む月読がいた。


「先ほどの言葉が、あなたの本心からのものであったなら、これほど嬉しいことはなかったでしょう」


「……」


「けれど、心が別のところにあるあなたを妻にしても、お互い幸せにはなれませぬ」


 月読の言葉から、心を見透かされていることを悟り、夕月ゆづきは思わず彼から目を逸らした。

 彼は自分に想い人がいることに気がついているのだ。

 そしておそらく、その相手が誰かということも。

 だとすれば、心を裏切ったまま身を委ねようとした自分に対し、彼は怒りを抱いているに違いない。

 その身を差し出すことで国と王を守ろうとしたはずが、さらに状況を悪化させてしまったと、彼女は深い絶望を感じて肩を落とした。

 そんな彼女から視線を宙へと滑らせた月読は、青い空を仰ぎ見ながら話を続けた。


「私はこれまで、妻となってくれた女性たちを、私なりにどう愛するべきかとばかり考えてきました。でもあなたにお会いして、愛とは一方的に与えるだけでは意味がないことを知りました」


 突然、月読に両肩を強い力で掴まれ、夕月ゆづきは驚いて顔を上げた。

 そこには、彼女をまっすぐに見つめる真剣な眼差しがあった。

 全身を震わせて瞳を潤ませる彼女に、月読は一瞬悔しそうに唇をきつく噛み締めた。

 

「あなたは、愛する人の妻になるべきだ」

 

 思いもよらなかった彼の言葉と、同時に向けられた力のこもった瞳に、夕月ゆづきは体の自由を奪われた。

 そのまましばらくの時が過ぎ、やがて月読の手が彼女の肩からゆっくりと離れた。

 

「お任せください。明日こそは、兄上の本心を聞き出してみせますよ」


 笑顔とともにそう言い残し、美しい青年は外廊の角へ消えて行った。






 翌日も、邪馬台国の皇子は、早朝から覇夜斗はやとの前に姿を現した。


「まったく、しつこい男だな」


 覇夜斗はやとは面倒臭そうに頬杖をつきながらそう呟き、戸口から近づいてくる男の顔を見上げた。

 相変わらず、己に向けられた態度など気にもとめていない様子で、月読は上座と向き合う位置に腰を下ろすと、正面に座る王をまっすぐ見据えた。

 そんな彼から逃れるように、覇夜斗はやとは微かに視線をずらした。


「河内国へは、鋼を優先的に売ってやる。ただし、要望があれば、たとえそれが狗奴国であっても、鋼や鉄器を売る。こちらも商売なのだ」


 表面上は努めて強気な姿勢を崩さなかったが、覇夜斗はやとの心中は激しく乱れていた。

 昨日、大国の皇子に対して乱暴をはたらいてしまったことを、内心では深く悔いていた。

 今は涼しい顔をしていても、あのような扱いを受け、さすがにこの男も怒りが心頭に達し、今日こそは強硬な態度を示してくるに違いない。

 まずは狗奴国との対戦に向けて兵や武器の調達を要請し、拒めば武力で訴えてくるだろう。

 そうなれば、兵力で劣る出雲は最悪な条件で服従せざるを得なくなる。

 王である自分が一時の感情に突き動かされたがために、出雲とその連合国を邪馬台の属国に成り下がらせてしまう。

 平静を装っていても、これまで経験したことのないほどの激しい後悔と焦りの中に、覇夜斗はやとはいた。

 

「神の声が聞こえない夕月ゆづき殿を、一生巫女のままにさせておくつもりか」


 だが月読は、思いもよらなかった話題から切り出してきた。

 全く想定していなかった展開に、動揺を隠せない覇夜斗はやとに、皇子はさらに詰め寄ってきた。


「そなたも神事を司る者であれば、気付いていたであろう。あの方に神の声が聞こえていないことを。そして、あの方のお気持ちも」


 頭の整理が追いつかず、言葉も出ない覇夜斗はやとの前で、皇子は悲しみと怒りが混在したような、複雑な表情を浮かべていた。 


「あの方を巫女から解放して、夫婦めおとになれ」


 覇夜斗はやとには、月読が言っている意味がわからなかった。

 昨日、彼の口調や表情から、夕月ゆづきへの特別な想いを感じ取った。

 この男が彼女に惹かれていることは間違いない。

 いつか愛する者を奪いに来ると恐れていた男から、投げかけられた意外な言葉に、彼の頭と心は激しく混乱していた。


「そなたが妻にしないのなら、私がもらう」


 心の奥底を突き刺すような鋭い眼差しを差し向け、月読は強い口調でそう言い放った。

 

