第十八話 邪馬台の皇子
それから、四年の歳月が流れた。
この間に、政の判断を神ではなく人が行うという覇夜斗が示した政策は、少しずつ人々の間に定着しつつあった。
彼は領地内で問題が生じれば、まずは役人を現地に赴かせて詳しく調査を行い、その報告をもとに大臣や有識者と共に解決策を協議した。
識者の中には積極的に渡来人も混じえ、土木学を用いて災害に強い整備を行ったり、争いごとが起きれば大陸の兵法を参考にして戦略を練ったりもした。
病に対しても医学が重んじられるようになり、董丹が住む村を拠点として、医師を目指す者を教育する学び舎と、新薬などを開発するための施設を設けた。
こうして、巫女の占いに依存せず、大陸の学問を取り入れた、出雲独自の政が徐々に形造られていったのだった。
はじめは抵抗を感じていた者達も、事案が解決されていくたびに学問の合理性を実感するようになり、最近では自分達が導き出す判断にも自信を持ち始めているようだ。
勿論、全ての案件を人の手で解決する事など不可能だ。
高い堤を河岸に巡らせたにも関わらず、想定外の豪雨により川が氾濫し、多くの民が命を落としたこともあった。
そんな時は、夕月が現地に赴き、舞いを捧げることで、悲しみと絶望に暮れる人々の心を癒し、生きる気力を甦らせた。
政に占いが用いられることはなくなったが、夕月の姿を直接目にした者達は彼女を崇拝し、むしろ以前より信仰心と王家への信頼が厚くなってきているように思われる。
そんな王家を尊ぶ民の様子を見て、下手に手を出せぬと感じているのか、最近は渡来人による反逆行為も殆ど見られなくなった。
兄が人智を駆使した合理的な政務を行い、妹が精神面で人々を支える。
このような二本の太い柱に支えられ、出雲は急速に近代化すると同時に、信仰によって民の心が固く結束していったのだった。
「王、そろそろご判断を」
今日も一人の老いた大臣が、覇夜斗に詰め寄ってきた。
「何度言えばわかるのだ。今はそんな気などない」
頬杖をつき、面倒そうに覇夜斗がそう答えると、大臣はあからさまに顔をしかめて見せた。
「もういい加減、お世継ぎのことをお考えくださいませ。妃を迎えられなくとも、せめて側女だけでも……」
「……」
覇夜斗は、心の底から大きなため息をついた。
新しい政が定着し、国が落ち着いてくると、董丹が予想していたように、にわかに周囲の者達が世継ぎを早くもうけろと口うるさく進言してくるようになってきたのだ。
「お世継ぎを早くもうけていただかなくては、私も安心してこの世を去れませぬ」
「そんなこと知るかよ」
仰々しく嘆いて見せる老人に聞こえないよう、覇夜斗は小さな声でつぶやいた。
彼は四年前から神託に頼らない政を目指し、それは実現しつつあったが、そこにはある大きな誤算があった。
確かに政治的判断は神から人へと移ったが、そのことが逆に夕月の神聖さを際立たせる結果になったのだ。
国が急速に近代化していく中、長年信仰に依存してきた人々にとっては、彼女の存在が心の拠り所となっていった。
だからこそ、渡来人も巫女を中心に結束を固めていく民衆を恐れ、このところ身を潜めているのだ。
夕月へ対する彼の想いは、四年前から何ら変わらず、むしろ年々強くなっている。
だが、このような状況で彼女を妃にすれば、人々は信仰の対象を失い、国が大きく乱れるだろう。
夕月との未来のために、神に頼らない政を叶えようとこれまで汗を流してきた覇夜斗であったが、皮肉にもそれは巫女に頼らない政とは相反するものであったのだ。
「どうか、なるべく早くご決断を。あなた様はこの国の王でいらっしゃるのですから」
「わかった、わかった」
戸口に向かいながらも念を押して言い続ける男を払うように、覇夜斗は前後に手を振った。
軽くあしらわれ、口を尖らせてぶつぶつとつぶやいて背を向けた大臣だったが、ふと、再び足を止めて振り返った。
「まだ他に、何か言いたい事があるのか?」
