第二十二話 狼藉の代償
「媛巫女様!」
突然、若い大臣が祈祷の間に転がり込んできた。
「何事ですか?」
祭壇に向かっていた夕月は、体ごと戸口の方へ振り返り、額を汗で濡らす男を見上げた。
「王が……、王が……!」
夕月の正面で膝を落とした大臣は、よほど気が動転しているのか、口を忙しく動かしながらも、あとの言葉がなかなか出て来ない様子だった。
「王が、どうなさったというの?」
青ざめた男の表情に悪い予感を覚え、乱れる心を抑えつつ、夕月は意識して落ち着きのある声色で尋ねた。
彼女の力のこもった視線に我を取り戻した男は、大きく深呼吸をすると、話の続きを一気に言い放った。
「邪馬台国の皇子様を押し倒し、刃を差し向けました!」
「え……」
「その報復として、邪馬台は我が国に兵をあげてくるに違いありませぬ!」
それを聞いた瞬間、夕月の頭の中は真っ白になり、顔から色が消えた。
昨日彼女は、この場所で邪馬台国の皇子月読と言葉を交わした。
大国の皇子ということで、会うまでは恐れを感じていたが、予想に反して彼は温厚でどこまでも慈悲深い目をした、美しい青年だった。
初見で不躾な言動をしたであろう覇夜斗に対しても、分かり合えるまでじっくり話し合いたいと、彼は笑って言っていた。
しかし、次期大王とも目される月読に乱暴をはたらき、剣まで差し向けたとなると、さすがに穏便には済まされないだろう。
仮に皇子自身が許したとしても、家臣たちが黙っていまい。
『恐れていたことが……』
呆然とした表情を浮かべ、ゆっくりと立ち上がった夕月は、ふらつく足取りで戸口から外廊へ出た。
そうして、倒れかかるように欄干にもたれかかった彼女は、空を仰いで瞳を閉じた。
『でも、なぜ……』
もともと荒々しい気性で、時に挑発的な言動をする覇夜斗ではあるが、大抵の場合、それは己にとって有利に事を進めるため、相手を追い込む手段であることを夕月は知っている。
一見無謀ともとれる行動であっても、彼の中ではそれにより相手との距離感を冷静に探っており、最悪な事態を招かぬよう、引き際も心得ているはずだった。
そんな彼が見境もなく相手に襲い掛かるなど、彼女が知る限りでは、故郷に残してきた母の死を知った時以来のことだった。
邪馬台国を敵に回せば、兵力で劣る出雲に勝ち目はない。
覇夜斗もそれは重々わかっていたはずだ。
なのに、なぜ途中で思い留まれなかったのか。
そこに至るまでに彼の心情を読み取り、自分に何かできることはなかったのか。
夕月は悔やみきれない想いを胸に、目を閉じてきつく唇を噛み締めた。
「夕月殿?」
その時、聞き覚えのある声が彼女の名を呼んだ。
振り返ると邪馬台国の皇子がそこにいた。
「皇子様……」
月読の顔を見つめ、戸惑いの表情を浮かべる彼女の前に、背後に控えていた大男が身を乗り出してきた。
そんな男の目は血走り、怒りに震えていた。
「媛巫女様。王はなぜあれほどまでに、皇子様を敵視されるのでしょうか」
主を侮辱された怒りをぶつけるかのように、大男は荒げた声でそう問いかけてきた。
見上げるような大男に見据えられ、夕月は恐怖で言葉を失い、うつむいて体を震わせた。
「よせ、牛利」
その時、大男の太い腕を白く細い腕が掴んだ。
皇子に静止され、牛利と呼ばれた大男は、悔しそうに唇を噛み締めながらも、彼女の前から素直に身を引いた。
大男の威圧から解放され、夕月が恐る恐る顔を上げると、そこには彼女を見つめる月読の瞳があった。
心の奥底まで探るような皇子の視線から、思わず逃れた夕月は、彼らに背を向けて欄干に近づき、宮殿を取り囲む緑の森を見下ろした。