「……無茶苦茶な皇子様だな」


 やっとの思いでそう口にした覇夜斗はやとだったが、その後も考える時間を稼ぐように、首の後ろを何度も掻きながら目を左右に泳がせた。


「これまでも、神託の聞けないあの方に代わって、そなたが政の判断をしてきたのであろう。朝廷になっても何ら変わらぬ」


 突如、月読の怒鳴るような声が室内に響き渡った。

 驚いて目を向けると、彼の目は充血し、乱れる呼吸に合わせて肩が上下に揺れていた。

 それは、これまで何があっても冷静さを失わなかった男が、初めて見せた感情に任せた姿だった。


 なぜ彼が、夕月ゆづきに神の声が聞こえていないことを知っているのか。

 一瞬そんな疑問が頭をよぎったが、次なる感情がそれを消し去った。

 この男が理想に掲げる朝廷と、自分が今日まで築き上げてきた政とは、似ていて非なるものだ。

 身を削る思いで必死に形作ってきたものを、根拠のない理想と同等に扱われることが何より心外だった。

 信仰と政を切り分け、夕月ゆづきを巫女から解放して妻にできるなら、とっくにしている。

 だが、どれほどそう願い、努力を重ねても、実現させることはできなかったのだ。

 そのことをどうすれば、この男にわからせることができるのか。

 徐々に覇夜斗はやとの言動も、内側からふつふつと湧き上がる苛立ちに支配されつつあった。

 

「まだわからぬか。この国には、どこよりも神聖さが必要なのだ。渡来人が犯すことができぬ領域であると知らしめるような」


 いつしか、覇夜斗はやとの発する言葉もまた、感情に任せた荒々しいものになっていた。

 激昂により息の上がる彼を、月読も膝の上に置いた拳を震わせて凝視していた。

 そうしてそのまま、二人の男は血走った目で互いに睨み合った。



 

 突如、流れを変えるように、月読が目を閉じて大きく息を吸い込んだ。

 そして、それをゆっくりと吐き出した彼は、改めて力のこもった瞳で覇夜斗はやとを見据えた。


「では、狗奴国を落とし、朝廷ができた暁には、この国を倭国の信仰の拠点としよう」


「……?」


 一転して落ち着いた口調で語り始めた皇子を前に、覇夜斗はやとは再び言葉を失った。


「どこよりも巨大な社を作り、出雲の国を八百万やおよろずの神が集まる聖地とするのだ。そなたは、この国の王として、その社を司ればよい。政の拠点が邪馬台、信仰の拠点が出雲。そうして互いに補い合って、倭国を治めぬか」