うんざりとした顔をする覇夜斗の前で、老人は頬を強ばらせて何かを言いあぐねている様子だった。
「まだ定かではありませぬが、邪馬台国の皇子様が出雲を目指していらっしゃるとの報告がありました」
しばらくして老人が放った言葉に、覇夜斗は眉根を寄せた。
「邪馬台の皇子が?」
「はい。また確かな情報が入りましたら、ご報告申し上げます」
神妙な面持ちでそう言い、大臣は深く一礼して部屋を出て行った。
「ふん、邪馬台の皇子が何用なのだ」
大臣の後ろ姿が見えなくなると、覇夜斗は傍らの窓に視線を移し、その向こうで揺れる木々の葉を見つめてつぶやいた。
数日後、討議の間に集まった者達は、一様に青ざめた表情で覇夜斗の顔を見つめていた。
「邪馬台国の皇子様が、吉備国を出立され、出雲へ向かっていらっしゃるそうです」
一人の大臣がそう口火を切ると、室内が一気にざわめいた。
「邪馬台国の皇子がなぜ?」
「狗奴国を征圧するため、諸国を巡り、結束を固めながら旅をされているとの噂はあったが」
「我が国にも邪馬台への忠誠を誓わせ、協力を要請するつもりか」
互いに推測を述べ合う男達に睨むような視線を向けて、覇夜斗は無言で上座に座っていた。
邪馬台国とは、ここよりはるか南東にある大国だ。
現在倭国は、邪馬台国と狗奴国、そして出雲国という三大勢力によって大部分が治められている。
中でも邪馬台国は、三十余りもの国を配下に置く倭国最大の統治国だ。
邪馬台では歴代、神の末裔とも言われる王家の男子が大王を務めていたが、二十年程前、それまでの習わしを覆して媛巫女がその地位を引き継いだ。
卑弥呼という名のその巫女は、類希な霊能力の保持者で、占いによって権力を絶対的なものにしていた。
だがここ数年、神託が審神者である弟から語られるだけで、彼女が民の前に姿を現すことは殆どなかったという。
「あの、大王を偽っていたという皇子か?」
一人の大臣が、興味深気に目をしばたかせてそう言うと、周りの者達はうんうんと首を上下に振った。
一年程前、卑弥呼が既にこの世の者ではなく、審神者を務めていた彼女の弟が姉を偽っていたことが発覚した。
民を欺いていたことにより弟は国を追われ、それを機に狗奴国討伐の旅に出たといわれている。
その弟というのが、今出雲へ向かっているとされている邪馬台国の皇子、月読命その人なのだ。
「女王を偽っていただけあって、娘と見紛うほど美しい方らしい」
「噂を聞いて、一度お目にかかりたいとは思っていた」
稀に見る美貌の皇子との噂に、大臣達は彼が男であることも忘れて色めき立った。
だが、そんな空気の中、一人の若い大臣が難しい顔をして覇夜斗の前に進み出て来た。
「王、その皇子が邪馬台国の配下に入れと言ってこられたら、どうなさるのです?」
男の質問を耳にした他の者達は、一斉に押黙り、上座に視線を滑らせた。
覇夜斗が即答できずにいると、若い大臣は言葉を続けた。
「皇子は既に南海道沿いの諸国をほぼ制しているそうです。大陸の先進的な武器を備えているとはいえ、狗奴国は兵の数では邪馬台の連合国には遠く及びませぬ。この戦いに狗奴国が敗れ、筑紫島全土が邪馬台の配下となれば、出雲は孤立します」
倭国第二の大国狗奴国は、朝鮮半島に最も近い筑紫島(九州)を統領する国で、出雲以上に大陸との繋がりが深い。
呉の援助を受けているとの噂もあるこの国は、大陸から輸入した鉄製の武器により、優れた戦闘力を有している。
呉と敵対する魏を後ろ楯としている邪馬台国とは常に対立関係にあるが、兵の数では勝る邪馬台国もその武力の前では苦戦を強いられ、両者の間ではいまだ決着がついていない。
だがどうやら今回、邪馬台の皇子は本気で狗奴国を降すつもりでいるようなのだ。
もともと南海道沿岸の諸国の多くは邪馬台と同盟関係にあったが、皇子が直々に訪れることで、改めて彼に忠誠を誓い、共に狗奴国との戦いに向けて協力する姿勢を示しているという。
今までにない結束力により、狗奴国を邪馬台国が討ち降せば、出雲は倭国内で孤立することになる。
