第十話 異国の医師
それから数日後の早朝、覇夜斗は入海(宍道湖)に船を出し、対岸を目指して航行していた。
そこに、医学に通じた渡来人が多く移り住む集落があると耳にしたからだ。
噂では、新羅からの移住者だけでなく、魏の進んだ医学を学んできた者もいるらしい。
覇夜斗はその人物に会って、今回の病に似た症状を大陸で見たことがないかを確認し、治療法があれば聞き出すつもりだったのだ。
夕月が霊力を失ったことは絶対の秘密であるため、大臣たちには地方の村々の視察に行くと伝えてきた。
幸い、彼が王となってから、対岸に足を伸ばしたことは未だなかったため、誰もその理由に疑問を持つ者はいなかったようだ。
大事にならぬよう、できれば単身で行動したかったが、王である自分がそのようなことをすれば、逆に色々勘ぐられ、面倒なことになりかねない。
そのため彼は不本意ながら、立会の役人と、最小限の護衛兵を連れて船に乗り込んだのだった。
まだ青白く冷たい空気に包まれた湖上を、彼らを乗せた船は、微かな波音を立てて滑るように進んで行った。
湖であると聞いてはいても、海にしか見えない広大な湖面を、覇夜斗は目に力を込めて見つめていた。
夕月が霊力を失い、神託に頼れなくなった今、何としても今回の危機は、己の力だけで乗り越えなければならない。
背後からは夜明けの太陽が、彼の決意を後押しするように眩しく照りつけていた。
港に着いた一行は、そこに船を停め、湖から東へ伸びる川沿いの道を歩き始めた。
積荷を降ろす男達のかけ声が響いたり、漁師らが釣ってきたばかりの魚を路肩に並べる市が開かれたりと、港町はそれなりに賑わっていたが、内陸に進むにつれ、徐々に辺りは静寂に包まれていった。
すでに高くなった太陽の光が川に降り注ぎ、翡翠色の水面をきらきらと輝かせていた。
薬草を育てたり、薬の調合に用いるのに適した澄んだ川の水と、王都から遠く、中央の目が届きにくいという立地を好み、大陸から来た医師達はこの地に住み着いているのだという。
完全に民家が途絶え、しばらく葦が生い茂る道を歩いて行くと、前方に茅葺き屋根の民家が立ち並ぶ、小さな集落が見えてきた。
村に足を踏み入れた瞬間、家の中や物陰のあちこちから、息をひそめて彼らを見つめる視線を感じた。
全身に白装束を纏った覇夜斗の姿と、武装した兵士らを目にして、皆警戒を強めているのだろう。
覇夜斗は大きなため息をつき、最寄りの家の窓を覗き込んだ。
「誰か、倭言葉のわかる者はおらぬか」
そう声を掛けてみたが、人の気配はするものの、応答はなかった。
「私は出雲国王覇夜斗だ。この村の長と話がしたい」
一瞬、声にならないどよめきが起きたように感じられた。
そのまま、しばらく様子をうかがっていると、どこからともなく一人の老人が彼らの前に現れた。
「私がこの村の長です。このような辺境の村へ、出雲国王様が直々にいらっしゃるとは、いったい何用ですか?」
頭頂部で白髪を小さくまとめた小柄な老人は、そう言って怪訝そうな表情を浮かべて、若き王を見上げた。
「この村に、魏から来た優れた医師がいると聞く。その者に会って話がしたい」
覇夜斗の言葉から、彼らが危害を与えに来たのではないと悟ったのか、一人、また一人と、村人達が姿を現し始めた。
「なるほど」
理由を問われるかと身構えていたが、長は意外にあっさりとそう言い、そばに居た若い男の方へ振り返った。
そして、男に二、三言、小声で何かを告げ、再び覇夜斗の方へ向き直った。
「その者は、ここよりさらに上流の山の中で暮らしております。そちらまで、この者がご案内させていただきます」
長がそう言うと、男は小さく頭を下げた。
長が案内に付けてくれた男に導かれ、覇夜斗達の一行は、川沿いの道なき道を歩いていた。
