第十三話 滲む想い
調べてみると、西の国には、大陸から運ばれてきた物資を流通させることで、多大な利益がもたらされていることがわかった。
これまでその大半をあの長は独占し、贅沢な暮らしを続けてきていたのだ。
覇夜斗は、長としての役目も果たさず、欲にまみれたあの男から財産を没収し、交易から得られる利を役人に管理させることにした。
そして、それらを基でとして、不衛生であった小屋を清潔な保養施設に改装し、医師や医官も派遣した。
病の感染を拡大させないためには、感染者を村人達から隔離する必要がある。
家族から離れて暮らすことを余儀無くされた彼らに、せめて人らしく最後の時を迎えさせてやりたい。
覇夜斗には、そのような思いがあった。
これらの策により、病人達の置かれた状況は、今後飛躍的に改善されていくはずだ。
「しかし……」
顎をさすりながら、覇夜斗は不満気にそうつぶやいて、再び遠い目をした。
「不治の病である彼らに、どうすれば希望を持たせてやることができるのだろう」
『最後まで絶望ではなく、希望を持って生きたいですね』
この時、覇夜斗の胸には、西の村で出会った少女の言葉が深く突き刺さっていた。
いかに環境が改善されたとしても、彼らの病が不治であることに変わりはない。
病状が進行するほど、痛みや苦しみが増してゆく彼らに、死の間際まで希望を持たせることなどできるのだろうか。
思いを巡らせ、黙り込んだ覇夜斗を、しばらく神妙な面持ちで見つめていた董丹だったが、おもむろに立ち上がり、部屋の隅に置かれた棚へと近づいて行った。
そこにあった大ぶりな木箱を手にした老人は、もと居た場所で再び座り直し、座卓の上に静かにその箱を置いた。
覇夜斗が横目で様子を伺っていると、老人は封をしていた組紐をほどき、ゆっくりと箱の蓋を開けた。
そこには、麻でできた小袋が列状に詰められていた。
「これは……?」
老人の意図するところが掴めず、眉を寄せる覇夜斗の前で、董丹はその一つを手にとった。
「これは麻沸散です」
「麻沸散? ……既に生成できていたのか」
老人が口にした薬の名に、覇夜斗は聞き覚えがあった。
麻沸散とは、董丹の師であった華陀が発明したとされる秘薬だ。
魏からここへ移り住んだ彼が、その薬を再現するため、長年研究を続けているということは、噂に聞いていた。
だが、それが既に完成しているとは、まだ耳にした事がなかった。
驚く覇夜斗を尻目に、董丹は箱から小袋を取り出し、ひとつ、またひとつと卓上に並べ始めた。
横一列に並べられた八つの袋には、それぞれ墨で丸い点が描かれ、その数は右にいくほど一つずつ増えていた。
「ここに書かれている印は、効き目の強さを表しています。一つの物が最も弱く、数が増えるごとに効果が強くなっていきます」
「……」
「この薬には、痛みを和らげる効果があります。これにより、患者を苦しみから救うことができるでしょう」
そう言って、董丹は、卓上の木箱を彼の前に差し出した。
「これを、私に……?」
ごくりと喉を鳴らせて見上げる王の顔を、老人は柔らかい笑みを浮かべて見つめ返した。
「お役に立てるのであれば」
覇夜斗はおそるおそる、小袋の一つを手に取ってみた。
細い紐で口を絞られたそれを鼻に寄せると、微かに附子の匂いがした。
この薬によって、患者達を苦しみから救えるかもしれない。
そう思うと彼の瞳は、わずかながら希望の光を取り戻していた。
「ただしこれは、意識を薄めることによって痛みを和らげる薬です。単発で投与する分にはさほど問題がありませんが、使い続ければ、患者の意識は徐々に遠のいていくでしょう」
「……」