「兄の母は、遥か北の国にある社の宮司の娘でした。遠征の帰りに訪れた、我々の父である前の王が、たまたま見初め、滞在中、側女にしました。しかし帰国後、王が彼女を訪ねて来ることは、二度となかったそうです」
「……」
ぽつぽつと背中越しに語り始めた彼女の言葉に、男たちは黙って耳を傾けていた。
「兄を産んでからも、彼女はずっと父を慕い続け、泣き暮らしていたそうです。しかし五年前、父が亡くなり、正室に男の御子がいなかったため、兄が跡継ぎとして、ここへ強引に連れてこられたのです。そして、兄の母は、王を亡くし、息子を奪われた悲しみから、海へ身を投げ、自ら命を絶ったと……」
「それで……」
背後で苦し気にそう呟く月読の声が聞こえた。
覇夜斗の母が、側女になったがために不幸な生涯を遂げたと知り、旅すがら複数の妻を得てきた彼は身につまされているのだろう。
このような話をすれば、彼の生き方自体を否定しているようにも捉えられかねない。
それでも夕月はこの時、覇夜斗の抱えている悲しみの理由を、彼に伝えたいと思ったのだ。
そしてなぜか、この皇子ならそれを理解してくれるような気がしていた。
「兄はここへ連れてこられるまで、社の宮司となるべく修行を続けておりました。そのため、人一倍深い信仰心を持っております。それだけに、あなた様がおっしゃるような、神託に頼らぬ政は受け入れがたいのでしょう」
欄干に背を向け、振り返った夕月は、そう言って小さく笑った。
彼女もどこかで、月読が理想としている政と、覇夜斗が現在行っているそれは、似通ったものかもしれないと感じていた。
社で生まれたとはいえ、過酷な自然環境の中で育ってきた覇夜斗にとって、神とは全てを委ねるものではなく、人力を尽くした上で救いを求めるものなのだ。
実際、夕月が霊力を失って以来、政に関することはすべて覇夜斗が判断し、この国を導いてきた。
だが、そうなることで巫女が解放されることはない。
誰よりもそのことを身に染みてきただけに、月読が語る理想に強く反発してしまうのだ。
しばらく彼女の話を噛み締めて聞いている様子の月読だったが、ふと、真剣な表情を浮かべて夕月の瞳を凝視した。
「あなたはどうなのです? 巫女として、この国を背負う重圧から、解放されたいとは思いませぬか?」
突然投げかけられた問いに、夕月は言葉を失った。
熱を帯びた月読の視線に、彼女は戸惑いを覚えて思わず目を逸らした。
あえて正面から問われると、彼女自身にも自分の本心がよくわからなかった。
偽りの王女であるだけでなく、霊力まで失った自分が巫女を続けている罪悪感は、常に心の底に重く横たわっている。
けれど、彼女の舞を前にして喜ぶ民の姿を目にすると、媛巫女としての誇りを取り戻すことができた。
確かに、神に身を捧げる立場であるために、愛に生きられないことは悲しい。
それでも、覇夜斗とともにこの国を治めていけるなら、それも幸せなのかもしれないと自分に言い聞かせてきたのだ。
「私は、巫女として、王である兄を支えるだけです。それ以外の生き方は、考えられませぬ」
それが、この時点までの彼女の正直な気持ちだった。
だが今、この国と愛する人を守るため、王女として自分にできることは、全く別の運命を受け入れることだった。
「けれど、もしもこの国と兄へ情けをかけて下さるのなら、あなた様にこの身と命を委ねます」
覚悟を決めていたはずなのに、そう言った彼女の言葉尻は涙でかすれていた。
「牛利、それからそこにいる者も席を外してくれないか。彼女と二人きりで話がしたいんだ」
ふと、月読が振り返り、背後に控える大男と大臣にそう言った。
「御意」
一瞬驚きの表情を見せた大男だったが、やがて何かを察したように深く頭を下げると、背を向けてその場から去っていった。
「そなたもだ」