この男は、そう言っているのだ。
「特に吉備国は以前より我が国のことを良くは思っておりませぬ。彼らは我が国で降ろされた大陸からの物資を南海道から運び出すことで利益を得ているため、表面上交流を続けているだけなのです。しかし、邪馬台によって狗奴国が平定され、筑紫島から物資を得られるようになれば、我が国と断絶することも充分考えられます。そうなれば、我々は交易による収入を断たれ、経済的にも孤立してしまいます」
これまで出雲は中立な立場を貫き、どちらかの勢力に加担することを頑なに避けてきた。
それは双方の勢力と接する立地にあるこの国が、生き残るための術でもあった。
その上で、いずれの勢力とも経済面では活発に交流してきたのだ。
渡来人が持ち込んだ技術によって発展し、相手が邪馬台であろうと、狗奴であろうと、望まれれば鉄器や鋼を売り渡す出雲を、「渡来人に魂を売った国」と揶揄する者も少なくない。
出雲の南側に隣接する吉備国も、彼らを良く思っていない国のひとつだ。
だが吉備国は、出雲にとっては外せない流通の要所でもあった。
大陸から出雲に渡ってきた輸入品は、陸路を通って吉備国の港に一旦集められ、そこから船で南海道を通り東側諸国に運ばれる。
もしも、吉備国に交易を断たれれば、輸入品や主要産業である鉄器によって利益を得てきた出雲の財政は、一気に疲弊する。
それだけではない。
南海道側で穫られた作物類も、逆の道筋を通って吉備国から出雲へ運ばれているのだ。
出雲が配下とする北海道(日本海)沿いの諸国は、冬場は雪深い地域が多く、その期間は殆ど作物が穫れない。
そのため、南海道側からの物資が滞れば、民が飢えに苦しむことになるのだ。
「くそ!」
別の大臣が、悔しそうにそう言って床を拳で叩き付けた。
「じわじわと我々の首を絞め、耐えきれず降伏すれば、我が国の製鉄技術や兵力を我がものにするつもりか」
「それだけではないぞ」
また違う大臣が少し張った声で言い、室内にいる者達の視線はその男に向けられた。
「皇子はこれまでに河内、明石、吉備のそれぞれの王の媛君を妻にされている。忠誠の証に、夕月様を妻にと所望されることも考えられる」
その瞬間、覇夜斗の目が大きく見開かれた。
「まさか、我が国で唯一の媛巫女様を渡せとは……」
男の話を聞いて、そばにいた大臣が苦笑しながら顔の前で手を振った。
だが男は堅い表情を崩さずに、話を続けた。
「卑弥呼様亡き後、邪馬台国は皇子の姪にあたられる巫女が女大王を引き継いでいらっしゃる。信仰の対象を大王に集中させるためには、媛巫女様の存在は邪魔であろう。しかも出雲王家の媛を妻にすれば、対外的にもこの国を支配下に置いたことを知らしめることができる」
表面上は冷静を装っていたが、覇夜斗は腰に挿した剣の柄を握りしめ、必死に怒りを抑えていた。
そんな彼を更に焚き付けるように、大臣達は鼻息を荒げて上座へにじり寄って来た。
「王、媛巫女様を……いえ、出雲の信仰を守るために、戦いましょう!」
「いやいや、勝ち目のない戦で多大な犠牲を払うより、邪馬台国と同盟を結ぶべきです!」
「信仰のみならず、我々が長年培って来た製鉄技術をも、あっさりと手放せと言うのか?」
「そうは言っていない。相手の懐にうまく入り込んで、なるべく我々に有利な形で同盟を組めば良いのだ」
「しかし、邪馬台側について、もしも狗奴国が勝利した場合、我々はどうなるのだ?!」
大臣達は、おのおのの持論をぶつけ合い、やがてそれは怒鳴り合いに発展して、室内は割れんばかりの騒ぎとなった。
「静まれ!」
突如室内に大きな物音が響き、男達を黙らせた。
彼らが上座を見ると、髪を振り乱した覇夜斗が床に剣を突き立てていた。
「この件に関しては私が判断をする。少し考える時間をくれ」
血走った王の瞳に恐れを成し、大臣達は唇を震わせながら小さく頷いた。
やがて、ゆっくりと立ち上がった覇夜斗は、男達の間を通り抜け、討議の間を後にしていった。