第十五話 媛巫女の舞
「どうぞ、謝らないでください」
胸元で、亜玖利が微かに笑みを浮かべて言った。
「審神者になることを運命付けられていた私は、幼い頃から神殿で修行の日々を送って参りました。けれど、あなた様がここへ派遣してくださったおかげで、初めて外の世界に触れることができたのです」
「……」
「風の匂い、土の感触、人々との触れ合い。それらを知る機会を与えていただけて、あなた様には、むしろ感謝しているのです」
そこでまた、亜玖利は大きく咳き込んだ。
慌てて背を摩ろうとする覇夜斗の胸を掌で押し返し、呼吸を整えながら少年は目で「大丈夫」と訴えた。
「それに……」
少し落ち着くと、亜玖利は言いかけた言葉をいったん呑み込み、今度ははにかむような表情を見せた。
「彼女をあまり待たさずに済みそうです」
その瞬間、覇夜斗は室内を見回した。
亜玖利の言う彼女というのが、彼の想い人であるあの少女のことであると悟り、咄嗟にその姿を探したのだ。
「彼女は、先に旅立ちました。ひと月程前に……」
亜玖利が口にした事実に、覇夜斗は言葉を失った。
自分の運命を受け入れ、明るく笑っていたあの少女にも、容赦なく死は訪れていたのだ。
無慈悲な現実を突きつけられ、肩を落とす王とは対照的に、亜玖利は嬉しそうに顔をほころばせた。
「彼女とは亡くなる前、生まれ変わったら一緒になろうと誓い合ったのです。ですから……」
そこまで言いかけたところで、亜玖利は背を丸めてさらに激しく咳き込み、血を吐いた。
「亜玖利!!」
覇夜斗は、やせ細った体を強く抱きしめ、その髪に頬をすり寄せた。
「何か……叶えて欲しい事はないか。私にできることがあれば、何でも言ってくれ」
涙混じりにそう言う覇夜斗の腕の中で、亜玖利は目を伏せて微笑みながら、何度も首を左右に振った。
「家族や両親など、会っておきたい者はいないのか?」
懇願するように重ねて問いかけても、やはり亜玖利は笑って首を振るだけだった。
「物心ついた頃より、親元から離れて暮らしていた私には、恋しく想う家族もおりませぬ」
淡々とそう語る亜玖利を前に、己の無力さを痛感し、覇夜斗は唇をきつく噛み締めた。
「私に、お前にしてやれることは何もないのか……」
固めた拳を震わせ、絞り出すようにつぶやく王の腕の中で、亜玖利は、ただ穏やかに微笑み続けていた。
「けれど、ひとつだけ願いを口にできるなら……」
しばらくして、亜玖利は少し遠い目をして言った。
「夕月様の舞うお姿が、もう一度見たいと思います」
「……?」
意外な望みを耳にした覇夜斗は、腕の力を緩め、少し体を離して少年の顔を見つめ直した。
「この世の者ではないような、美しいあのお姿を目にすると、どんな辛い修行も耐えることができました。ですから……」
そう言って亜玖利はそっと目を閉じ、遠い日の夕月の舞い姿を瞼に浮かべているようだった。
穏やかな笑みを浮かべるその顔からは、不思議なことに死への恐怖は微塵も感じられず、むしろ幸せで満ち足りているように覇夜斗には見えた。
「夕月!!」
突然大きな声を張り上げて神殿に現れた王に、侍女や巫女達は逃げるように道を空けた。
右往左往する女達を押しのけ、覇夜斗は回廊を闊歩して行った。
すれ違い様、王の姿を改めて目にした女達は、その異様さに驚き、黄色い声をあげた。
彼の全身を覆う白い装束は、大量の赤黒い血で染まっていたのだ。
恐怖におののく女達を気にもとめず、覇夜斗は真っすぐに祈祷の間を目指して行った。
「夕月!!」
騒ぎを耳にした夕月は、祈祷の間の戸口から外の様子を伺っていた。
そこに現れた覇夜斗は、彼女の姿を目にするなり、その手首を強く掴んだ。
「来い!」
「なにを?」
驚く彼女に何も語らぬまま、覇夜斗は素早く踵を返すと、間も置かず今来た道を戻り始めた。
夕月は理由のわからないまま、引きずられるように王の後に続いて行った。
そんな夕月の前には、肩幅の広い背中があった。
良く見ると、垂らされた長い髪の隙間から見える衣も、彼女の手首を握りしめる手も、乾いた黒い血で汚れていた。