「症状が進行するほどに、薬を強めなくては痛みを取り除くことができなくなっていきます。そうしていくうちに彼らの意識は朦朧とし、やがては家族や知人の顔さえわからなくなるかもしれませぬ。どうぞ、そのことを心に留めてお使いください」
宮殿に戻った覇夜斗は、急遽、西の村から亜玖利を呼び出した。
夜間、人払いをした自室に少年を招き入れた彼は、卓上に置かれた木箱の蓋を開けて見せた。
「これが麻沸散ですか」
箱の中に整然と並ぶ小袋を、亜玖利は身を乗り出して興味深気に見つめた。
董丹から薬を譲り受け、ひとまず宮殿に持ち帰った覇夜斗だったが、患者に使用することに躊躇いを感じていた。
そのため、現地に長く滞在し、多くの患者達と触れ合ってきた彼の意見を参考にしようと思ったのだ。
「お前は、これを患者に使うべきであると思うか?」
薬の効果と副作用について、王から説明を受けた亜玖利は、腕組みをして「うーん」と低い唸り声を上げた。
それから、しばらく考えあぐねていた少年は、ふと何かに思い至ったように顔を上げた。
「私には判断できかねますが、彼女なら、最後まで自分らしく生きたいと言う気がします」
覇夜斗には、彼が言う彼女というのが、西の村で出会ったあの少女のことであろうと、すぐに思い当たった。
また、亜玖利の微かに赤く染まった顔を見て、彼女に淡い想いを抱いているのかもしれないとも思った。
だが、もしそうであれば、病に侵された少女との間に残された時間は長くない。
そう思うと、やりきれなさと切なさが胸に沸き起こった。
「そうだな。私もそう思う」
あの日、自分が侵されている病が不治であると知っても、静かに受け止めていた少女の顔を思い起こし、覇夜斗は何度も大きく頷いた。
確かにあの少女なら、そう言う気がする。
けれど、人は彼女のように心の強い者ばかりではないのだ。
たとえ、自分が何者であるかさえわからなくなったとしても、苦しみから逃れたいと思う者もいるだろう。
そう思うと、なかなか結論が出なかった。
「そういえば最近、比較的まだ症状の軽い患者達が、畑を造り始めたんですよ」
ふいに、亜玖利が話題を変えてきた。
「畑を?」
話が意外な方向へ向かい、覇夜斗が首を傾げていると、亜玖利は嬉しそうに目を細めて話を続けた。
「ええ。明日は芽が出るか、昨日より大きく育っているかと作物の成長を見守っていると、明日を迎える恐怖も楽しみに変わるそうです」
「……」
「作物を共に育てることで患者同士の交流も深まり、あの場所の雰囲気も随分良くなってきているんですよ」
亜玖利の話を聞いて、覇夜斗は驚いた。
患者達にとって日が経つという事は、症状が進行し、また一歩死へ近付くという恐怖との戦いなのだ。
だがそれを、彼らは作物を育てる事で逆に楽しみに替えているという。
覇夜斗はこれまで、王として自分にできることばかりを考えていたが、患者達も残された時間を精一杯、人として生きようとしていることに心を動かされた。
「人とは、思っていた以上に強いものなのだな」
まだ若く健康な覇夜斗は、これまで己の命が尽きる日を意識したことがない。
果たしてその立場になった時、自分は彼らのように死と向き合うことができるのだろうか。
そう思うと、彼らに対して尊敬にも似た感情を抱いた。
「いえ、彼らは王に感謝していましたよ」
「?」
「あなた様が、人としての誇りを取り戻させてくださったからこそ、作物を育てようという想いも芽生えてきたのだと、彼女が言っていました」
覇夜斗は思わず言葉を失った。
王として、何とか事態を収束させたい。
彼にとっては、そんな思いに突き動かされて行動し、判断してきた結果に過ぎなかった。