大男の背中を見送った皇子は、呆気にとられた様子の大臣の方へ向き直り、力のこもった視線を投げかけた。
「は、はい!」
その視線に、男は慌てて頭を大きく下げると、逃げるように小走りで外廊の角に消えていった。
周囲から人の気配がなくなると、月読は夕月の方へ向き直り、昨日と同じ優しい笑顔を見せた。
人払いがなされ、一瞬不安を覚えた夕月だったが、その笑顔を見て、ほっとため息をついた。
だが、次の瞬間、それまで穏やかであった月読の瞳に鋭い光が宿り、無機質で美しい顔が彼女の眼前に迫ってきた。
「皇子様……?」
後ずさる夕月を月読はじりじりと壁際に追い詰めてゆき、やがて彼女は逃げ場を失った。
月読の豹変ぶりに恐怖を感じ、夕月の全身はがたがたと震え始めた。
「私にその身と命を委ねる。そうおっしゃいましたね」
「……」
震える彼女の顎を指先で持ち上げ、皇子は息がかかるほどに顔を近づけてきた。
「それは、こういうことですよ」
謁見の間から出た覇夜斗は、部屋の裏側の外廊に回り、欄干に額を何度も打ちつけていた。
背後にある壁の向こうからは、右往左往する人々の足音と、責任を転嫁し合う大臣たちの怒号が聞こえていた。
先ほど、主の危険に直面した大男が発した声に、数人の大臣や侍従たちが何ごとかと集まってきた。
その時、彼らも月読に馬乗りになる自分の姿を目にしたのだろう。
皇子へ対する目に余る暴挙に対し、邪馬台が制裁を与えに来るのではと皆恐れて騒いでいるのだ。
「くそ!」
そう小さく叫んで、覇夜斗はもう一度欄干に額を打ち付けた。
自分でも、取り返しのつかないことをしてしまったと思っている。
だが、月読の声と表情から、夕月へ対する特別な感情を感じ取った瞬間、己の中に湧き上がる衝動を止めることができなかった。
その時、ふと覇夜斗は、背後にこれまで感じたことのない強い殺気を覚えた。
ゆっくりと視線だけを横に滑らせると、彼の首もとに鈍色に光る剣先が見えた。
よく見ると、それはかなり使い込まれたもので、多くの血を吸い尽くしてきた色をしていた。
「私を斬るか」
背を向けたまま、覇夜斗は低い声で剣の持ち主にそう問いかけた。
「……」
背後に立つ男は問いには答えず、そのまま異様なほどの殺気だけを送り続けていた。
「その殺気。おぬし、只者ではあるまい」
振り返らなくとも覇夜斗には、背後にいる男がいつも月読の傍にいる大男であることがわかっていた。
何も語らず、いつもただ主の背後に控えているだけであっても、その視線や身のこなしを見れば、この男が並の剣士でないことは明らかだった。
これほどの男であれば、どの国の王も用心棒として高く買うだろう。
そんな彼が、大国の皇子とはいえ、祖国を追われているような人物を敬愛している様子に、少なからず疑問を抱いていたのだ。
「おぬしほどの男が、なぜあの皇子にそれほどまで忠義を尽くす?」
刃から視線を前方の緑の木々へ戻して、覇夜斗は再度問いかけてみた。
「あの方は神の子だからだ」
すると、今度は低い男の声が返ってきた。
「倭国をまとめることができるのは、あのお方しかいない」
そう言って大男は、首筋にさらに刃を近づけた。
かちゃりと緊張感のある金属音が響き、覇夜斗は思わず唾を呑み込んだ。
「次にあのようなことがあれば、倭国のためにあなたを斬る」
その言葉が脅しでないことは、男が発する異様なまでの気迫が物語っていた。
おそらく、再び主に乱暴をはたらけば、この男は躊躇なく斬りつけてくるだろう。
例え己が王殺しの罪に問われ、首を落とされることになったとしても。
そう思うと、これほどまでにこの男を慕わせる月読に、底知れぬ恐怖を感じた。
「どうぞ、お忘れなきよう」
そう言い残すと、背後から大男の気配は音もなく遠ざかっていった。