 月読の語る内容に、覇夜斗はやとは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

 確かに、この国が倭国の信仰の拠点であると知らしめることができれば、巫女の力に頼らなくとも、渡来人たちも下手に手出しはしてこないだろう。

 だが、倭国内に拠点を二つも持てば、決裂して敵対する恐れがある。

 普通に考えれば、邪馬台国に権力を集中させるべきだ。

 にも関わらず、わざわざそのようなことを提案してくる月読の真意がわからなかった。

 出雲の協力を得るための偽言かとも疑ってみたが、澄んだ彼の瞳から不実さは感じられなかった。


「私も邪馬台に、一日も早く、巫女の重責から解放してやりたい少女がいる。彼女のためにも、協力して欲しい」


 突如、月読は地面に両手をつくと、床に額を擦り付けた。

 あまりの出来事に、覇夜斗はやとはたじろぎ、思わず後手に手をついた。

 倭国最大の連合国である邪馬台国の皇子が、第三国の王に頭を下げるなど有り得ない。

 しかも目の前にいるのは、これまで剣を突きつけられても、押し倒されても表情一つ変えず、一歩も譲ろうとしなかった男なのだ。

 そんな彼が、自分に対して最上級の礼をしている。

 その行動が意味することを、にわかには信じられなかった。


 邪馬台に残してきたという巫女とは、彼の姪である現女大王ひめのおおきみのことであろうか。

 噂によれば、彼女はまだ年端もいかない少女だという。

 彼は、前大王まえのおおきみであった姉卑弥呼を国のために亡くし、今また姪である巫女が大国を担う重責を強いられている。

 そのような状況から考えれば、あるいは自分よりも、巫女を政から解放したいという思いは、彼の方が強いのかもしれない。


 様々な思いが錯綜し、言葉の出ない覇夜斗はやとの前で、月読は頭を下げ続けていた。

 彼は自国よりも小国の王である自分へ対し、協力を命じるのではなく、懇願している。

 自分なら、己より下級の者に決して頭を下げたりはしない。

 そんなことをすれば、相手をつけあがらせ、軽視される恐れがあるからだ。

 だが、目の前のこの男は、そんなつまらぬ見栄や恐れなど持ち合わせていないらしい。

 かといって、どれほど額を地面に擦り付けようと、彼のことをさげすむ者は誰もいないだろう。

 何者に対しても恐れを抱くことなく、ありのままの自分を晒してくる彼を前にしていると、かえって卑小な感情に囚われている己の凡庸さを思い知らされる。

 それは同時に、彼が自分達とは違う、特別な存在であるということを認めることでもあった。


(こいつにはかなわない)


 覇夜斗はやとは生まれて初めて、他人に対して心からそう思った。

 神以外の者に、自分が尊敬の念を抱くなど、これまで想像もできなかった。

 そしてこの時、あの牛利ぎゅうりという大男が、彼を崇める気持ちもわかったような気がした。

 月読を君主とする朝廷。

 人並み外れた求心力を持つこの男のもとでなら、巫女の力に頼らなくても、民の心を一つにまとめることができるかもしれない。

 そう思うと、彼が語る新しい国づくりに賭けてみたいという思いが、胸の中で徐々に湧き上がってきた。





「……わかった」


 しばらくして、覇夜斗はやとはため息まじりにそう言った。


きたる日に備えて、兵と武器を用意しておけばよいのだな」


 続けて放たれた覇夜斗はやとの言葉に、月読は弾かれたように頭を持ち上げると、大きな瞳を輝かせた。

 意外なほど無邪気なその顔に、覇夜斗はやとは思わず苦笑した。

 この男のいったい何を、これまで自分は恐れていたのだろう。

 おそらく彼は、初めて出会った時から今と変わらず、ありのままの姿をさらけ出していたはずなのだ。

 それを勝手に疑いを深め、警戒するあまりに見誤っていたのは、自分の方だったのかもしれない。

 今思えば、彼に魅了されて心を取り込まれることを恐れるあまりに、激しく拒絶していたような気がする。



 やがて、その場から立ち上がった覇夜斗はやとは、皇子のそばへ近づき、再び片膝を立てて腰を下ろした。


「そのかわり、天に届くほど高く、太い宮柱の社を建ててくれよ。海から来た渡来人達のまず目に入り、ここは神の国であると知らしめられるように」


 真剣な眼差しを向けてそう言うと、月読は返事をする代わりに歯を見せて笑い、大きく頷いた。

 その顔を見た瞬間、覇夜斗はやとは胸の中が満たされるような不思議な感覚を覚えた。


(やはり、こいつにはかなわない)


 苦笑いを浮かべてため息をつき、覇夜斗はやとは改めてそう思った。


「そなたになら、夕月ゆづきを奪われても仕方がないと思えるな」


 思わず口からこぼれ出た自分の言葉を、覇夜斗はやとは慌てて訂正した。


「いや、だめだ。やはり、あいつは誰にも渡さぬ」


 照れ隠しににやりと笑って見せる彼の目線の先には、満足気な笑みを浮かべて頷く月読の姿があった。

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