「お前にしか、できないことがあるんだ」
背中を向けたまま、口にした王の言葉に、夕月は思わず顔を上げた。
「私には、叶えてやれないことなんだ」
血に染まる背中を不安気に見つめながら、夕月は手をひかれるままに回廊を通り抜け、神殿の階段を駆け降りて行った。
覇夜斗によって、強引に連れ出された夕月は、王宮からほど近い砂浜にいた。
祭事の時を除いては神殿を出る機会のない彼女にとって、初めて目にする海がそこにはあった。
想像を絶する広大な海原に心を奪われ、立ち尽くす夕月の手を、再び覇夜斗が強く掴んで歩き始めた。
馴れない砂に足をとられながら波打ち際へ近付いて行くと、そこには小型の船が停められており、船上で数人の護衛兵が彼らを待ち構えていた。
突然、ふわりと体が宙に浮き上がり、夕月は思わず叫び声をあげた。
見上げると、彼女を横抱きにして前方を見据える覇夜斗の横顔が間近にあった。
覇夜斗はそのまま海の中を進み、彼女の体を船上の兵士に委ねると、続いて自らも船に乗り込んだ。
その後、滑るように動き出した船は、少しずつ浜から離れていった。
時刻はすでに夕刻を迎えており、西に向かう彼らの背後には、燃えるような夕空が迫っていた。
黄昏色に染まる船の上で、夕月は亜玖利が不治の病に侵されていることを、初めて覇夜斗から聞かされた。
「亜玖利が……」
一瞬意識が遠退き、よろめいた彼女の体を、覇夜斗の腕が抱きとめた。
彼女にとっても亜玖利は、幼い頃から巫女と審神者として、苦難を共にしてきた弟のような存在だったのだ。
そんな彼の命が残り少ないと聞いて、彼女の心は大きく乱れていた。
悲しみに震える夕月の体を、覇夜斗は自分の胸に引き寄せ、強く抱きしめた。
「頼む。あの者のために、舞ってやってくれ」
頬に触れる厚い胸から、王の体も震えていることが感じられた。
涙は流していなくても、彼も泣いているのだと彼女は思った。
「でも、私にはもう……」
死を覚悟した亜玖利が、最後に自分の舞いを見たいと望んでくれたことは嬉しかった。
しかし、夕月には、霊力を失った自分に、少年の心を救ってやれるとは思えなかったのだ。
泣きながら首を振り続ける夕月の体を、覇夜斗はいったん引き離し、両肩を強く掴んだ。
「お前の舞いを望んでいる者がいるのだ。霊力はなくとも、心を込めて踊ってやれ」
間近に迫る熱い視線に、夕月は戸惑いながらも小さく頷いた。
二人を乗せた船が西の村の港に着くと、間もなく夜の帳が降り始めた。
刻々と辺りが闇に覆われてゆく中、護衛兵が灯す松明だけを頼りにしばらく歩いていくと、前方に保養所として使われている小屋が見えてきた。
小屋の脇を通り抜けて裏手に回ると、少し開けた場所があり、その中央部で高く組まれた薪からは、天に向かって赤い炎が噴き出していた。
夕月が広場の周囲に目をやると、炎を取り巻くように、ひれ伏する老若男女の姿があった。
彼らの手足は一様にやせ細り、その肌は異様な程白く、闇の中に浮き上がって見えた。
事前にこの村で流行っている病の特徴を耳にしていた夕月には、彼らがその患者であることがすぐにわかった。
中には起き上がる事が困難な程衰弱している者もいるようで、そのような者達は地面に敷かれたむしろの上に、荒い息を吐きながら横たわっていた。
時折くぐもった咳の音が聞こえるものの、誰一人声を発する事はなく、広場には薪が燃えるぱちぱちという音だけが響いていた。
そんな異様な空気が漂う中を、夕月は覇夜斗に導かれるまま、広場の中心に向かって歩いて行った。
薪組みの手前で立ち止まった覇夜斗は、おもむろに病人達の方へ向き直り、彼の動きにつられて夕月も炎に背を向けた。
「出雲王家の血をひく巫女を連れてきた」
静寂を破って、覇夜斗の張りのある声が広場に響き渡った。
それを合図に、ひれ伏していた人々の頭が持ち上がり、その視線が一斉に夕月に向けられた。
「なんとありがたい」