だが、それにより喜ぶ民が居るということに、生まれて初めて、胸に熱く湧き上がるものを感じたのだった。
それからしばらく経ったある夜、覇夜斗は神殿に夕月を訪ねて行った。
既に巫女達は奥の間で休んでいるのか、戸口の外で護衛兵が控えているだけで、室内には夕月一人が神に祈りを捧げていた。
「留守中はすまなかったな」
祈祷の間に足を踏み入れながらそう言う覇夜斗の声を耳にすると、夕月は弾かれたように祭壇から向き直って彼の顔を見上げた。
等間隔に置かれた松明の間を進み、彼女と向かい合う位置に腰をおろして視線を上げると、そこには彼を切なげに見つめる瞳があった。
思わず視線を下ろし、細い首筋に沿って流れ落ちる髪を辿ると、襟元からのぞく白く滑らかな肌に目がとまった。
「さすが、父と共に長年この国を支えてきただけある。お前の下す判断は的確であると、大臣達も信頼しているようだった。いっそ、お前が王になった方が、皆も喜ぶのではないか?」
乱れ始めた心を隠すように彼女から目を逸らし、覇夜斗は自虐混じりにそう言って苦笑した。
「勝手な事をして申し訳ありませぬ。そんなつもりでは……」
その言葉を、留守中、政に関わった自分を非難していると受け止めたらしく、夕月は不安気に表情を曇らせ、首を小さく左右に振った。
「私にはもう、巫女としてできることはありませんから、せめて何かお役に立てればと……」
突然口元を手で覆い、涙をこぼし始めた夕月に、覇夜斗は驚き、慌てて身を乗り出した。
「冗談だ。長らく留守を任せてすまなかった」
思わず細い両肩を掴み、長い髪に覆われた顔を覗き込むと、涙に濡れた瞳と目が合った。
『……嘘だろ?』
何かを求めるような夕月の瞳に、覇夜斗は体の自由を奪われ、そのままの姿勢で二人は見つめ合った。
やがて、夕月の目が、ゆっくりと閉じられた。
それと同時に、それまで瞳に囚われていた視線が、今度はみずみずしく艶めく唇に捕えられた。
その唇に吸い寄せられるように、覇夜斗も無意識の内に少しずつ唇を近付けていった。
『これでは、まるで……』
頭が思考することを拒み、意識が遠いところにあるような気がした。
彼女が表向きには妹であることも、この国唯一の巫女であることも頭の中から消え去り、ただ目の前の女へ対する愛しさだけが、彼の全身を支配していた。
『!』
唇が触れ合う寸前、覇夜斗は我を取り戻し、手に力を込めて彼女の体を引き離した。
「悪い。今日は疲れているみたいだ」
彼女の肩を掴んだまま、彼はうなだれてそうつぶやいた。
手の中で、細い肩が震えているのが感じられた。
「改めてまた来る」
床を見つめたまま彼女に背を向け、覇夜斗は早足で戸口へ向かった。
外廊を大股気味に歩く彼の頭の中は、激しく混乱していた。
『嘘だろ?』
夕月に対して、これまで己がしてきたことを思い起こしながら、彼は心の中で何度も自問していた。
母と自分を捨てた父へ対する憎しみをぶつけるように、幾度となく彼女を傷つける言動を繰り返してきたのだ。
時には乱暴さえ働いた自分を、彼女は憎んでいるに違いないと思っていた。
『だが、あの目はまるで……』
涙に潤む夕月の瞳が脳裏に鮮やかに甦り、それを消し去ろうと覇夜斗は激しく頭を左右に振った。
階段から駆け降りた彼は、神殿に背を向けたまま、ずんずんと無心で歩き続けた。
ふと立ち止まり、そこで彼は初めて背後を振り返った。
そこには、木々の間から差し込む月明かりに照らされ、青く染まる神殿が闇の中にそびえ建っていた。
『夕月、お前は……』
巨大な神殿の影を見上げ、覇夜斗はその場に長い間立ち尽くしていた。