上流に向かうにつれて川は幅を狭めてゆき、うっそうと茂る木々に囲まれた沢は、冷ややかな湿気に包まれていた。
岩の間をうねるように流れる川縁には、鈴なりに咲く紫色の花が点在していた。
その花に覇夜斗は見覚えがあった。
この花の根から作られる毒は附子と呼ばれ、矢に塗って、戦闘や猟に用いられるのだ。
彼の故郷の村人達は、生活の知恵として日常的に使っていたが、王都では、その毒性ゆえに専門の役人の手によってのみ生成され、出来上がった毒物は、厳重に管理されていた。
さらに奥へと進んでいくと、やがて、附子の花や、彼も見たことがない大輪の白い花に囲まれた、今にも崩れ落ちそうな、古い茅葺き屋根の家が見えてきた。
「先生! 董丹先生!」
案内人の男は、家の戸口へ近付いてゆき、大声で家主の名を何度か呼んだが、反応はなかった。
首を傾げながら家の周囲を見て回る男の様子を、覇夜斗は少し離れた場所から見守っていた。
ふと、そんな彼の背後から、草を踏みしめ、何者かが近付いてくる気配がした。
「どなた様かな」
振り返るとそこには、草花が詰まった大きな籠を抱えた、白髪の老人が立っていた。
「あなた様は……」
覇夜斗の顔を見た瞬間、驚きの表情を見せた老人は、手にしていた籠を落とし、地面に色とりどりの草花が散らばった。
護衛兵に外を見張っておくように命じた覇夜斗は、単身で老人の家へ足を踏み入れた。
そうして部屋の一角の蓆の敷かれた場所へ導かれた彼は、そこに置かれた座卓の前に腰を降ろすと、ぐるりと室内を見渡した。
外からの印象と同様、室内も粗末な造りではあったが、処々に置かれた調度品は魏の物らしく、洗練された意匠が施されていた。
天井いっぱいまで設えられた棚には、木製の巻物が無数に積み上げられ、卓上には薬草を磨りつぶす鉢や秤など、調剤に使うと思われる道具類が無造作に置かれていた。
土間には先ほどまで老人が抱えていた籠が置かれ、その中に詰められた刈られたばかりの青い草の匂いが、室内には充満していた。
「王が直々にこのような場所を訪ねて来られるとは、ただ事ではありませぬな」
土間の竃で湯を沸かしながら、老人は背を向けたままそう言った。
まだ自分が王であることはおろか、何者であるかさえ伝えていなかった覇夜斗は、怪訝そうに眉間を寄せて、やせ細った老人の背を見つめた。
麻製の上下に分かれた着物を身につけた老人は、長い白髪を背中に垂らし、顔周りの髪を頭頂部で小さく丸めていた。
「なぜ、私のことを?」
「王にしては、妙な姿をされておられますがなぁ」
覇夜斗の問いには答えず、老人はそう言ってくっくっくっと声を殺して笑った。
やがて、茶を満たした白磁の湯呑みを盆にのせ、老人は座卓へと近付いて来た。
「前王が甦って来られたのかと驚きましたぞ」
覇夜斗の前へ湯呑みを差し出し、老人は再びおかしそうに腹で笑った。
「父に会ったことがあるのか?」
探るような視線を老人に向けて、覇夜斗は問いかけた。
そんな彼と座卓を挟んで向かい合い、腰を降ろした老人は、ゆっくりと湯呑みを持ち上げ、茶を口に含ませた。
「父王も生前、何度かこちらにおいでになりました」
「……」
「どうやら、媛巫女様に神の声が聞こえなくなったようですな」
目を見開く覇夜斗の前で、彼は目を閉じて、胸まで伸びた髭をなで下ろした。
「離れて暮らしていても、親子とは不思議と考えも似るものなのですなぁ。まさか同じ行動をとられるとは」
「……?」
「父王もその昔、お妃が霊力を失っていることを知り、流行り病を収束させようと、こちらを訪ねて来られましたのじゃ」
老人が語った父王の意外な過去に驚き、覇夜斗は一瞬言葉を失った。
だが、すぐに表情を固め直した彼は、身を乗り出してにやりと笑った。
「それなら話が早い。最近、出雲の西にある村で奇妙な病が流行っている。その治療法が知りたい」