彼女の姿を目にした瞬間、多くの者達は両手の指を堅く組み、それを前後に振って涙を流し始めた。
「媛巫女様がこのようなところまで来て下さるとは……」
「この世のものとは思えぬお美しさじゃ」
「そのお姿を目にする事ができただけで、もう悔いはございませぬ」
口々に感謝と感嘆の言葉を述べては頭を下げる人々を、夕月はしばし呆然と見つめていた。
「これより巫女が舞いを捧げる」
覇夜斗が再びそう口にすると、病人達は指を組んだまま頭を地面に擦り付けた。
このような状況で舞った経験のない夕月は、戸惑いの表情を浮かべて目を泳がせた。
その時、そんな彼女の背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
「踊ってやってください。夕月様。彼らのために」
振り向くと、そこには亜玖利がいた。
以前よりかなり痩せてはいたが、少し黒めがちになった目は輝きを失っておらず、彼女を真っすぐに見つめていた。
「亜玖利、お前……」
立ち尽くす夕月の隣で、覇夜斗は驚き、目を見開いていた。
そこに立つ少年の姿は、先刻保養所で見た姿とはあまりにかけ離れていたのだ。
半日前には粗末な着物を身につけ、床に力なく横たわっていた少年が、今は審神者の白い衣を身に纏い、髪も美しく美豆良に結い直して、背筋を伸ばして立っていたのだ。
「お願いします。私はこちらで、いつものようにあなた様のお姿を見ておりますから」
亜玖利はそう言って小さく微笑み、夕月から少し距離を置いた場所に腰を降ろして胡座を組んだ。
そこは、夕月が神託を求めて舞う時、いつも彼が審神者として彼女を見守っていた位置だった。
「亜玖利……」
少年の姿を見つめ、なおも戸惑い続ける夕月の肩を、大きな手が軽く叩いた。
「踊ってやれ。あの者のためにも」
振り返ると目の前に、王の背中があった。
彼女の肩から離れた手が、対面に控える奏者達の方に向かって高く掲げられると、それを合図にやや音を抑えた太鼓の音が広場に響き始めた。
始めは呆けたように立ち尽くしていた夕月だったが、背中に感じる炎の熱と、素足から伝わってくる太鼓の振動が、少しずつ彼女の意識を俗世から引きはがしていった。
いつしか、彼女の意思とは関係なく、足が滑らかに地面を滑り、その瞳は無数の星が瞬く天に向けられていた。
徐々に太鼓の音が大きくなってゆき、そこに闇を裂くような高い笛の音も重なってきた。
奏楽の波が高まるにつれ、夕月の動きも、次第に大きくなっていった。
体の回転に合わせて大きな袖が翻り、背が反らされるたびに白いつま先が闇を蹴った。
それはまるで、水の中を泳ぐ白魚のようにしなやかで美しい舞い姿だった。
覇夜斗は少し離れた場所で、幻想的な巫女の舞いを静かに見つめていた。
相変わらず、夕月から霊力は感じられない。
だが、今目の前にしている彼女の姿は、いつもに増して神々しく思えた。
この日の舞は、彼女が初めて、神にではなく人に捧げたものであった。
そこには、病人達を痛みや苦しみから少しでも救ってやりたいという、彼女の想いが込められていた。
彼女のどこまでも深い慈悲の念は、霊力とは異なる力となって、王となってから知らず知らずの内に疲弊していた彼の心をも、少しずつほぐしていった。
ふと、病人達に目を向けた覇夜斗は目を見張った。
彼女の舞いを心から喜び、誰もが皆、満面の笑みを浮かべながら楽しそうに手を叩いていたのだ。
先ほどまで生気を失い、気だるそうに横になっていた者達でさえ、瞳を輝かせて彼女を見つめている。
中には、涙を流しながら、嬉しそうに手を叩いている者もいた。
これまで何度かこの地を訪れ、彼らを見てきた覇夜斗だったが、これほどまでに幸せそうで生気に満ちた姿を目にしたのは初めてだった。
今、ここにいる者達の心は、夕月の舞いを中心にひとつにまとまっているのだ。
それを悟った瞬間、彼は夕月が持つ、霊力とは異なる不思議な力を実感したのだった。
「やはり、お前は巫女なんだな」
炎に赤く染まる空を見上げながら、覇夜斗は小さくつぶやいた。