不敵な笑みを浮かべてそう言う覇夜斗の顔を見つめ、老人も口元に笑みを浮かべた。
「ふふふ。お顔はよく似ておられるが、父王より気が短いと見受けられる」
そう言って老人は、再び湯呑みを口元へ運び、茶を喉に流し入れた。
夕月が霊力を失ってから、密かに病の情報を集めていた覇夜斗は、宮廷に仕える新羅の医師より、この老人、董丹の噂を聞いた。
その者の話では、この男は少年期、後に初代魏王となった曹操に仕える医師の弟子であったらしい。
華佗と呼ばれていたその医師は、魏でも伝説的な名医で、麻沸散と呼ばれる秘薬を使って、患者に痛みを感じさせずに腹を開き、病を治療することができたという。
だが、曹操の意に添わず郷に帰った華佗は、連れ戻されて投獄され、拷問の末に命を落としたというのだ。
華佗は捕えられる直前、弟子に薬の生成方法の書かれた書物を委ねようとしたが、罰せられることを恐れた弟子の妻がそれを焼き払ってしまい、その製造方法は師匠の死とともに、永遠に闇に葬られてしまった。
董丹は師匠が作った秘薬を再現しようと、曹操の手の及ばないこの地へ移り住み、その生成方法を長年研究しているというのだ。
病の原因を何かの祟りであるとし、祈祷をその唯一の治療法と考える倭人の間では広まることはなかったが、医師としても数々の難病を治療してきた彼の名は、王都に住む渡来人達の耳にも入る程評判になっていたようだ。
おそらく父王も昔、妃となった紫乃が霊力を失っている事を知り、同じような道筋を辿って、この男を訪ねてきたのだろう。
「それはおそらく、美人病ですな」
覇夜斗から病について冒頭を聞いただけで、董丹は腕を組んで、大きくうなずきながら言った。
「美人病? 本当にそのような病があるのか?」
「とうとう、倭国にも入ってきましたか」
驚いて問い返す覇夜斗から目を逸らし、老人は難しそうな表情を浮かべて、長いあご髭をしきりに撫でた。
「患者には、透き通るように肌が白く、ほっそりとした体つきで、黒目がちな美人が多い」
董丹が語った患者の共通点は、覇夜斗が西の村の長から聞いたものと相違なかった。
「そして、いずれ血を吐き、命を落とす」
「その通りだ。治療法はあるのか?」
大きく身を乗り出し、鼻息を荒げる覇夜斗の顔を見て、董丹は、また、くくくと笑った。
「本当に、お気が短いですなぁ」
「人々の命がかかっているのだ。急いで当然だろう」
どこかのらりくらりとした老人の様子に苛立ちを感じ、覇夜斗は思わず声を荒げた。
「ひとつ、全身の血を抜く」
「……」
「ひとつ、食事を与えない」
董丹が口にした非常識極まりない治療法に、覇夜斗は眉をひそめた。
「そんな治療で……本当に治るのか?」
疑い深気な覇夜斗の表情を見て、董丹は、ほっとため息をついた。
「いえ、いずれも患者は死にます。よかった。あなた様は馬鹿ではない」
「ふざけるな!」
苛立ちが頂点に達した覇夜斗は、腰の剣を引き抜くと、憤怒の形相をして、老人の首元に刃を突きつけた。
それでも董丹は落ち着いた様子で、上目遣いに若き王の顔を見つめて笑みを浮かべた。
「ふざけてなどおりませぬ。いずれも、実際に魏で行われていた治療法です」
「……」
「医者の言う事を妄信してはいけませぬ。その昔、不老不死の秘薬であるという医者の言葉を信じて毒を飲み、命を落とした皇帝もいるのです」
笑みが失せ、真剣な表情で語り始めた董丹の顔を見て、覇夜斗はごくりと唾を呑み込んだ。
「医学は万全ではありませぬ。使い方を誤れば、逆に人の命を奪う恐ろしい技術なのです。今まで通り占いに頼っていれば、少なくとも誤診による死は防げます」
「……」
「神に判断を委ねるのではなく、人が人の命に責任を持つ。その覚悟ができないなら、今すぐお帰り下さい」
そう言って覇夜斗を見つめる老人の細い目は、冷ややかに光っていた。